意識は無意識が構築した構造化メカニズムであり、無意識に他ならない。従って、自由意志的なものは構造化メカニズムそのものではない。意識は無意識が構築した「再構造化のための道具」に過ぎない。自由意志的なものの本体は、むしろ脳という物質性にはダイレクトに現れない。自由意志の痕跡が意識に表れるだけだ。しかし、その自由意志は間違いなく「私」の自由意志である。「私」は自由意志を行使し、意識の「私」が痕跡として、それを知る。
多細胞生物となり、不確実性が増大した結果、再構造化のためのメカニズムの高度化、複雑化が必要になった、ということになる。つまり「私」の自由意志とは不確実性であり、「私」の不確実性とは、自己生成する不確実性なのだが、この不確実性は、細胞の数だけある自己生成型不確実性に、細胞の数だけある自己生成型不確実性が乗算されていく(簡単な構図だが、このようなイメージ)のであって、さらに臓器などの器官の不確実性になるとして、さらにそれらの不確実性が乗算されていくのであって、この不確実性は、ほぼ無限大だ。
物質性でいうならば、自由意志は脳などにあるのではなく、むしろ肉体の全てにある。肉体は精神を表し、病気も精神を表す。
―――
言語的思考は、思考にもう一つの次元を設定してしまうために、統合失調になりやすいと前回書いた。この続きについて。
意識は無意識が構築する構造化メカニズムであり、階層化、フローチャート化、線形化は、最も得意とする分野だ。思考にもう一つ次元を設ける事など簡単にできる。不確実性はフラクタル構造に不要だ。不確実性はフラクタル構造を線形構造にしてしまう。線形構造は未完のフラクタル構造であり、フラクタル構造を追求する「追求型のフラクタル構造」だ。だから時間と未来が必要になる。未来とは予測と計画でしか実在せず、両者は、ほぼ同義だ。意識は無意識の為に、無意識が構築しているのであり、その役目は、「私」の不確実性を予測するためだ。不確実性の予測を確実にするために、生物的合理性=欲望、及び生物的合理性の分化形である合理性がある。
行為の実行は全て無意識の反射反応だ。しかし、指示を与えているのは原「私」だ。
こう考える事ができる。原「私」は観察者であり、無意識が行為者だ。観察の仕方を操作的に変える事によって行為の実行のトリガーを与える。観察の仕方とは、意味即ち時間(あるいは速度)を与える事だ。
たとえば、行動計画は、行動が因果関係に回収され、既にフラクタル構造が決定論的に完結しており、これを実行に移行する必要性が無い。意味を与えなければ、この行為は実行されない。やはり意味は時間と同じであり、もしくは速度と同じではないか?
そして時間も距離も重さもその他の基準的なもの(感覚)の全ては、もっと根源的なもの、ただ一つに還元されるのであり、原「私」は、その一つに意味を与える事によって操作的な観察者として行為を指示しているだろう。
計画や予測と実行には境界があるのであり、速度調整が実行のトリガーだ。この境界を希薄化したり、明瞭化する事は、速度調整の一つだ。つまり速度調整機能に困難性を持つ人は、計画の実行に障害が生じがちであったり、想像と現実の区別なく実行に移行してしまう事が予想される。