新聞記事は近年、大きめの文字のポイント(文字の大きさ)を使う傾向がある。高齢読者を想定していて仕方がないのだが、理解力は小さめの文字の方が圧倒的に高い。これは空間の密度が高まり、文字の境界性が小さくなるためだ。これは「空間の鮮明さが増す」と表現できる。(とりあえず、ここでは空間とするが、この事例は距離の事例だ)
この文字の境界は時間の境界であり距離的境界だ。記憶間の時間誤差を縮小するので、理解容易性が増す。これが鮮明になる、ということだ。小さい文字が見えなくなると、記憶依存が大きくなり、理解容易性が小さくなる。目が悪くなるのは加齢に従うので、記憶力の低下も加齢に伴うため、余計に理解力は低下していくことになる。新聞をはじめ、メディアの文字が全般に大きくなっている事は、人々の言語読解能力を阻害し、それが映像メディアが主流になってきた理由だろう。新聞は迎合主義的に文字を大きくしてきたのだが、それは新聞の性能を落とした。
しかし、距離的境界と時間的境界は、同じように思える。左と右は一度に見れないとして、この距離的境界はどう考えても時間的境界と同じだ。左を見てから右を見るという境界は距離と時間の両方の境界を現わし、また同一の境界といえる。
たとえば、1ページに1文字を書いて、パラパラ絵本のような本を作ったとする。このパラパラ絵本は、距離的境界を時間的境界に変換したのではない。距離的境界が時間的境界と同じである事が、理解しやすくなっただけだ。
最初の事例では、左から右への移動の手続きが距離的単位だが、必然的に時間的単位を要請する。パラパラ絵本は今のページから次のページへの移動の手続きが初めから時間的単位だ。しかし、パラパラ絵本にも、距離的あるいは空間的手続き分は確かにあるのであって、それは紙一枚分の距離的手続き(この手続きは潜在して顕在化しない。次の紙が、ただ出現する事は時空の妥当性あるいは連続性を逸脱するからだ)であり、または紙一枚がめくれるという複合的な三次元的距離単位の変化という空間的手続きだ。しかし、この空間的手続きは、空間それ自体が持つ境界ではなく、距離の境界であり、時間の境界だ。
ただ、距離と時間は別の基準だ。距離は「手続きの数×距離」を現わし、時間は「手続きの数×時間」を現わす。距離も時間も循環論法となる。手続きの数だけが実在し、距離と時間は比例しているだけだ。ここで視点を変えると、「手続き」の性質は、距離と時間を持つ事であり、距離と時間は比例すると定義できる。
敷衍すると、距離や長さというのは、過去の時間の痕跡だ。距離や長さには時間が含まれている。手続きは距離をゼロに戻す理由だ。時間は時間的なものではなく、変化の次元であって、時間は既に多世界への展開を意味する。つまり静止時空がデフォルトであって、これが本来的な意味での世界は一つということになる。次の時空の出現が、たとえ一つの時空しか現実化されないとしても、それは既に多世界への展開であるという意味だ。距離は、この多世界展開の痕跡だ。
重要な事をもう一つ。距離は視覚において顕著に理解される、ということだ。むしろ視覚がなければ距離というものは概念的にも出現しなかっただろうということだ。音も嗅覚も距離を示唆するが、もし視覚がなければ、それは視覚上の距離的な距離としては認識(知覚)されないだろう。この意味ではやはり、距離と時間は分ける必要が無いように思える。視覚がある単位的なものを時間と距離に分離した、と考えるべきではないだろうか。時間的な時間も、距離的な距離も、同一性をもって別のもっと根源的な基準に還元されるべきだろう。この意味では聴覚も嗅覚も味覚も温感も等しく還元されるべきだろう。
視覚的な表象即ち世界と記憶は同じ表象保存装置だが、記憶はフラクタル構造化されている。過去はフラクタル構造化されているともいえる。一方視覚表象の世界は、境界の痕跡が残っていてフラクタル構造化されていない。境界の痕跡とは、不確実性の痕跡であり、自由意志の痕跡であり、意志的なものの痕跡だ。視覚表象の世界は、この世界が自由意志を以て活動できる世界である事を明確に教えてくれる。
空間の境界は距離・時間の境界を除いても、それ自体で独自の境界を持っている。空間には境界が充溢していて、境界だらけ、差異だらけだ。この境界も過去の不確実性の痕跡だ。この空間の境界は、フラクタル構造の逸脱のレベルである。つまり世界全体はフラクタル構造を目指しているが(おそらく、それはは回帰であり、あるいは回収という無意識の普遍的なベクトル性だ。なお、無意識と自然法則は独立しては存在しない事は再三の指摘の通りであり、私の定義する無意識は一般定義とは違うだろう)、フラクタル構造は漸進的に破壊されている。つまり局所性が分離し、独自にフラクタル構造を持ち、さらに局所性が分離し、独自のフラクタル構造を持つ、という事を繰り返している。正確には、フラクタル構造は局所性が分離すると、再び全体性(全体的全体性でも、局所的全体性でも)に接続しようとするが、局所化の進展を阻止できない。漸進的に異化している事は、進化の歴史と、人類の歴史が証明している。
視覚的には世界には、過去の不確実性の痕跡を残した表象が見える。世界は不完全なフラクタル構造となっている。
同時的に、そして対立的に、「記憶」、及び表象化されていない「過去」(記憶と似ているが、生物的な意味だけではなく、世界の生成原理的な意味である。)は、フラクタル構造化されている。我々が見ている世界は、表象化された過去の世界の局所性だ。過去は既に「今」、回収されて決定論になっている。だから脳科学の立場で検証すれば、我々には自由意志が無いと実証される事になる。つまり非表象的「過去」はフラクタル構造だ。ある出来事から、過去の全ての歴史を導くことができる。ただ、我々は表象に依存するので、過去の全てを精緻に知ることは出来ない。
視覚的な外部表象と、記憶及び過去は、同じ世界を共有しながら、片方は不完全フラクタル構造で、片方は完全フラクタル構造だ。視覚的には「今」しかないので、フラクタル構造化ができない。つまり時間が無くてはフラクタル構造化できない。ここでは時間がフラクタル構造化に必要だ、ということになる。また、現実の固定性ひいては不可逆性が、フラクタル構造を阻んでいると見る事もできる。距離はフラクタル構造化を阻止する理由であり、逆説的にフラクタル構造へ回収される根拠である。重さも温度もそうだ。世界全体についての、ある瞬間を切り取った時、その静止時空は全体としてフラクタル構造だ。全ての部分は、他の全ての部分を決定づける。しかし、距離は視覚的なフラクタル構造を阻止している。または他の感覚でもいいが。この静止時空のフラクタル構造は、フラクタル構造を証明するための手続きが必要であるということだ。
視覚的な外部表象は、不確実性の痕跡であり、自由意志の痕跡であり、あるいは意識的なものの痕跡だ。この不確実性の痕跡を含む不完全なフラクタル構造に存在する不確実性を理解可能にした時に、フラクタル構造に接続している。見えるものは、既に理解されたものである。また理解可能であるからフラクタル構造に接続するという表現は、むしろフラクタル構造に接続できるものは理解可能である、と表現した方がいいかもしれない。既に表象として見える事で最初の理解が達成されている。これは一次的な構造化だ。この理解は、知る事、ただそれだけでいい。つまり知覚し、過去とする事(実際には前記の通り、過去となったために知る)が、そのまま理解である。過去となる事が決定論への接続であり、フラクタル構造への接続であるからだ。これは一次構造化だ。このプロセスの説明は、世界が独立して存在しているとした場合の説明であり、実際には写像であり、無意識の投影だと考えている。過去は生成され意識の「私」が知る。しかし、生成される前に決定しているのは、原「私」である。
二次構造化は再構造化だ。表象は、不完全フラクタル構造なのであり、これを完全フラクタル構造にする行為的・観察的・思考的作業が再構造化である。これは無意識の指向性であり、ベクトル性(前回記事参照)と表現できる。
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文字の話に戻る。文字はそれ自体が境界を持っている。ある1文字は境界性がある。単語にすると境界性は無くなる。従って、全く知識の無い他国の言語は境界性しかないので、再構造化はできない。単語は再構造化の結果だ。また一文も再構造化の結果だ。単語も文も段落も本も、フラクタル構造化されている。ただこの再構造化は著者とそれぞれの読者では違う。単語や一文では同一性を持つが、段落や1冊の本に構造が拡大すると解釈の違いという差異が出てくるし、再構造化できない場合もある。再構造化できないとは、理解できないということだ。理解できないとは、小さな再構造化単位=局所的フラクタル構造が、より大きなフラクタル構造に接続できないという事だ。一文の、局所的なフラクタル構造(著者において完成されたフラクタル構造)さえ理解困難性を伴う文章もある。理解力、読解力の差は、参照モデルとなるフラクタル構造を既に持っているか否かだけではない。フラクタル構造間の境界を希薄にするための高密度化ができるかどうかだ。一瞬の密度を高められるか否かである。これは時間と空間の境界を希薄にする事だ。境界性を無くすことによって、より広範で大きなフラクタル構造に接続できるようになる。小さな文字列は、そのような高密度化能力が無くとも、高密度化されたフラクタル構造を見る事ができるという利点を持つのである。
ただ難解な文章は、その文章自体のフラクタル構造を再構造化するだけではなく、展開の高密度化を伴う必要がある。以後や将棋のように、多くのシミュレーションを実行し、そのシミュレーションを高密度状態でできるか否かが難解な文章を理解できるか否かの境界性だ。記憶依存では限界がある。サヴァンや将棋の天才または天才は、この高密度能力に長けているということだ。この高密度な展開は、時空の境界を超越しているのである。
それでも普通の人でも思考は時空を超越し、表象の境界を希薄化している。ただ密度及び範囲の差が能力の差だ。従って言葉を利用した思考(言語的思考)は表象的思考となり、停滞する事になる。局所性に拘束され、思考の進展を妨げる境界を自ら作ってしまう事だ。自ら作った境界を再び希薄化しなければならなくなる。言語的思考は焦燥感によるものだ。つまりベクトル性が強いためだ。遅延割引的衝動だ。その先の思考の展開を待てずに、一刻も早く結果を創出し、一刻も早く過去の因果関係に含めようとしている。これは無意識の指向性に服従しているのである。行為的衝動と同じだ。
言語的思考は短絡に陥りがちだ。つまり全体性が見えなくなる。現実空間における低密度情報をフラクタル構造化するのと同様だ。この場合、思考はもう一つ別次元を設定する必要があり、それは多重思考、思考の二重化を招く。言語的思考が普通だと思っている人は、このために、統合失調症に陥りやすいと言えるだろう。