便を残していった世田谷一家殺人事件の犯人の一人は、大便で世界を再構造化しようとした。しかし、意識主体が大便で世界を再構造化しようとしたわけではない。言葉を話す人間は、言葉で世界を再構造化しようとしている。しかし、意識主体が言葉で世界を再構造化しようと考えているわけではない。この場合、言葉で世界を再構造化しようとしているのは、無意識でありベクトル性だ。排泄物は他の生物に再構造化を行わせるものだ。言葉もまた他者に再構造化を行わせるものだ。排泄は無意識の反射的衝動であり、禁止不可能である。ただ人間においては肛門や泌尿器には不随意筋の平滑筋と、随意筋の横紋筋があり、タイミングを遅延させることは出来る。それでも禁止は不可能だ。ここで排泄物と言葉の違いが出てくる。言葉は、発話において禁止可能であり、また発話後の中止も可能だ。ただ発話もベクトル性の欲求に従う行為であり、会話の継続は反射的行為だ。排泄は人間においては、隠蔽する事が可能だ。トイレは通常個室であり、水洗式であれば流して隠蔽する。トイレがない場合に、例えば山中であっても、便は掘った穴に埋めて、土を被せる。土を被せようとする行為は犬でも行う。つまり犬でも道徳を持っており、ベクトル性の欲求を露呈させないという道徳的行為を既に本能として形式化している。恥の元型を持っている。大便は臭く、また汚物であるという認識は道徳において重要だ。人間において、臭いものは汚物であって、忌避すべき存在であるという感覚を生得的に持っているのはやはり道徳の本能的な形式化によるものだ。大便が臭いだけでなく、グロテスクに見える理由は、それが自らの生物的ベクトル性の発現であるからだ。

 

大便を便器に残したままにするという事は、異常性を持った再構造化の欲求の顕れであり、これは意識主体がベクトル性に乗っ取られている事を示唆する。原始的な生物の習性が現れている。原始的な生物はベクトル性支配である事は前記した通りだ。無意識的生物(完全無意識支配の生物はいない)は、ベクトル性人格が主体性を持っていると表現する事が可能だ。

 

哺乳類のいわゆる動物的行動は、ベクトル性の分岐数に応じた人格(他に表現が無いので動物にも人格という表現をあてはめるしかない)が、欲望別に交代していると見る事ができる。

 

従って、人間のDIDにおける人格の多様性も、ベクトル性の分岐数に対応していると私は考える。ベクトル性がそのままの人格もあるだろうし、ベクトル性に抑制が加わった人格もあるだろう。しかし、起源はベクトル性だ。さらに詳細に分析すれば、ベクトル性事案に過去の不確実性が関与したのであり、不確実性が主体としての権限を持つということだ。このベクトル性主体は主体性が希薄な主体であり、不確実性が希薄な主体だ。主体性を持たない主体である可能性もある。その主体は無意識的主体、因果関係的主体であり、夢遊病の主体でもある。無意識に乗っ取られたロボットだ。つまり、この場合、過去の不確実性は因果関係化されており、無意識支配となる。因果関係化されているので、そこに選択はなく、トリガーに遭遇すれば、因果関係の延長でベクトル性人格が交代する事になる。不確実性に対する恐怖、不確実性に対する過剰な忌避反応、または過剰な感覚過敏反応がベクトル性人格の創出に寄与するだろう。この場合、自らが不確実性そのものであるということさへ忌避されたという事だ。因果関係化された過去の不確実性は決定論的不確実性だ。

 

人間と他の動物との違いは、人間は不確実性の自己生成能力が高いということだ。下等な生物は過去の不確実性事案をベクトル性人格とする傾向が高い。最初の不確実性事案は、自己生成した不確実性であっても、モデル化(因果関係化)され、利用される傾向が高いということだ。この利用されるべきモデルの条件があるはずで、それは世界理解の達成が為された時だろう。つまりフラクタル構造に接続された時だ。この世界理解には必ず、人間社会でいうところの「道徳」が関与しているはずだ。不確実性とは道徳性であり、または道徳を顕現させるための必須な要素であるからだ。つまり、その動物的行為についての理解に達するとは、不確実性の不在、道徳の不在の確信である。これは人間的表現だが、動物にも、あるいは原始的な生物にも、人間表現における、「理解」に相当する神経的活動または化学反応的な活動又は物理的な活動は在るはずなのだ。人間でいえば、道徳の喪失事案とはトラウマ事案、またはPTSD事案に相当する事は自明だ。その記憶の蘇りは、ベクトル性人格の躍動を意味するのであり、DIDの前段階又は前前段階である。トラウマ事案もPTSD事案も超加速度事案であり、高密度、鮮明さを伴う。道徳を失う事が世界の高密度と鮮明さをもたらし、それは世界理解の為になされるということだ。

 

不確実性は、フラクタル構造においては、存在してはならない事であり、一次的には「恐怖」という表現が包括する。二次的にはフラクタル構造に接続する際に、快と不快に加工される。以後、漸次的に加工されて感情になる。ただ、一次段階の「恐怖」とは他に適切な表現がないための便宜的な表現であって、漸次的加工を経た恐怖とは別である。一次的には驚きという表現でもいい。また、むしろ加工されなくてはフラクタル構造に接続ができない、と考えるべきかもしれない。つまりフラクタル構造及び無意識においては、不確実性は理解困難性を持っている。理解困難性とは、本来的には分類のカテゴリーを持たないという意味だ。解析不可能性である。では、分類し加工する事ができるのは、なぜか? これは、行為ベクトルの方向・強度・加減の破綻という変化を分類し、加工しているためだ。ここで不確実性がフラクタル構造化される。即ち因果関係化される。モデル化される。人格化される。人格はフラクタル構造に局所性をもたらす。これはフラクタル構造に対するウィルス的作用であって、フラクタル構造の目的性とは解離する事になる。つまり、その不確実性という局所性を、加工し、全体性として取り込もうとするが、局所性を分解する事ができず内在させてしまうということだ。この局所性は、基底のフラクタル構造と接続してはいるが、局所性としてフラクタル構造を有するのである。従って全体性は崩壊していく。これは進化の流れでもあり、生物の成長の段階(人間においては発達段階)でもある。

 

ベクトル性の惹起はノイズ(不確実性)によって遮断され、あるいは遅延、もしくは中止に導かれるが計画性としては残存する。これは既に回収された不確実性であり、因果関係化である。この因果関係の利用もノイズによって遮断できるが、周期性支配は、ノイズの疎性を意味しており、遮断が困難になるだろう。DIDは、このノイズのまとまった時間単位での喪失だ。あるいはノイズに対する感覚過敏がノイズを忌避回避する習性を生むだろう。それは主体の喪失であり、道徳の喪失だ。

 

世界理解が基底のフラクタル構造に接続される形が通常の人格形成だ。ベクトル性が基底のフラクタル構造に接続している形だ。基底フラクタル構造は従って、出生後まもなくか幼少期に確定し、既定の世界理解が達成されている必要がある。この理解は、一般定義の理解を超越しており、存在の場の確定という意味を持つだろう。従って、この基底のフラクタル構造は溶解・分解されてはならないはずだ。これは言い換えると、この基底のフラクタル構造が人格の核となるのであって、それによって人格が一つになっているのである。この基底のフラクタル構造は容易に溶解・分解されてはならないのだが、たとえ絶望などによって分解され・再構成されたとしても、核となるフラクタル構造が一つであれば、一つの人格である事を維持できる。基底のフラクタル構造に接続できずに、ベクトル性別のフラクタル構造が独立して展開している場合に、多重人格になるだろう。あるいは接続が断絶した場合でもあり得るだろう。人間は欲望が分岐しており、その分、ベクトル性も分岐しているのであって、人間は多重人格になりやすいといえる。

 

 

 

(ウィルスは再構造化のメカニズムとして遺伝子を持っているが、自ら再構造化を行わず、生物がウィルスの再構造化を行う。ウィルスは再構造化のトリガーを持たない。つまり自らベクトル性を持たない。構造だけがある。では、ウィルスは不確実性に依存していると見るか、それとも依存してはいないのか。つまりウィルスは不確実性に期待しているのか否かである。少なくとも必然性を予期していない。再構造化ができない事の代償があったとしても、例えば、完全に分解される事があったとしても、それはウィルスにとって代償的な意味を持つのか。ウィルスは不確実性を取り込まない。フラクタル構造への接続を行わないのであって、ウィルスは不確実性を恐れているわけでも期待しているわけでもない、と言える。人間は不確実性に恐怖だけでなく、期待もする。ギャンブルが好例だ。しかし、期待しているのは二次加工された不確実性であり、因果関係化された不確実性であり、不確実性の本質ではない。)

 

 

排泄による再構造化は、食事のように個体の内的な再構造化ではなく、生物全体としての世界の再構造化という意味を持つ。言葉も同様だ。言葉は聞いてもらいたい時に、他者が、それを取り込んで再構造化することを期待しており、言葉に持たせる性質は大便の臭いやグロテスクさに相当する脚色を含んでいる。それらは誘引的要素だ。理解や同意を求めているのであり、それは自分の理解しているフラクタル構造をさらに他者に拡張する事を目的としている。理解や同意によって自分の構造(フラクタル構造)が他者の構造に接続される事を望んでいるのである。また質問は、他者に内的な再構造化を内省的に行わせて出力させる事を期待しており、食事に相当する内的な再構造化だ。他者によって構造が拡張(接続)されるのか、自身によって構造が拡張されるのかの違いがある。犯人の残した大便は、前者の再構造化であり、他者に取り込まれて再構造化される事を期待している。生物的には、この行動は異常ではないが、人間的には異常である。極めて限定的な性質を持つ人間が犯人の一人だ。この人物は大便によって人々が世界理解を成し遂げる事を期待している。これは、この人物が大便によって世界理解を既に成し遂げている事を意味する。普通は理解できない。だから、この大便は謎、ということになっている。

 

 

道徳の喪失は世界理解、即ち再構造化を容易にする。食事で行われるのは身体的な再構造化だが、道徳を欠いているために再構造化ができる。これは逃れられない肉体的再構造化だ。一般的に世界理解と言う時、再構造化は内的で観念的な思考による再構造化だ。身体的な再構造化は観念ではなく、ベクトル性支配されている細胞や器官のベクトル性人格によって行われているのである。自律神経支配とはベクトル性支配だ。食事を観念的にも再構造化するには、罪悪感や羞恥心を持ってはならない。罪悪感は他の生命に対する罪悪感であり、羞恥心はベクトル性を露呈する事の羞恥心だ。道徳を失った時に、食事は観念的にも再構造化が達成され、世界理解となる。通常、食事の時に道徳を持たずに黙々と食に専念できるのは、道徳を欠如したモデル行動であり、選択を失った因果関係の延長であるからだ。

 

たとえば、成長期に大便の粗相にまつわるトラウマ事案を持つ場合には、世界に道徳が不在である事を知る事によって世界理解が成し遂げられるということだ。この場合、大便を主体とするベクトル性人格が躍動の機会を待っている。ベクトル性に屈した時(大便の粗相)、周囲の人間の非難を受ける事は、道徳の不在を、この人物の世界に確定させる。この人物が、高密度生成の才能を持つ場合には、なおさら、その鮮明な記憶は残り続ける。そもそも世界の高密度生成能力は原始性の名残であり、ベクトル性支配の名残である。大便を残した人物は、高密度生成能力を持つ準天才の資質を持っており、普段は集中力が高いだろう。再構造化の欲求が強く、その能力も高い。本人が高学歴者である可能性もあるが、両親のいずれかは間違いなく高学歴者だろう。この人物は大便で世界を構造化しようという無意識のベクトル性に支配されており、無表情で淡々と大便の話を続けるような人物だ。無意識のベクトル性に支配されているので、それを抑制できない。ふとしたきっかけで誰かに話しているだろう。

 

感覚過敏におけるノイズとは、外在するノイズだ。内在するノイズとは自己生成するノイズであり、「私」が「私」で所以であるノイズ(=不確実性)だ。外在ノイズも内在ノイズも、ノイズとして一括して忌避される傾向があるのではないかと思う。つまり無意識的には、ノイズはノイズ以外の何ものでもないからだ。たとえば、ウィルスの主体は外在しているノイズ(不確実性)だ。

 

知能が高い人はもともとノイズが少ない。知能は再構造化のために在るからだ。再構造化にノイズは不要である。構造とはフラクタル構造が原型であるからだ。それ以外の構造は未完のフラクタル構造、または追求型のフラクタル構造だ。我々は後者のフラクタル構造であり、世界も後者のフラクタル構造だ。未完であるという視座を持てるのは無意識であり、追求するのも無意識だ。これがベクトル性である。生物が不確実性を増大させるに従い(自らも、そして環境も)、ベクトル性が後追いで分化してきている。ベクトル性の分化が先行しているのではない。分化は、不確実性の因果関係化に伴うものだ。この進化的な不確実性の因果関係化は、種の身体的分化(身体構造の分化)として顕れてきている。

 

不確実性は道徳を顕す。従って道徳の起源はノイズだ。しかし、道徳的であり、かつ知能も高い人もたくさんいる。道徳を二次加工しているのだと思うが、この二次加工のプロセスを獲得できるか否かの鍵は、生後の環境にあるだろう。基底となるフラクタル構造が二次加工された道徳を含められるかどうか、あるいは道徳を二次加工するプロセス的なものを獲得できるか否か、この辺りが鍵だ。これは人類全般にも適用できる。つまり不確実性の翻訳機能の獲得である。この機能は生得的なものとは思えない。そう思えない理由は発達障害は遺伝的な素因を持っていても必ずしも発症するとは限らないからだ。これは「考える道徳」だ。考える道徳をフラクタル構造に接続するには、①基底のフラクタル構造に接続可能領域が確保されている事、②不確実性の公平な翻訳機能を獲得している事が必要なのではないかと思う。つまり②の公平である事が要点だ。不確実性が恐怖としてしか翻訳されなくなる経験=例えば虐待は、公平な翻訳機能を障害するだろう。ただ、この基底のフラクタル構造の形態と、その接続方法は、多様なパターンが想定できるので、私の推測はここまでとしておく。