世田谷一家殺人事件とオウム真理教事件、グリコ森永事件との共通項

 

ともに真剣に生きていない人間の仕業だ。当人にとっては現実は、ゲームだ。自由意志を信じていない、決定論的に他責の念が強い、生まれ変わりや来世を確信している、超能力や超常現象にあこがれる。現世をゲームだと潜在的に確信している。そのようなゲーム的な構造で世界理解が達成されていて、超越的な確信が潜在している。超越的である理由は、自分にそのような確信が在る事を信じていないからだ。信じていないとは、「既知の事は知ることもない」という意味だ。この「既知の知」は原生動物を含めて共通なのであって、それは知としては理解されていない。

 

我々は一期一会である。また我々は不確実性そのものだ。不確実性は唯一無二性を持つのであって、二度と到来することはない。

 

世界はゲームではない。ゲームに似ているように感じるのは、むしろ錯覚である。これは不確実性が二次加工されて快と不快に変換されているためだ。不確実性はフラクタル構造を破壊する者として否応なく襲ってくる。そして我々自身が不確実性である。ゲームは簡単に壊す事ができる。漫画やアニメや映画は完全因果関係の成立する完結した世界だ。操作主義者が好む世界だ。あるいは決定論者や予測主義者が好む世界だ。ゲームの本質は不確実性の除去を目指す事だ。ゲームで勝つ事ではない。勝ち負けの快・不快は二次加工の産物であって、因果関係化された過去である。これが不確実性の除去だ。本人は、あるいは主体は勝ち・負けにこだわっているように錯覚する。しかし、それは無意識のベクトル性による世界の再構造化、即ち不確実性の因果関係化であり、これが不確実性の除去に相当する。

 

世界をゲーム盤だと考えているから、予測し、そして過信する。そして不確実性によって予測は破壊される。だから私は、二つの事件とも、いずれ犯人は明らかになると、「予測」しておく。(正確には3つの事件だ。オウム事件は真の操作主義者が明らかになっていない。麻原氏自体は確かに操作主義者だが、教団のテロ指向化は、むしろ麻原氏のベクトル性を操作的に増幅させた結果だと考えるものだ。高学歴者の多い世田谷を拠点に展開したのは明らかに意図的で、発達障害者をターゲットにしていた事を物語るが、麻原氏自体が、それを自覚的に行っていたかが疑問である。なぜなら自らが発達障害者でああり、それを自覚していたとも思えないからだ。発達障害という視座は教団にも麻原にも見当たらない。1990年代という時代背景で見ても、発達障害という言葉さえ全く普遍性を持たない時代だ)。私の予測は、世界の事実的な法則、または構造的で汎用的なメカニズムであって、予測ではない。過信は禁物であり、用心する事は自らのベクトル性を顕現させる事になる。いずれにしろ発覚する宿命だ。


 

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(前々回記事の一部についての別パターンの帰結)

 

 先の大便の事例を挙げれば、大便の排便は、自らが世界創出における決定論的な構造化メカニズムの一部であるという喜びを含んでいる。この場合、自らを因果関係世界の延長線上に置いていることになる。異常性を伴って大便についてしつこく語る者は、予測可能世界を解説しているのである。人間も予測可能なメカニズムの一つである証明を話している。生理的欲求こそ決定論的世界の証拠であるとさえ考えているだろう。排便はベクトル性の衝動であり、この衝動は到達点が必ず用意されている。起点は概日リズムという中周期の周期性だ。到達点までの時間的猶予を一定の範囲で調整できるが、決定論的に到達点がある。予測可能性、操作可能性は最大値になる。世田谷一家殺人事件の犯人の一人(私は複数犯行説を取る)は、便器に大便を残したと伝えられているが、この人物は、大便によって自らが歓喜し、大便を誇示し、大便への賞賛を求めている。完結した作品と同じ意味を持つ。この時、この人物は没入し無意識の支配下にあったのであって、無意識が不確実性の無い決定論的世界を証明しようとしたのである。つまり、惨状を含めた欲望の達成は、自由意志の実在を否定し、因果関係に従った予測可能性界の予言通りの結末を実行したのである。予言者は、個人的な通り魔事件であるならば自分自身だが、世田谷一家殺人事件の場合に、自分である事はないだろう。予言者は、別の安全な場所にいる操作主義者だ。この事件は明らかに計画的だ。ウエストバッグや、包丁など予め用意されている。しかし、残された証拠に見られる非計画性や不用心さは実行者がベクトル性の量的および方向的制御ができない人々(発達障害者、パーソナリティ障害者)である事を物語っている。

 

 未だに犯人が捕まらないのは、事情があるためだ。つまり現状は、この事件と事件をとりまく環境がフラクタル構造化されており、安定しているということになる。事情は、関係者それぞれだろう。このフラクタル構造は時間の経過に伴い、拡大していくが、そのために取り込めない不確実性に対峙した時、その局所性から徐々に決壊していくだろう。「トカゲのしっぽ切り」は通用しない。フラクタル構造である為に、トカゲのしっぽは、しっぽを失ったトカゲの存在を証明し、しっぽを切る理由を露呈する。

 

 現場の状況の不一致性はADHDとアスペルガーの混在を示唆する。つまり、現場には、「注意の散逸」と「超過集中」が混在している。アイスクリーム、パソコンなど注意欠陥的な注意対象の散逸と執着が見られるから一人はADHDだ。大便を誇示した犯人は世界の構造化に異常に執着するアスペルガーであり、解離性同一性障害(DID)疑陽性だ。大便を残した者(DID疑陽性)は幼少期のトラウマ事案を醸成しており、事件当時は少なくとも青年以上である。

 

 DID者は一人とは限らない。被害者宅で犯人が寝た痕跡が報告されているが、これはもう一人のDID者を予想させる。犯行現場で寝た犯人は人格交代により常軌を逸した体力を使った可能性がある。過剰な超過集中状態をもたらせるのはアスペルガーの才能の資質だが、場合によっては精神疾患の原因となる。寝た犯人がDID者であった場合に、このDID者の体格・体力・年齢は、この惨劇の実行可能性を大幅に下回っている。まだ子供だろう。そして、このDID者が低年齢であった場合には、犯行理由は虐待に対する復讐以外には考えられない。復讐には、転移、代替、誤解(騙される。欺かれる)を含む。基礎的な枠組みとしては騙されたと私は考えている。復讐の実行がお膳立てされているからだ。そして、この子供のDID者が犯行計画の起点でなければ、この犯行は計画されなかっただろう。この子供のDID者が参加する理由がないからだ。現場の惨状は復讐である事を顕著に物語っている。

 

 また、トリガーに遭遇しない限り、このDID者は、その交代人格を現わさないから、日常生活に潜伏可能である。両親のいずれかは、地位の高い高学歴者であり、富裕な家庭だと予想できる。また本人も、知的能力は高く、集中作業では特に、その才能を発揮するだろう。

 

 

 この記事は、前回記事を書く前に考えていたものだ。その後、DIDについては再構造化し、別の解釈を見た。新しい解釈の方が、より詳細に論理的に展開できたので、いずれ提示したい。しかし、事件の全体的な解釈の方向性としては、変わらない。

 

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