(前回から続く)従って、通常、意識に現れる「今」は少し遅れている。ボールがゆっくりに見える場合には、世界生成の拘束条件である光速を逸脱したということになる。世界構築とは意識に世界を表わすという意味だ。なぜ光速を逸脱できるのかといえば、原「私」は、この現実世界に実在しているのではなく、実在の場に実在しているからである。光速は現実の拘束条件であり、最適解である。決定論的世界と自由意志を分かつ最適解だ。

 

 そして光速は、時間と到達距離によって規定される速度ではなく、むしろ光速が現実世界の時間と距離を規定している。光速も与えられた基準として在るのではなく、現実生成の普遍的な必然として毎秒約30万キロメートルが導かれる(はずだ)。光速は確定した現実と、未確定の決定論的世界を隔てる距離と時間を表わしている。光速によって世界は境界的に分断される。光速は時空を確定する際に要する手続きの速度を表わしている。もし世界の分断がなければ、自由意志など存在できない。光速は最適解だ。人間は最適解の現実に生きている。何の為の最適解かといえば、道徳が顕現するための最適解だ。

 

 

 直感的に言えば、時間の速度は時間の速度に乗っており、これが時間の相対性だ。どちらか加速したのか減速したのかが分からない。共有時間と意識時間があり、意識時間はしかし、錯覚ではない。共有時間は光速で規定される。意識時間は光速に拘束されず、光速を超越するか下回る速度でも規定される。

 

 脳科学における「ボールがゆっくりに見える」説明において、時間当たりサンプリング回数が増加するという表現は、私も肯定する。ただ、時間の規定が現実に限定される場合は、この表現でもいいが、それでは「ゆっくりに見える」理由を提示しない。ただサンプリング回数が増えるだけで、時間の速度は変わらなくともよい。一歩進んで、サンプリング単位一つ当たりに割り当てられる時間感覚が常に同一であるとしても、その理由をまだ提示しない。時間感覚という速度感の根拠である。前記した通りに時間と同期しているのなら、時間の速度感は感じることはできないからだ。では錯覚だとして、錯覚が生じる必要性は全くない。つまり、真があって、わざわざ偽にする根拠である。水がある速度で流れている時、この水には流れが遅いと錯覚する理由が無い。時間の速度感は錯覚ではないし、もっといえば、この世界に錯覚は存在しない。もし、錯覚というものが存在するのであれば、この世界は全て錯覚だ。実際のところ、一般的な定義でいうところの錯覚が世界を創っているが、この錯覚は否定しようのない現実である。私のいう錯覚は現実と同義だが、一般定義の錯覚とは違う。したがって、一般定義の錯覚は、この時間感覚を説明できない。つまり長く見えるのであれば長いのであり、重く感じるのであれば重いのである。そこには「私」の内在する速度と加速度しか実在しない。他者が短いと言っても「私」には長いのであり、他者が軽いと言っても「私」には重いのである。定規や計測機器に現れる客観的数値は手続きの数に過ぎず、係数は「私」以外の誰も持たない。

 

 サンプリング単位一つ当たりに決まった時間感覚が割り当てられるのでは、意識が「ゆっくり」であると感じることはできない。「ボールがゆっくりに見える」事例は、極めてまれなケースだ。このケースでは時間幅を操作している。そして通常は、サンプリング密度が高まった場合であっても、時間感覚は同じだ。

 

 ゆっくりに見える場合の時間当たりサンプリング密度(私の語彙としては世界生成密度)の増加は、普通よりも長い時間を生きていると表現することができる、と私は考えている。ゆっくりに見える程度は、脳の能力を超越しない、という指摘には賛同しない。ゆっくりに見える事は、既に世界生成のメカニズム、脳科学的には視覚に像が出現するメカニズムにおいて、どこかで光速を逸脱しているだけでなく、時間幅の維持もしくは変更を行っているからだ。

 集中時と、ボールがゆっくりに見えるレベルの超過集中を比較して見る。時計時間当たりの生成密度が増えるのは共通している。集中時には、時計時間の速度は変わらない。意識時間の速度も変わらない。従って、時計時間と意識時間の速度に誤差が無いので遅速の速度感は得られない。ただし、1生成当たりの意識時間幅は小さくなる。

 超過集中時には、時計時間の速度が遅く感じる。これは、意識時間の速度が変わらないためだ。この場合、時計時間の速度は変わらず、意識時間の速度が高速に変わっている(脳の情報処理が高速化)、という相対性によって「世界がゆっくりに見える」、という脳科学的な説明は不公平な説明だ。相対性の偏りを説明する理由が提示されていない。ゆっくりに見える必要性である。ゆっくりに見えなくとも、ただ高速処理すればいいのではないか?通常の集中状態は、その高速処理だ。従って、意識時間幅を維持・調整するための、第三の時間視点または時間操作場が必要になるのであって、それが実在の場である。この場合、超過集中では1生成当たりの意識時間幅は変わらないか、1生成当たりの時計時間幅より意識時間幅が大きくなる。そして集中と超過集中における意識時間幅はグラデーション状に大きくなるだろう。その違いは通常(非才能者、普通の人という意味で)、「ゆっくり」には見えないレベルだと推測される。

 

 私の考えは、これが無意識との同化、一体化であると考える。完全なる同化とはいえないが、同化に近い状態だからこそ、ゆっくりに見える事が可能になる。実在の場に移行しており、原「私」と無意識の境界的な位置に近づいている。世界が「ゆっくりに見える」のは、人間の時間感覚ではなく、もっと俊敏な生物、もっと下等な生物の時間感覚だ。ゆっくりに見える事にはベクトル性があって、それは欲望の成就と見た場合に、完全無意識化の成果だ。しかし、記憶がある事は、完全無意識化を否定する。俯瞰者が位置しているのは、原「私」と無意識の合致点である。従って、欲望の成就を願っているのでは、ゆっくりには見えることはない。この地点は、不確実性と決定論の矛盾的な合致点であり、才能を持つ天才のアスリートしか到達できないだろう。

 

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 離散時空を意識に顕す速度は通常光速である。光速は現実を共有するための速度だ。1手続き(離散時空を意識に顕す)当たりに、光速に基づく時間の速度感は各個人が内在し共有している。その手続き速度が速くなればなるほど、意識は無意識の時空生成の開始地点に近づく。その地点は前記した通り、原「私」の確定と境界的に在る(順番だけが在るという意味で)。

 

 実在の場の原「私」が、世界生成の速度を決定しているのであり、この速度は光速に固定されない。光速の拘束は現実においてのみ適用されている。無意識には、因果関係に従った決定論的世界が予め用意されているのであり、原「私」が確定し、後に世界が生成され意識に現れる。この手続きの速度は通常、現実と同じく光速である。世界生成とは意識に世界を現す事だ。光速で世界が生成されている事を、我々は時間感覚の基本単位としている。変化のない部屋の中では世界生成を感じる事が出来ないので時間感覚が失われていく傾向があるが、これは世界・空間に依存しているためだ。表象依存の典型的、原初的事例だ。

 

 「私」が静止状態でも速度を持つ構造とは、精神的な状態という形而上的な意味ではない。時空が更新(創出=生成=意識に現れる)され続けているという事は、全方位的に「私」が移動し続けている事と同じ意味を持つ。「私」の「今」「ここ」が基準となって、全方位的に移動し続けているという事だ。この構造では、空間の更新と時間の更新は分ける必要がないように思える。ただ世界の更新があるだけだ。「私」が動く時には、加速と減速が全方位的に必要となる。時空の更新は等速的だとすると、この等速的更新の上に「私」の速度的運動が乗る事になる。

 

 私は空間(あるいは距離)こそが順番を持つと考える。空間は空間だけで順番を持ち得る。空間は時間を伴う必要が無い。世界が更新されるとして、この更新に時間が伴う必要が無いという事だ。時間の無い空間が順番や連続性を持って変化するには、変化の妥当性または秩序率というものが割合として維持され続けていれば良い。時間が順番という法則を持つ必要もない。時間は空間の変化を固定する役目であって、順番はむしろ空間から与えられている。時間の役目は変化の不可逆性をもたらす事だ。変化は離散的である事を逃れられないので、時間が変化を離散化したのではない。また変化の離散性は空間だけでも表現できるので、変化の離散性が時間を要求したのでもない。

 

 (空間のもう一つ次元として「変化」を加え、不可逆性という束縛を与えれば、一般概念の時間は不要だ。もし時間が必要であるとするならば、時間は速度を持つ必要がある。そのように考えれば、やはり時間は必要ではなく、変化の速度だけが必要ではないか。また、変化というのは、既に多世界的な展開だ。つまり我々は既に多世界に生きている。多世界でなければ、永遠に一つの時空に凍結されたままだ。※ここは追記部分なので、以下の文章と相反するかもしれない)

 

 時間も空間も変化における断絶性が本質だ。順番とは同一性の延伸的表現だ。順番は同一に引き戻される力が働いている。これが私から見ると私に向かっている加速度だ(これは例えば遠近の勾配に現れている)。私に向かって引力が内在している。連続性は同一性と断続性の中間領域だ。空間はそれだけで同一に戻る力がある。というより、もし時間が無ければ同一に戻る事を勾配は表現している。時間とは、時間的な時間ではなく、単に不可逆性を表わしている。空間に対する束縛として在る。空間は変化で断絶性を表わし、時間は不可逆性で断絶性を表わす。

 

 「私」に向かって加速度が生じているが(逆から見れば「私」から離れるに従い減速度が生じている)、「私」においては等速で世界が更新されている。世界は減速度を伴って「私」から世界が構造化されているが、「私」における世界の構造化は等速である。これは「私」の存在の場と、現実のステージが違うという再三の私の主張を裏付ける。単に主観体験しか体験できないという説明の言い換えに過ぎないのだが、主観体験とはそういうことだ。従って、時間の等速性は「私」において保証されているのであり、時間は「私」が持っているということになる。また「私」が現実のステージのみに実在しているとするならば、時間感覚は生じる事は無い。変化と共に在るからだ。

 

 私に向かう引力という意味だが、例えば私に等速で向かってくる車は、私に近づくに従い加速度をもって速くなる。私から等速で離れていく車は減速度をもって遅くなる。私視点では(実在の場視点)、現実の等速は加速か減速となる。

 

 つまり我々は現実において静止状態でも時空間的な速度を持っている。この速度は光速である。世界生成の速度が光速だからだ。従って、光速は人によって違う。時間は「私」が持っているからだ。時計は時間を表わしているのではない。時計は時間の数、手続きの数を表わしているだけだ。元の時間は教えてくれない。我々は時間を共有しているのではなく、手続きを共有しているだけだ。

 

 我々が考える時間的な時間は、手続きの数であり、速度は手続きの密度を表わしている。速度は「私」において制限される必要はない。つまり、(手続きの数が共有されているとして)、手続き密度(世界生成密度)は「私」において制限されない。また、手続きの数、世界生成の数(サンプリング数でもいい)も制限されない。

 

 そして、この時間的な時間は、時間的な時間である必要が無い。空間だけで表現可能だ。空間には手続きと順番が存在している。ただ、それだけでいい。時間は、不可逆性だけをもたらしている。つまり時間(時間幅を持つ時間、最小単位で構成される時間)は理論的には存在できない。

 

 空間に変化や更新をもたらすに最低限必要なのは境界であって時間ではない。境界は、「不可逆性をもたらす時間」の、原初的時間であり、時間に似ている時間だと考える事ができる。境界は時間以前の時間だ。3次元の境界の本質は手続きの数と順番、4つ目の境界の本質は不可逆性だ。これで現実的な現実が構築できる。

 

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 忙しい時には時間が経つのが速く感じる。退屈な時には時間が経つのが遅く感じる。これは「ボールがゆっくりに見える」事と矛盾しているように感じる。スポーツ選手がボールが止まって見えたり、ゆっくりに見えるのは集中作業であり、忙しい状態に相当する。

 

 これは通常の意識時間感覚が表象依存だからだ。現実の行為や観察における1手続きあたりの速度感が時間感覚をもたらしている。静止状態でも等速運動なのであって、行為は加速に当たる。この加速度が時間感覚を作っている。そして、我々は通常、主として、この表象依存時間の中に生きている。才能を持ったスポーツ選手とは違うし、才能を持ったスポーツ選手でさえも、集中力を発揮する時以外は、主として、この表象依存時間の世界に生きている。「ボールがゆっくりに見える」状態は世界生成密度が高まっているだけでなく時間幅も変更しており、常人や並みのプロ選手でも経験できない。生得的な能力が必須だ。この集中時は想像を絶するストレス圧が掛かっている事が予想される。というのは通常、生成密度の異常な高まりと時間幅の変更は生命の危機的状況において発生するからだ。またゆっくり見えなくとも、つまり時間幅の変更を行わなくとも、世界生成密度が高まった高度な集中状態に意識的に移行する事は、訓練すれば可能になるが、そのストレス圧も尋常ではない。プロ選手の真剣な表情が物語る。普通の人が行う普通レベルの集中も既にストレス圧は高いために長時間は継続できない。我々、人間は、常に真剣である事を止めた生物だ。だから世界生成密度は、他の生物に比べて低い。人間より優れた身体能力、活動能力を持つ生物が、我々と同じ世界で同じ速度で同じ時間で生きていると考えるのは間違いだ。

 

 音について言及すると、この話は長くなるのだが、早い拍数は焦燥感を煽り、遅い拍数は安心感を得る。等速性は両方とも同じだが、密度が加速度を表現している。視覚は、この密度による加速及び減速を緩和している。空間の勾配は、この緩和の法則を表わしている。それでも、改めて世界を見てみると色や形は加速や減速をもたらしていて、それは感情の起伏や行為を促す。音はダイレクトに加速度や減速度を表現していて、人間は可聴範囲を狭める事で、そのダイレクトな加速・減速から逃れているといえるだろう。むしろ、加速・減速は、密度の表現である可能性が高い。この場合、等速は、特定の密度を具体的に規定する事になる。それが光速であると予想する。

 

 焦燥感や恐怖や不安は、短い拍数を聞かせ続ければよい。これは意識を利用したフォーミングに該当し、高密度による加速度を中和する為、逆に密度は低くなり、不確実性世界へ移行する。人間は、中庸の位置に在る。どの位置かは種によって定められているが、生物の世界は決定論世界だ。密度を低くし不確実性世界へ向かった場合に、焦燥感や、不安が生じ、また恐怖事案に遭遇しやすくなる。もともと高密度で世界を生成している事は天才の資質を持ち合わせているという事なのだが、多くの場合は、反動的に不確実性世界へ向かう。この場合は、天才とは逆に、構造化能力が欠如する事になる。

 

 特に音楽で、短い拍数を基調とするロックを好む人は決定論的世界を求めているのだが、これは反動である。不確実性世界に生きているためだ。世界の構造化に困難が生じている。多くの場合は、不確実性世界に生きていると、密度が低く、構造化困難性を感じることになる。構造化困難性によって焦燥感や不安を感じる。精神の病、もしくはその前段階、前々段階ともなり得るが、それは資質次第だ。しかし、これは誰にでも生じている。特に思春期は生物的ベクトル性が強く、これが加速度を生じる。直接的には性欲が加速度であり、光速という基本位置を逸脱しようというベクトル性は性欲の保持とそのベクトル性の力学的量と連動する。ベクトルの加速度は反動で、世界生成を減速させ生成密度を下げる。冷静になることは減速度を生じさせることだ。つまり、人生において、光速の位置を保つのは容易ではないし、またこの内在するベクトル性とベクトル性の出力が社会のダイナミクスを生むのであり、それ自体は非難すべきではない。資質とは、ストレス耐性である。これ以外の何ものもでもないし、この表現が最も相応しい。

 

 ここでフォーミングが意味を持つ。つまりストレス耐性が弱いと、外部に依存して密度を保とうとする。自らを自らがフォーミングするということだ。音楽は象徴的だが、しかし、最も効果が高いと言える。依存体質はこうして作られる。依存体質とは、中庸の位置、光速の位置に、自らの側を保とうとする種の指向性だ。

 

 生成密度を高めると、観察的には世界の鮮明さが増す。思考においては理解力が増す。行為的には時間を制する。いずれも世界の構造化という意味を持つ。次の図でいえば、決定論的世界は構造化が容易で、不確実性世界は構造化が困難ということになる。天才は決定論的世界に恣意的に移行できるために、局所的ではない広範な世界の構造化を成し遂げられる。天才は稀有である。人間は全体性を垣間見る事のストレス圧が尋常ではないのであり(光速から遠のき加速するに従って、そして密度が増すに従って、ストレス圧は増加する。これは種の宿命である)、彼らは類まれなストレス耐性を持っている。しかし、その位置は薄氷的で、綱渡り的であるのであって、何人かの天才は精神を病み(たとえば、数学者ジョン・ナッシュ)、何人かの天才は原因不明の体調不良で身体を病む(たとえば、進化論を記したチャールズ・ダーウィン)。

 

 他の事例はChatGPTに抽出してもらった。

① 精神を病んだ(もしくは極端に不安定だった)天才

 ・クルト・ゲーデル(強度の被害妄想。晩年は「毒殺される」という確信から食事を拒否し、餓死。論理体系の全体性を直接扱った人物→ 決定論的世界の極限構造を見続けた)

・ニコラ・テスラ(強迫症状、感覚過敏、極端な孤独。数字や反復への異常なこだわり。音・振動・光に対する過敏な反応)

・フリードリヒ・ニーチェ(晩年に精神崩壊、過度な思考密度、断片化された言語)

・ヴィトゲンシュタイン(強烈な自己嫌悪、衝動性、抑うつ)

② 原因不明・慢性的な身体不調を抱えた天才

・アイザック・ニュートン(長期間の抑うつ、不眠、食欲不振。激しい対人不信。精神と身体の両側に症状)

・ブレーズ・パスカル(慢性的な激しい頭痛・体調不良。若年期から病弱。数学・神学・存在論を同時に扱う)

・マルセル・プルースト(重度の喘息、感覚過敏、昼夜逆転、記憶と時間の極限的精緻化)

・カフカ(結核。極端な不安、自己否定。世界の構造的圧迫感を作品化)

(以上:ChatGPT)

 

 そして、これは相対性である。我々の存在の場は、現実というステージと真の実在の場の二つある。実在の場は、この世界に外部性を持って実在している場であり、現実に対して俯瞰的であり、操作的だ。

 

 天才に見られる内的構造化と、内的構造化への偏重は精神を病む可能性が高い。一方、天才型アスリートに見られる行為の構造化は精神を侵食しない。例えば、日本では戦国時代を生き残った武芸者、武蔵や柳生宗厳(むねよし)は天才型の行為が先行し、後に時空論を書物に記し、あるいは口伝している。違いは、時間を制する体現者としての自覚の有無ではないかと思う。つまり、行為型の天才は、実在の場に移行していて、自分を失わない。内的構造化はむしろ実在の場への移行を伴わず、無意識との一体性を強めるに止まるということだ。実在の場に移行できなければ、密度超過を俯瞰できない。内的構造化が実在の場への移行を伴うケースは、禅や瞑想がある。しかし、実在の場への移行は限定的であり才能が必要だ。この場合に、欲望(ベクトル性)の完全支配、無意識の完全支配を悟りと錯覚する者が出てくるだろう。密度超過は通常、高ストレス圧を生じるが、このストレスは道徳と欲望との拮抗であり、一線を越えて欲望支配になればストレス圧は消えることになる。たとえば、麻原彰晃氏。この意味では内定構造化タイプの天才や準天才には、もともと道徳性(不確実性)が希薄な人が含まれているかもしれない。

 

 つまり天才はスペクトラム状に位置していて、一概にその習性を表わすことは出来ない。たとえば、準天才である裁判官はベクトル性の制御能力が高く、ストレス耐性も高い。しかし、規範依存型であり、因果関係支配だ。道徳は明文化、表象化された過去の因果関係に依存している。法律も、その一つだ。決定は、法律と判例の理解に依存している。個人のフラクタル構造化された世界理解を、裁判に利用する。フラクタル構造の応用は因果関係の延長であって、選択ではない。規範依存型で世界を再構造化する時、そこに道徳は含まれる必要はなく、むしろ道徳は不確実性である為に不要だ。ここでいう道徳とは社会に顕在化している道徳ではなく、アブダクション的な道徳だ。アブダクション的な道徳も、社会又は個人が再構造化できれば、以後はフラクタル構造に組み込み可能となる。しかし、道徳の再構造化には、ベクトル性(欲望、生物的合理性、合理性)との合致点が必要となるのであって、やはり道徳は不確実性であり、ノイズなのである。だから、法律や判例を逸脱したノイズ(=道徳)を裁判官に納得させるには、ベクトル性との合致を証明する必要がある。裁判においては、合理性だ。裁判においては生物的合理性と合理性は区分されるからだ。しかしながら裁判官はしばしば生物的合理性に支配される事がある、というのは矛盾ではない。生物的合理性と合理性は同根であるからだ。つまりベクトル性は、人間において、生物的合理性(=欲望や感情)と合理性に分化しているのである。これは性欲の分化と同じ意味を持つ。裁判官はベクトル性を生物的合理性から、一見して無機質に思える合理性に方向転換しているという事だ。そして、そのベクトル性の量的なものは、むしろ裁判官は強いといえる。これはベクトル性の方向が違えば、生物的合理性の強い欲求に向かう可能性があるという事だ。ベクトル性の方向制御能力は道徳性の現われともみなせる。しかし、道徳性はむしろ加減の制御にあるのではないか。その量的なものの全てを外在化しない調整能力だ。

 

 これは発達段階にも応用できる。生後から少年期にかけて、世界の再構造化は活発に行われるのだが、この時期にダブルバインド事案に遭遇して世界理解(再構造化の達成)が行われた場合には、合理性のベクトル方向性が失われ、生物的合理性のベクトル方向性に退行するだろう。ダブルバインド事案は、合理性・論理性を逸脱しているからだ。ダブルバインドとは、言っている事が臨機応変的にその都度変わったり、言っている事に二つの意味があるケースだ。

 

 もし優秀な頭脳を持ち合わせているならば尚更だ。凡人は、世界がよく分からないままに人生を終える。準天才や天才は頻繁に世界理解をしているのであり、成長期のダブルバインド事案は、その後の人生を致命的に変えてしまうだろう。

 

 さらに言い換えると、高学歴者は、社会や対人関係に対して、その不合理性を見つける能力に長けているのであって、世界は矛盾に満ち溢れる可能性が高い。フラクタル構造には、その不合理性は不要である。身体における排泄と同様に、社会には廃棄すべき存在が現れる事になる。その不合理性とは、まさに不確実性だ。ダブルバインド事案も、他者が不確実性である事を目の当たりにする事案だ。事案に遭遇しなければ、あるいは事案を知らなければ、矛盾に遭遇して、思い悩むことはない。完全なるフラクタル構造の構築を目指しながら構築できない事に悩んでいる人(それが完璧主義者と一般的には呼ばれている)は、宗教の格好のターゲットになる。また事案に遭遇していなくとも、事案を知らせる事で、悩みを与えて、信者にする事もできる。つまり、高学歴者というのは宗教の主たるターゲットとなり得る。

 

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 世界生成の速度、世界生成の密度、世界生成の時間は、それぞれ独立して存在できるので、実は基準を設けて説明する事が不可能だ。従って一定の矛盾を孕んでいる事を予め了承していただきたい。矛盾の無い完全説明は不可能だろう。逆説的には、この恣意性に自由意志の起源が在り、原「私」が不確実性であり、世界に意味を付与する事によって世界を成立させている事の根拠になるだろう。特に時間は、不確実性そのものだ。我々は同じ時間を共有する必要はなく、ただ手続きを共有するだけで、同じ世界を共有できるからだ。手続きを共有するだけで、光速も共有できる。つまり時間が恣意的であれば、速度も恣意的である。時速150キロのボールが、どの程度の速度なのかは人次第だ。光速は絶対的な感覚を提供しない。

 

 世界生成の速度が光速を超えると、生成密度が高まり、決定論的世界に向かう。無意識との同化傾向であり、世界は因果関係に従った決定論的な世界が構築される。生物的合理性(=欲望)を「私」の意思だと考えるようになり、決定論的結末を導いたのは「私」だと錯覚する傾向が強まる。光速によって世界を生成している他者との乖離が強まる。ただこの傾向は人間にあてはめた場合だ。より原始的な生物は、この決定論的世界に生きていて、意志や錯覚の自覚は生じない。決定論の世界は、現実としては存在できない世界だ。世界は予め無かったということと同じになる。しかし、少なくとも、決定論世界は「1」として残る必要がある。最大速度を超越できる場合には、「世界は予め無かったということと同じ」ではなく、無であるということだ。

 

 世界生成の速度が光速を下回ると、生成密度が低くなり、不確実性世界に向かう。時空の断絶性が高まり、秩序が失われ、構造化が困難になり、生物は存在できない。生物は実在できないので、やはり現実としては(実在的には)、存在できない(この意味は何度も書いたが、現実世界は主観体験でのみ構成されるからだ)。しかし、非実在的には存在できる世界だ。この文章は矛盾しているようだが、非実在的に存在する、という意味は、生物の存在なしで存在し得る世界という意味だ。従って、この世界も現実化される必要はないという意味を持ち、現実である事を証明する観察者が不在である、という意味だ。物質だけで構成される世界は、この非実在的世界だ。決定論世界も生物が存在する理由はなく物質だけで構成されればいいので、非実在的世界としても成立する。

 

 

 図は、フラクタル構造と非構造を対比的に置いた。というのは、フラクタル構造は「構造」の元型であり、構造が目指すべき原初的地点であるからだ。従ってフラクタル構造に対比できる反対概念は非構造である。存在するということは能動的に構造化するという事であり、再構造化する事だ。理解は構造化の成功において生じ、それは再構造化であり、フラクタル構造化である。右の不確実性世界は再構造化が困難になり、最終的には非構造に至る。

 

 光速で生成される世界は秩序ある自由意志が成立する世界だ。と仮定すべきである。「仮定すべきである」としたのは、人間存在の道徳的正当性を確定する事と、論理的帰結の二つの意味が在る。前者は既知であるという意味だ。論理性については斯くの如しだ。世界の非従属性という拘束がありながら、秩序は一方的に世界の側が持っているのではなく「私」の側でも能動的に設定可能で、予測可能性を持っている。「私」は合理性や、生物的合理性に従う必然性は無いが、従う事もできる。他責と自責のバランスがある世界であって、このために道徳が顕現する。

 

 人間は、この光速の世界に生きているが、個人的な資質や状況、環境、外的要因によって、決定論的世界や不確実性世界を往来する。

 

 決定論的世界では、他責の傾向が強まる。意思決定を合理性(生物的合理性の意味だけではない。合理性の全てを含む)に委譲しているので、自責の念が薄れるという事だ(人間においてはだ。原始生物においては生物的合理性に対する盲目的従属の正当性によって活動する事が、自責の念の希薄さを表わす。正当性とは自明であって知る必要のない基準、判断する必要のない基準であって、基準的だが顕在化しない基準だ)。つまり、その結果を世界の責任、世界を支配する法則の責任、生物を支配する法則の責任、無意識の責任、因果関係の責任にする傾向が強い。ストレス事案に遭遇した時に、被操作者意識、被害者意識が顕在化する。責任の所在という感覚、または潜在的な立場の感覚は、人間において意識に現れ、あるいは無意識的な行動指針になる。

 

 

 世界の生成速度が光速を超えたとしても、必ずしも世界がゆっくりに見える必要はない。速度が上がり生成密度が高まる、1生成(1手続き)当たりの時間幅が減少する、これが正常なパターンだ。生成密度の高まりは、他の感覚に還元されればよい。たとえば世界が鮮明さを持つ。理解力が高まる。

 

  生成速度が光速を超えて、光速時のコマ間に新たなコマが生成される。生成密度が高まる。この時、1生成当たりの意識時間の単位が引き延ばされた場合には(つまり通常の意識時間感覚を保つ場合)、ボールがゆっくりに見える事を体験する。しかし、ボールがゆっくりに見える事を体験できるのは、才能を持つ人の極限的な集中時だけだ。時間変更を伴わない場合には、ボールの動きが鮮明に見える事を経験するはずで、この状態は前段階ともいえる。

 

 そして、これは逆説的作用、反動がある。決定論的世界を求めようとすれば、不確実性世界が現れ、さらに、より決定論的な世界を求めれば、より不確実性をもった世界が現れる。このループは悪循環に相当する。このループは決定論的世界に偏重している人が、不確実性に遭遇した時に始まる可能性が高い。

 

 生成密度が下がれば(不確実性世界へ移行)、世界は不安と恐怖で充溢する。時空の断絶性・境界性が高まるからだ。たとえば、道路を横断する時に、何度も左右を確認しなければならず渡るタイミングを失う。何度も手を洗わなければならない。いくら掃除しても部屋はきれいにならない。この断絶性は、観察に留まらない。行為においては緻密さを失う。思考においては、局所性を招き、短絡思考に陥る。全体性を見失い、局所性を以て全体性と見なすので、極度の汎化を招く。たとえば、無関係な人が攻撃者や嫌がらせをする人に見えるようになり、集団ストーカー被害者の認識に至る。

 

 

 誰もが一時的には生成密度の増加と時間の延伸を感じるケースに遭遇する。ある「信じられない出来事」に遭遇した場合に、その一瞬が止まったように感じられる経験は誰にでもあるはずだ。この時間が止まったように感じられる一瞬は、世界生成が光速を超えたのであり、密度が増加し時間幅も引き延ばされている。この一瞬の鮮明化は天才やサヴァンの構造化能力に匹敵する。

 

 

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の恐怖体験又はトラウマ事案というのは、高密度で世界生成が行われた鮮明な全体性の記憶だ。構造化されていて世界理解が達成されている。全体性の理解はフラクタル構造であり、この理解を利用して、全体性を拡張するための世界理解の道具にしている。道具にしているのは無意識だ。考えたくないとか、考えまいとするとか、克服するとか、というのは、別次元の働きだ。無意識は否応なく、理解が達成された事案を世界拡張の道具に利用するだけだ。考えないようにすればするほど、意識に上がってくるという認知的現象は皮肉過程理論として説明される。これは、意識が考えたくない理由は、その事案の理解が反道徳性を持っているからだ。逆に世界理解は反道徳性を持っているので、無意識は意識に上げてくる。無意識が反道徳であることは、無意識主導の下等生物の生存様式を見れば明らかだ。

 

 PTSDでは事案の記憶の断片化が見られるという医学的な提示があるのだが、これは私は事後処理的な結果だと考える。記憶は鮮明であるはずで、この高密度な鮮明さから離脱しようとして低密度を指向した結果が事案記憶の断片化だろう。PTSDでは日常的な健忘症も報告されているのだが、これは低密度で世界生成が行われている事の証明だ。内的な思考なのだが、思考も表象であって、生成されるものだ。密度低下は思考生成に減速が生じている事を指す。減速は鮮明さを失い、思考は断片化する。局所性を帯びて、全体性を失う。短絡思考に陥る。

 

 高密度状態、世界理解、全体性の構造化には、高いストレスが生じる。だから集中状態は続かない。結局は、ストレス耐性に尽きる。世界理解は無意識の指向性なので、生物的合理性、及び合理性を宿命的に自覚してしまうことになる。必ずしも世界理解は成し遂げる必要は無いし、世界理解の意味と位置づけを俯瞰的に知っていなければ、むしろ世界理解は弊害以外のなにものでもなくなる。構造化は矮小であっても、極限的であってもよくない。世界理解の人間における意味が理解されていないのに、事案に対して反射的に加速が生じて世界が高密度となり、理解してしまう事(全体性を構造化してしまう事)にPTSDやトラウマ事案の病理がある。

 

 その事案が意識に上がってくるのは、無意識がこの世界理解を世界拡張の道具としようとしているためだ。さらに推し進めると、むしろ、その事案(PTSD事案、トラウマ事案)が意識上がってきた時に、この事案に主体が交代しつつあると見為す事ができる。これは無意識に拠る因果関係支配だ。主体とは原「私」の事だ。意識の「私」は原「私」の刻印を痕跡として知る。この構造を作っているのは無意識だ。誤解を解くための再三の説明になるのだが、原「私」と意識の「私」は二元論ではなく、今、ここにいる「私」が原「私」である。この原「私」は時間幅を持たない。「私」というものを意識で考える時、既に原「私」は先の今に行っている。意識は無意識が構築した構造化メカニズムであり、意識は無意識のベクトル性(中間的な未分化の指向性としては性欲だ。原初的な指向性としては構造化(フラクタル構造化)である。さらにより起源的な意味は不確実性の消去による完全フラクタル構造化である)の影響を強く受ける。だから、辛い事は避けようとする。このベクトル性は周期性を持っている。思いつくのは、時間、日、月、季節、年。ベクトル性は内在する加速度だ。貼り絵画家の山下清氏の放浪癖は、内在するベクトル性の周期的増幅によるものだと理解できる。このベクトル性は因果関係化された細胞の不確実性ではないかと予想できる。そしてPTSD事案、トラウマ事案も因果関係化された不確実性だ。因果関係化とは、完全性を持つ理解、即ち構造化が達成されたという意味だ。

 

 無意識の因果関係支配、決定論的世界と、原「私」の不確実性は対立構造であり、これは不変だ。無意識は不確実性を求めてはいない。しかし、不確実性事案も構造化されれば、因果関係となり無意識に回収される。因果関係支配と原「私」の対立構造が、上記のPTSD,トラウマ事案、侵入思考として現れる。高密度事案の後に、低密度・減速方向の不確実性に傾くために、代償・反動として、加速度・高密度事案が意識に上がり、中庸が調整される。

 

 世界理解即ち全体性の構造化は無意識の指向性だ。世界理解はむしろ反道徳である。下等な生物は人間よりはるかに世界を理解しているために反道徳的だ。だから戦場に赴いた兵士がPTSDを発症する。反道徳的事案がトラウマになる。世界理解が成し遂げられた時、むしろ、生物的合理性、及び合理性を宿命的に自覚してしまうことになる。だから、必ずしも世界理解は成し遂げる必要は無いのであって、世界理解という意味を俯瞰的に知っていなければ、むしろ世界理解は弊害や苦悩以外のなにものでもなくなる。構造化は極限的であれば精神を病む可能性が高いが、ここはストレス耐性次第だ。

 

 無意識は世界理解を達成した因果関係によって意識を支配しようとした時、意識が抗する事ができなければ、解離性同一性障害(DID)へ移行する可能性がある。ここでいう意識とは原「私」の刻印によってストレス耐性が強化されている、意識の「私」だ。

 

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 ここで高密度事案をもう少し範囲を拡げたい。PTSD事案は加速度・密度が異常に強いが、神経伝達物質の働きを考えると、日常的に相対的な加速度(高密度)事案に遭遇し、日常的に無意識は因果関係支配を行っていると考えるべきだからだ。因果関係モデル、過去の行動モデルは世界を拡張するための道具であり、局所性を全体性に接続し再構造化するための道具だ。求める拡張世界とは、この世界の全てを含んでいる。

 

 ただ、元になるフラクタル構造の形成=世界理解の達成は新生児か幼少期の、通常一回限りであるはずで、後は応用と接続だけだろう。絶望はフラクタル構造を溶解し、新たな世界を構築するが、ここでも、元のフラクタル構造の完全な溶解はないだろう。というのは、発達障害者以外についてである。少なくとも凶行を実行したオウム真理教の信者は、元のフラクタル構造が消失していて、新たな世界を構築していた可能性を指摘したい。

 

 注意の発生は一次的な構造化であり、対象の表象化だ。二次的には、この注意対象を再構造化すべきか否かを勘案しているのであって、それは神経伝達物質でいえばドーパミンの放出にあたる。再構造化とは、一次構造化の局所性を全体性に接続しフラクタル構造化する事だ。

 

 全体性を構造化した記憶=全体性を持つ過去=全体性で理解したモデルは再利用される。たとえば、それは自動行動になる。歩行や、自動車の運転など。たとえば、快楽の生じた事案は世界理解が達成された事案であるために、再び追求するようになると考えられる。身体性の構造化は成し遂げられやすいと言える。因果関係の再利用、過去のモデル利用は、フラクタル構造で世界理解が行われている事を証明している。

 

 自動車の運転や、歩行が自動行動化されるのは、それが局所性としてではなく、全体性として構造化されたことを意味する。それは欲望の一端として構造化されたという事だ。だから生物的合理性に反する辛い事は自動化されにくい。また、辛い事には快楽系神経伝達物質が放出される事もあり(ジョギング等)、生物的欲望に変換される。辛い事は、前回より、辛い行為を実行しなければ欲望となってしまうのである。これは不確実性を因果関係に回収するという事だ。PTSDやトラウマ事案と矛盾しているようだが、実は矛盾しないからこそ意識に上がる。PTSDもトラウマ事案も欲望の一端として構造化されている。言い換えれば、欲望が関与しなければPTSDやトラウマ事案とはならない。戦場に赴いた兵士は、その殺戮が欲望の一端として理解されたために精神を患う。殺戮を望むものも、望まない者も、目撃者は強制的に理解に達する事になる。殺戮が生物的合理性、即ち欲望であるのかいえば、残念ながら肯定せざるを得ない。古来の生贄の儀式や闘技場は強制的に世界理解を成し遂げさせるシステムだ。予想では古代人はPTSDにはならない。道徳が顕現していないからだ。現代は明らかに道徳が顕現していて、反道徳、非道徳は分かる時代になっている。善悪は既に相対性ではなくなっていることに気づくべきだろう。

 

 

 不確実性事案は恐怖だ。無意識は不確実性を恐れる。意識は無意識の指向性を強く受けるので不確実性を恐怖し、予測可能性世界を目指す。不確実性事案は高加速度・高密度をもたらすので、調整のために「私」は減速・低密度を指向する。減速・低密度に傾くと余計に不確実性事案に遭遇する確率が高まり、遭遇事案は高密度・加速度事案なので、「私」は余計に減速・低密度を指向し、不確実性事案に遭遇する確率が高まる。つまり、不確実性事案とは、相対的に恐怖の強度があるのであって、それは世界と「私」の加速減速率に還元できるだろう。

 

 不確実性世界を言い換えると、構造化困難性、理解困難性、予測不可能性、操作不可能性の世界だ。構造化困難性は、依存を招く。減速状態、低密度状態の人間は騙されやすい。しかし、これは不確実性世界に生きているからではない。先の図の基準の位置を大きく逸脱すると、反動のループが生じ、このループの振れから逃れにくくなるという事だ。

 

・ストレス耐性が低いと、減速・低密度となり、反動で決定論的な予定調和世界、予測可能世界を求める。

・アスペルガーは天才を排出するが、この資質とは加速傾向であり、決定論的世界に生きていると表現できる。世界生成密度が高い事、あるいは外的要因に影響されずに恣意的に生成密度を高める事ができる資質だ。天才を隔てる資質は強靭なストレス耐性の有無であって、並みのストレス耐性では弊害となって、トラウマ事案やPTSD事案に遭遇しやすくなるだろう。

・ADHDの特徴の一つは衝動性だ。長期的計画的利益よりも目先の利益に執着する傾向がある。注意対象が頻繁に変わる。これはベクトル性の方向制御ができない事を示している。注意散漫や、蛇口を閉め忘れたり、物忘れが激しいのも、このせいだ。世田谷一家殺人事件では

・アスペルガーもADHDも高密度生成が基盤で、アスペルガーはベクトル性の量的制御に難があり、ADHDはベクトル性の方向制御に難がある。アスペルガーとADHDが併存するのは、いずれのベクトル性の制御困難性も高密度生成が原因であるためだと考えられる。言い換えれば、集中や過集中の状態を随意的に操作できない。

・アスペルガーは内的構造化(形而上的構造化)、世界理解を求める傾向がある。世界構造のフラクタル構造化を求めるので、矛盾や例外の存在を容認できない。

・一方、ADHDは物質的再構造化、世界の物質的再構造化を求める。物質的な再構造化を求めれば、他者の所有物も自分のフラクタル構造に接続してしまうことになる。

 

 同じ逸話を同じ人に何度も繰り返すのは、その逸話が全体性として構造化されているからだ。この場合に、この逸話は単に会話という意味を超越する。この逸話は世界(この世の全てという言い)全体を再構造化するための道具として利用されている。この逸話が主体に代わっていて、つまり無意識支配、因果関係支配の状態にあるともいえる。話者は逸話に利用されている。

 

 しかし、聴衆に向かって話す事は、世界を再構造化しようという目論見だ。例えば、書物を記す事も世界を再構造化しようという目論見だ。また日常会話も、話者は聴者を再構造化しようとしている。違いは局所性の自覚であって、局所性が局所性に止まる事の自覚だ。つまり繰り返される同じ逸話は、フラクタル構造の局所性であり全体性と同一性を持つ逸話として語られている。この人は非自覚的に世界構造を説明しているのである。

 

 

 認知症は減速・低密度事案であって、ADHDの健忘とは分けて考えるべきだ。認知症は世界の希薄化、連続性の消失による世界の不鮮明化が原因であり、ADHDの健忘は注意対象の散逸が原因である。

 

 

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 写実的な貼り絵画家の故・山下清氏についても、山下氏においては時空が高密度で、しかも時間がゆっくりになっていただろうと推測できる。時空には離散時空単位で境界が在り、本来、「今」の注意対象以外の部分は、注意対象とは共存できない。また「今」の注意対象も、直前の「今」から境界によって隔てられていく。通常、全体を一瞬で精緻に精査することは出来ない。空間的にも注視できる範囲は限定的で、また時間の経過に伴って、精査している部分と、精査していない部分の時間的同一性が失われるし、局所的に精査していくうちに、過去の精査の部分が変化している。このため写実性・精緻性は時空の境界性によって失われる。これを記憶で補うにしても、順番の問題はクリアできず、つまり注視部分の順番は依然として境界として存在するので、一瞬の写実性・精緻性は失われる。山下氏の絵画は山下氏の確定直後の世界の全体性を描いている。だから山下氏の感性が映し出されている。写真や映像とは違う理由だ。山下氏の感性とは山下氏の固有のベクトル性だ。もし山下氏の固有のベクトル性がなければ、無機質な写真と同じになるだろう。山下氏は普段はベクトル性を内在しているのだが、山下氏のベクトル性は特定の一瞬に凝縮されるのだろう。

 

 

 

 もし、観察者が脳であり意識であり無意識であるとした時、主体性というものは不要となる。この場合に、世界が止まって見えたり、ゆっくりに感じる必要性はない。たとえば、高知能のAIロボットにおいて世界がゆっくりに見える必要性はゼロであるということに例えられる。このロボットには、ゆっくりに見えるという主観体験が不要だ。さらに、言い換えると、現実というものが不要だ。もっと敷衍すれば、生物が存在する理由が無い。観察者は脳ではないし、無意識でもなく、意識でもない。原「私」が観察し、無意識が現実を構築し、意識に現れる。意識は一番最後だ。脳や意識を調べても決定論的世界や、自由意志の不在が現れるだけだ。

 

 

 行為も観察も思考も構造化だ。理解とは構造化が成功した事だ。時空の生成密度、生成速度、生成時間はそれぞれ独立して成立できる。生成密度を距離と見なすと、他は速度と時間であり、3者は相互に束縛されるべきだ。しかし、密度や速度が決まったとしても、時間が決まらない。

 

 構造化の速度、世界生成の速度が、境界の明瞭性を分かつ。構造化の速度が速くなれば、構造化の時間が短縮すれば、境界は不明瞭になり、より広範囲の全体性が明瞭化し、鮮明化し、同一性を以て現れる。近づくと明瞭になる理由は、構造化の時間が短縮したためだが、この場合代償として全体性は縮小している。通常、構造化の速度は光速だ。

 

 理解とは、再構造化に成功した事を意味する。表象は既に構造化を達成しているが、思考論理はさらにその構造の構造化を行う。これは数学や物理でいうところの次元解析に相当する。比率の比率を求め続ける事だ。

 

 科学者の天才性は、広範な全体性を鮮明に構造化できる能力だ。時空の境界による断絶性を排除できる能力だ。これは広範な全体性に同一性を持たせる事だ。全体性と部分性に同一性を持たせる事、即ちフラクタル構造化する事で、これが「構造化の成功」、即ち理解だと言える。

 

 武道も構造化だ。武道において、焦点を合わせないという教えがある。焦点を合わせるとは注意機能によって「過去」を精査する事だ。焦点を合わせずに見る、というのは「今」を直接的に見る事だ。僅かだが時間的誤差があり、相手に動きが生じた時に時間的利得が生じる。(ここは光速を超越して知る、という事になる)。また焦点を合わせると、ベクトル性を読まれてしまうことになる。達人は「今」の、より精緻な時空を見るだろう。これは世界生成速度を上げる事だが、同時的に世界生成密度を高めている。さらに、観察における世界生成速度を速める事が出来れば、行為の生成速度、生成密度を上げる事もできる。これが時間を制するということだ。その上の達人は、時間幅を制御し、「ボールがゆっくりに見える」と同じ状態に移行する。

 

 原初の構造化、原始的生物の構造化とは何かを考えると、境界を無くすことではないかと思う。離散時空という構造の境界を消し、再構造化を図り再び境界を作る事だ。これも次元解析に相当する。

 

従って、進化の一帰結である我々は、時間の境界性、その分断性を感じる事が出来ない。時間は連綿とした不断の感覚である。また空間や構造物の境界性や分断性も、そのほとんどを感じる事が出来ない。空間は連綿とした不断の空間であり、部分は連綿とした不断の部分であり、物体は物体として不断の物体である。充溢している境界性は高度に隠蔽されている。

 

 時空の離散化が原初であり、(この場合に時間はなくてもいいのだが)、離散化されている時空が最初の境界性だ。この時空は全体性を以て同一性を持つ。部分を切り取って境界性を持たせても、部分の全体性を以て部分は全体性を持つ。全体性を以て同一性を持つ事が構造化だといえる。全体性を、境界性で切り取って部分とするには、差異が必要であり、それが感覚が多様化、複雑化してきた理由だと考えられる。境界を作っても再び全体性を持つという循環が、進化の歴史、感覚器官の歴史ではないか。

 

 計画性とは、時間を切り取って離散単位とする事だ。集合に全体性を持たせて同一化する、これを集合的離散化と称するのか、離散的集合化と称するのか、それが原「私」と無意識の立場の違いを表わし、構造化が境界を作る事と同一化を図る事の矛盾的同一性を持つ事を表している。

 

 発達障害者は明らかに分断されていて、構造化に失敗している。特定の分野で才能を発揮する場合が在るのは、構造化能力に優れているが条件付きである事を示している。世界生成密度が高く、図で言えば左側の決定論的世界に存在する。構造化の失敗は、右側の世界に存在している事を意味する。この矛盾の解明と整合性が必要だ。

 

 恐怖・絶望に遭遇すると、瞬間的に、世界生成密度が上がり、同時的に意識時間幅も長くなり、以後も、この状態が続いて、生成密度は内在するのではなく、右側の世界に移行して、構造化を失敗する傾向が出てくる。不確実性を回避するために、生成密度を下げた結果、不確実性に遭遇するケースが増えるという悪循環に陥るのである。生成密度が下がれば、世界は予測不能性を強めるからだ。

 

 世界生成密度が高く天才と同じ資質を持っているが、「私」が存在しないので、速度制御や時間制御ができない。これは結果ではないか。生成密度が高く、世界が鮮明である事は、人間の神経、脳ではストレス圧が強すぎるということだ。これは感覚過敏として現れる場合も在るだろう。人間の脳は健常者の生成密度で耐えられる仕様になっている。この結果の障害は様々に考えられる。天才は、脳の仕様、生得的な器が突然変異的にストレス耐性を持っているのであって、極めて稀にしか出現しない。ただ準天才は、頻出する。裁判官や弁護士、国家公務員の上級試験合格者、東大入学者などは準天才であり、天才である場合もある。

 

 他の生物、昆虫、例えばゴキブリの反応の速さを見ると、擬人化すれば、彼らは常に恐怖と驚きの中に生きている。これは世界生成密度の速さを物語る。また、その俊敏性から考えると、基準速度が光速ではない事は明らかだ。恐怖とは不確実性と同義である事は以前に示した通りだ。決定論的世界に生きているレベルによって、不確実性に対する恐怖のレベルが上がる。より決定論的世界に生きている事とは、より世界生成密度の高いレベルに在るということだ。下等動物は、常に加速度が生じていて、調整的に減速を生じない。この調整的な減速能力の向上が進化であり、これが自由意志の起源ではないか。

 

 私が過去に書いてきた「意味」とは、この減速能力か、加減速の操作性、あるいは時間ではないかと思う。「意味」は基本単位の絶対値に代わるものとして私は考えてきたのだが、それは時間が包括し、光速が基準となって、全てに適用されるのかもしれない。下等動物と人間との違いは、減速能力の優劣だ。世界理解は下等動物の方が自明的に、先験的に理解している。無意識的理解であって、知る必要のない理解だ。純粋知性は、構造化のために利用されていて、人間のように意識に上がって、意識的な知性として利用される必然は無い。従って、ゾウリムシの純粋知性は、人間の意識的知性をはるかに凌駕する。原始的生物の知性(たとえば粘菌は鉄道網最適化問題と同等の解を生成する)を我々は驚くが、それは我々の意識的知性があまりにも低いからだ。人間が優れているのは意味理解だ。従って、減速能力、あるいは速度の操作性が意味理解に貢献している事が分かる。また意味理解が道徳をもたらす事も分かる。純粋知性は世界を決定論的に構築するための全ての法則だ。

 

 

 

 驚きとは境界の遭遇と、その修復作業である再構造化の指示だ。反応や反射行動は、その再構造化そのものだ。人間においては観念的に行われる場合もある。つまり行動とは、再構造化であり、また生物の活動全体、食事や排便も含めて、全てが再構造化である。人間においては、再構造化の方法に思考も含まれる。境界を見つけた時に、世界の再構造化を、決定論的世界の内的構築である、思想や想像や妄想によっても行う。それらの思索と科学的探究、因果関係の構築は明確には分離できない。たとえば、この分類の定義は再構造化を意味する。妄想の再構造化が全体性を以て理解されれば、疑いを生じる余地は全くなくなる。

 

 理解とは、再構造化の一応の終端だ。境界は不確実性であり、生物は世界の構造、時空の構造に境界・不確実性を見つけ、再構造化するために存在していると見る事ができる。境界を見つける事とは、先に記した部分を切り取る事と同じ意味だ。境界を見つける事は、自らが世界から異化する事であり、再構造化する事は自らが世界と同化する事だ。自らが異化するとは自らと世界が実在する事であり、同化する事は自らと世界が非実在となる事だ。即ち、構造化は対象(客体)における限定的作用なのではなく、主体と客体の相互の作用を意味している。構造化により自らは全体性と同化するのである。

 

 

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 時空の話で、だいぶ逸脱してしまったのだが、戻したいと思う。

 

 騙しの構造は周期的出現への渇望だ。視覚依存である場合に、似ているものが、同じに見える。似ているものがあるのは空間的な周期性だ。同じものがまとまって在ると、何故か嬉しいと考える。一つでは何も感慨を得ないが、どうでもいいものでも、まとまって存在していると、さらにそれが整然としていると嬉しさを感じる。これは同一性・周期性への渇望だ。同じものがあるのは空間の同一性・周期性を表現するので、この同一性・周期性の感覚を無意識は快とする。そして同一性・周期性を求めさせる。

 

 

 

 一方で人は境界の固定性に安らぎを感じ、境界的なものの自律的動きに恐怖を感じる。線状の生物に恐怖や不気味さを感じるのは、境界は動いてはならない、という規則の存在を示唆する。意識は無意識が構築しており、この安らぎと恐怖の感覚は同一性の崩壊を阻止しようとする無意識の指向性を表わしている。恐怖は不確実性の実在性の感覚であり、不確実性が安定した状態(不確実性が主張しない状態)、または不確実性と確実性が拮抗した状態が境界として現れている。

 

 

 

 視覚が表わす不確実性は、形状、色、明暗、遠近(距離)、運動等々。視覚は一つの感覚器官と言うよりも、多くの感覚、多くのステージを統合した複合的感覚器官だ。これらは不確実性の再配置であり、同一性の系化である。それぞれのステージが境界を作るための差異を与えている。同時に系を作る為の同一性を与えている。

 

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 表象は構造化の道具であり、構造化の素材としての表象素でもある。表象はそれ自体が構造化の法則だ。表象は表象素で構成されるが、集合化してもなお表象素だ。表象素は物質の定義でもあり、存在の定義でもあるので結局は「?」だ。存在の定義でもある為に形而上的でもあり得る。数学や言葉や思考も素材であり表象素である。表象素は素材として構造化され、さらに表象素を構造化するための道具となる。これはフラクタル構造が増殖する仕組みだが、素材的には、または存在的には、または表象素的には何も増えてはいない。再構造化しているだけだ。つまり、表象素が因果関係に回収されていくことが再構造化だ。表象素は現れているが気づかない。表象的なものは、実は知っているから気づくことができる。知らない事は理解もできない。だから我々は、表象を使って道具的に世界を理解しようとしている。表象は表象素で構成されるのではなく、表象素が表象を顕しているという表現が適切かもしれない。

 

 再び戻って、表象は構造化の道具であり素材である。表象は既に構造化のための法則を含んでいる。言葉も同様で既に表象化されていれば構造化されているのであり、そこには構造化の為の法則が含まれている。このため、言葉は言葉を生み出し続ける。思想は思想を生み出し続ける。数字も同様で、数字は既に構造化のための法則が含まれていて、新たな数字を生み出し続ける。総じて私が言いたいことは、無意識の世界生成の法則を表わそうとするのに、数学や物理や科学を利用する必然はなく、言語でも可能であるという事だ。たいずれも、表わそうとするだけだ。表わす事はできない。私は、これまで、無意識は比率や数値しか扱えないと主張してきたが、無意識が数値や比率を利用した計算メカニズムを持っているわけではない。しかし、比率や数値や数字が人間に顕現したのは、偶然ではないし、数字というものは必然性を伴って世界に顕現したと考えるものだ。数字は論理的記号であり、この論理性は生物的合理性が起源である。また言葉も記号であり、同様に起源は生物的合理性だ。

 

 言葉はベクトル性の制御結果を現わしている。制御メカニズムが狭義の普遍文法(チョムスキーが提示した)であり、言語文法だ。言葉は行為の代替だ。例えば、動詞は枝分かれしたベクトル性の方向だ。従って根源は全て生物的欲求である。その他の詳細な分析は切りが無いので、私は枠組みを提供するだけに留める。

 

 合理性と、生物的合理性のどちらが起源かといえば、生物的合理性だ。でなければ生物は出現し得ない。合理性が起源であるならば、生物はおろか、何事も存在する必要はないし、世界も存在する必要はない。生物的合理性とは、ベクトル性であると考える。ベクトル性とは構造化、及び再構造化に向かう線形の性質だ。もし合理性だけであるならば、ベクトル性のような動性は持たず、何事も起きず、何事も動かない。しかし、ここは重要な違いだ。生物的合理性は行為を要請し、合理性は必ずしも行為を要請しない。だから合理性とは、人間的(あるいは進化倫理学的な)な生物的合理性の分化形態である。生物的合理性から無機質性を抽出して合理性としたのは、原「私」である。無機質性とは即ち、動性を除いた生物的合理性だ。具体的には欲望がベクトル性だ。欲望は動性を含むためにベクトル性である。欲望から動性を取り除く手段としては、たとえば言語化がある。ただ「性欲」と「食欲」と言葉にするだけで、それは既に動性を失った欲望の抜け殻であり、合理性だ。即ち、数字も言葉も欲望から動性を取り除くための進化倫理的な意味を持っている。また人工の構造物も同じく動性を取り除いた欲望の抜け殻だ。表象は、内在するベクトル性が出力されて動性を失った合理性だ。それらは合理的で整合性が無ければ、現実世界に実在できない。それらは出力された構造だ。再構造化はこれらを取り込んで消化する事だ。文字や、他者の言葉は、読んだり、聞く事によって再構造化され再びベクトル性を持つのである。外界の表象も視覚に取り込まれることによってベクトル性を持つ。あるいは聴覚や味覚や嗅覚によってである。ベクトル性は内在するものだ。それらの表象は、既に動性を失っているが、ベクトル性の指示を与える。再構造化を促す。

 

 土が肥沃になる。これは原始的な生物の物質的再構造化だ。自らを再構造化し、同時に環境も再構造化していく。摂取は自らを再構造化し、排泄は環境を再構造化する。敷衍されて、感覚は自らを再構造化し、行為は環境を再構造化する。さらに人間において敷衍され、言語や工作物が環境を再構造化する。

 

 排泄物は原初の再構造化の道具である。世田谷一家殺人事件の犯人の一人が、大便を残したことの意味は、世界の再構造化である。自らが住みやすい環境を、“結果的に”構築するための道具である。これは異常性だが、生物的には異常ではない。この生物的には異常ではないが、人間的な異常性に犯人の習性が含まれていて、限定的である。

 

 生物は、自らの環境を住みやすい環境とするために排泄を行うのではない。そのような目的性を生物は持たない。排泄は生物的合理性、生物の宿命的欲求という因果関係の延長だ。しかし、地球は生物の食物連鎖によって肥沃で生物にとって住みやすい環境となっている。生物全体で、地球の肥沃化、地球の再構造化を実行しているのは無意識であり、ベクトル性である。無意識は普遍性を持つ。

 

 人間の精神病理学では解離性同一性障害(DID)は、精神病の一形態だ。しかしながら、原始生物は、主体性よりむしろ無意識支配、ベクトル性支配なのであって、ベクトル性に主体を乗っ取られている、と見なせる。原始的生物には精神が存在しないと見なされているので精神病は無いし、DIDもないと見なされている。DIDは人間にしかないのではなく、DIDは人間において、問題となっているだけである。あるいは人間社会において問題となっているだけである。社会がなければ、DIDの一体どこが問題だというのか?また、もっと絞り込むべきで、道徳的社会、文明的社会が無ければ、DIDは全く問題とはならない、と言うべきだろう。これは精神病全般に言える事ではある。人間において精神病が顕著なのではなく、人間において精神病が問題又は病気とされるだけである。むしろ、人間はベクトル性人格から主体の座を奪ったといえるのではないか。

 

 便を残していった世田谷一家殺人事件の犯人の一人は