命令
比率的価値=数量で表現できる価値。そして表象的世界は比率(倍数を含む)しか表わさない。絶対値は実在できない。もし現実の物理現象が認知と独立していると主張するのであれば、現実には比率しか実在しないと表現できる。しかし、それでは生物はロボットである。私やあなたという存在は実在していない事になる。だから私は物理現象と認知は同一であると主張する。比率に拠っては意識という構造化メカニズムは構築する事が可能だ。それが人間の脳である。従っていずれ意識システムは人工的に構築できるだろう。しかし、それは所詮高度な計算機の域、所詮コンピュータの域を超えることは出来ないのである。表象は道具的にしか存在できない。これは表象は比率としてしか存在できないという意味だ。表象で作った新たな比率=表象も、やはり比率しか表わさず、比率が比率を操作しているに過ぎない。遠近の勾配や加速度の勾配と同じだ。意識システムは比率で構成できるだろう。それは表象的な器に過ぎないからだ。しかし、「私」システムを構築する事は永遠に不可能である事を断言しておく。「私」システムとは、不確実性(及び不確実性生成)システムだ。不確実性の性質から考えれば、不確実性を人工的に抽出する事は不可能なのだから、それは自明である。不確実性とは選択と同義である。確実性とは非選択と同義である。扇風機は扇風機としては永遠に選択できないが、不確実性の存在としては故障という形で選択を行う。不確実性の存在とは、真の実在的存在という意味であり、現実の実在という意味を超越している。物質でさえ、この不確実性を持ち合わせているのだが、不確実性を不確実性として自覚的に行使できない。生物は自覚的に不確実性を行使し、選択しているのである。自覚的であるとは世界を知る事だ。知覚が自覚である。扇風機は選択し続けているから動いているという考え方は間違っている。扇風機としての扇風機は因果関係を提示しているだけで、そこに何の選択も見出すことは出来ない。扇風機としての扇風機は、選択のステージに上がることは出来ない。AIも同様であり、因果関係を提示しているだけに過ぎない。なぜなら記述可能なプログラムで稼働しているからだ。それは活動が理解可能である事、分析可能である事を意味し、因果関係の提示から逸脱できない。不確実性は理解不可能性、記述不可能性、表現不可能性の源泉から生み出されるのである。
命令は因果関係の提示に過ぎない。世界は命令系統で構成されるが、これは表象世界の性質だ。命令に選択を経ずに従属した場合には、これは因果関係の延長だ。命令に抗した場合に選択が行われたことが確定する。命令への従属が選択として行われる場合は、因果関係と選択との合致点でる。選択のステージは命令のステージとは別のステージだ。命令のステージと因果関係のステージは同じである。命令系統と因果関係は同じだと言い換えられる。因果関係の構造には選択はないし、選択が生じることもない。完全因果関係のステージでは全てが一義的に確実に起きる。この一義性が失われるには、別のステージが必要になる。または別のステージが出現した時に、一義性が失われたと言える。別のステージが出現しても、完全因果関係の構造から形骸的に逸脱しない場合に、それは、先に述べた「命令への従属が選択として行われた」場合である。この「命令への従属が選択として行われた」場合と、完全因果関係の構造が、表面的には同じに見えて区別できない、という事が新たなステージが出現し続けている事、即ち選択が行われ続けている事を証明するのである。なぜなら二つの異なるステージが存在しているという事が歴然として推定できるからだ。つまり完全因果関係の構造は、選択によっても維持できるが、選択は表面的には現れない。選択は、完全因果関係のステージとは別のステージにあるのであり、むしろ選択した時点で別のステージに移行していると考えるべきではないだろうか?選択は、つまり不確実性は、外部的に「私」が与え、次のステージとは次の時空、ということになる。
質問・相談
質問や相談は因果関係の提示であり、まだ因果関係の延長線上に在る。回答者に選択を求めている。質問者や相談者は無意識と同じ指向性を持つ事になる。無意識は選択を求める。質問者や相談者は、無意識支配の状態であり、無意識の指向性に従って(つまり欲望に従って)、選択を求めている。質問や相談は、意識に現れる感情と同じ意味を持つ。感情は無意識が提示した因果関係(生物的合理性に基づく)であり、原「私」に選択を求めている。感情は提示されるだけだ。無意識は選択ができない。無意識は因果関係を連続しようとするだけだ。
発話は以前書いた通り、無意識的反射反応として行われる。従って、発話される言葉は因果関係の口述であり、過去の原理である。ただ選択は行われている。どの因果関係を話すかという選択である。この選択は、原「私」による瞬時の選択だ。相手の声に含まれる意味に対応して選択されている。そして回答の声にも不確実性は含まれる。声は整然とした周波数ではなく、ノイズが必ず含まれている。周期的要素(ピッチ・倍音)と非周期的要素(ノイズ)が必ず共存する。ノイズは、呼気の乱れ、声帯振動の不完全性、子音発声(摩擦音・破裂音)から生じる。このノイズが不確実性だ。では「私」が選択しているのではく、与えられているのではないか、という疑問についていえば、原「私」が確かに選択し、しかし、原「私」は時間幅を持たない実在である。しかし、常に今、選択しているのは原「私」であることに外ならない。そもそも細胞や器官の不確実性によって生成されている不確実性が意識主体の不確実性だ。完全体は、意識主体としての原「私」の不確実性だけでなく、細胞や器官の原「私」の不確実性も併せ持つ。ただ意識主体と細胞や器官との連絡経路は、神経系統は無意識支配の合理性に基づく「価値」の情報伝達経路であり、「意味」の伝達経路は神経経路とは別であり、非表象的である事が予想される。ここは静電場が関与している事が予想されるとだけ述べておく。
過去の事実や因果関係は原理的表象であり、世界を構成する物質的表象と同じであり、それ自体は意味を含まない。しかし、意味の索引である。このため、裁判では真実を述べようとしても、意味を伝える事が出来ない事に証言者は苦悩する事になる。短い言葉では意味に近づくことは不可能であるし、意味そのものを形骸的な言語表象でのみ伝える事は不可能であるからだ。言葉の表象の論理性だけで判断する裁判の場では、声が含む意味を裁判官が汲んでくれるとは限らない。裁判記録には意味が失われた形骸しか残されない。
言葉は意味を扱えない。脳は生み出す表象は、全て数値化・比率化の産物だ。言葉も表象も道具性を逸脱することは出来ない。道具性とは、内部に居る者は内部のもの(道具)を使ってしか内部を説明できず(道具性)、この場合に説明は循環論法となるということだ。ある言葉の定義を説明しようとすると、説明するための言葉の定義が必要になるが、この定義の定義づけは無限後退し、最終的には行き詰まる。実在とは何か、我々の起源は何か、何のために存在しているのか、という答えの無い問いに至る。ここで神を想定するか、与えられた世界を想定するしかなくなり、つまり階層性が必然となってしまう。階層性を必然とする問いである事は、問い自体が値を求めているということだ。しかし、我々はこの内部に外部性を持って存在し、世界に意味を与えているのである。この意味が無限後退が求める値に相当するのだが、意味は値ではない。
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遺伝的な原因又はその他の原因で、フラクタル構造の世界に在る場合(自己世界においてフラクタル構造を再現しようという指向性が顕著である場合、世界はフラクタル構造であるという前提条件である場合、他を含む世界をフラクタル構造にしようという意思を持っている場合等々)、あるいは無意識支配に在る場合には、自分の過去の経験を自分の子供に行うので、虐待は連鎖する。また他者に対する復讐も自分と同じ目に遭わせようと考える。因果関係の延長だ。
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変化・違い・同一
選択は、変化の上のステージに在って、変化と同一を支配する権利を持つ。変化や同一そのものは、変化や同一を選択できない。変化や同一のステージでは、変化と同一が在るだけだ。変化するだけであり、または同一であるだけであり、選択は、このステージには存在できない。このステージは、我々が現実と呼ぶ現実である。原「私」はこの現実を内部性として持ち、外部性として実在し、現実に選択をもたらしている。原「私」は上のステージだ。この構造は意識における現実として現れている。また自然法則を含む因果関係も、この現実のステージには存在してはいない。因果関係は現実のステージに表象を伴って、間接的に、その存在の理解可能性をもたらすだけだ。しかも、因果関係は過去にしかないので、次々に更新されていく。しかし、因果関係のステージは、選択のステージの下層であって、同じステージではない。選択によって、過去の因果関係は変わる。選択によって因果関係は表象を伴って現れる、という表現もできる。というのは、選択と因果関係は境界的に存在するからだ。選択は今であり、因果関係は今の境界的な過去に確定する。因果関係は何も決定できない。因果関係だけでも世界は進展することができるが、この世界は決定論的で何も選択の生じない世界だ。従って、我々の住んでいるような世界は現れない。ただ因果関係だけが在ればよいからだ。視覚として現れている現実は、異なるステージの重なりであり、3次元ではステージがあまりにも少なすぎ、現実はいくつもの次元が縮約されていると考えるべきだ。
変化は同一を含むか?
ここでいう変化と同一は分かりやすいように視覚的な変化を仮定しておく。同一が意味の変化を持つ時、同一は変化に含まれる。同一が意味を持たない時、同一は変化に含まれない。変化が意味の変化を持たない時、同一に含まれるかもしれない。変化が意味の変化を持つ時は、同一には決して含まれない。木が成長して大きくなった時に、これを変化と呼ぶ。しかし、ただそれだけでは変化ではない可能性がある。木の形状が変わっても、それだけでは変化ではない可能性がある。また、右の木と左の木が違う木であると見なした時に、右の木から左の木へ、または逆へ、変化したとは考えない事に変化というものの規則がある。つまり、表層的な表象的な変化とは、多次元性の最小化と構造化における錯覚ではないかと直感的に考えているのだが、詳細は私には解説できない。直感的な、構造としては、原初的には(原生動物の世界においてはという意味で)、高等動物より多次元的な世界に在ったのだが(高等動物も同じ多次元世界に在るのだが、多次元が縮約されていない世界という意味で)、この多次元的な世界は、多くのステージからの差異が一次元的に、世界の同一性として現れていたと考える。進化は、この多次元性を含む境界の無い同一的世界を次元に分化していったのだが、3次元というのは縮約と限界を示しているのではないかと思う。限界とは? 空間の次元がもう一つあるとすると、あらゆる事が起こり得て、選択は存在できなくなるからだ。
しかし、私は矛盾的に多世界解釈を否定しない。まず、多世界解釈に対する批判を記しておく。あらゆる選択に世界が付随して分岐するならば、選択者は選択していない事になる。選択者は選択しているように錯覚し、選択した世界は与えられている事になる。この場合に確かに自由意志も無い。ところが、なぜ錯覚する必要があるのか?なぜ我々は自由意志は尊いと考えるのか?多世界解釈で、この問いに答えられるだろうか。私の考え方はこうだ。物質は無限に多世界解釈が可能だ。しかし、生物には多世界解釈は適用できない。ここで以前書いたことを改めて言えば、物質は生物の存在に拠って実在できる(参照:『長さと時間の相対性、時空を創出する生物』)。生物とは物質性がその本質でも起源ではなく、原「私」という不確実性を自己生成する不確実性である。物質が起源となって生物が生まれたのではない。生物の存在が前提とされて、物質の必然が生まれたのである。物質は不確実性を含むが観察者不在では、その不確実性は現れない。自然法則は生物とは独立して存在しているのではない。物質はそれだけでは、非実在的に現実世界に存在しているに過ぎない。現実世界における存在とは、観察者によって観察される実体、または選択者に拠って選択される実体を指す。非実在的な存在とは、現実というステージにしか存在できず、原「私」の実在する選択のステージには立てないという事だ(参照:『意味的同一性、価値的同一性』)。
物質に多世界解釈が可能である、という意味は次のようになる。世の中にはどうでもいい事が無数にある。どうでもいい事、というものを定義すると、価値の非付与、最大化された選択の自由度(どれを選択しても自分に影響しない)、世界の埒外(関与できない知らない事)などが思いつく。自然法則と因果と、非能動的な不確実性によって、物質の状態が未確定で、多世界解釈が可能であるとしても、私の前に出現する以前は、非実在的に現実世界に存在可能性を持っているだけだ。この物質の現実における状態は、想像世界の状態と同じである。世界を拡げるとどうでもいい事は減り、因果が侵入してくるので選択を要求される事になる。
そもそもあらゆる可能性世界が存在しているならば、それらの世界は現実化する必要性が無い。可能性としてだけ存在していればよいからだ。無数の可能性世界の中から一つをシミュレーションする意味はゲーム性の喜びしか見当たらないが、この考え方は思想的で、自己責任性を失った人々や自己責任を逃れようとしている人々の考える妄想に等しい。
(私の現実と変わらぬ世界として存在できる世界としての鏡像世界は併存可能だと考えている。左と右が逆転している世界だ。)
話を戻すと、時間は選択を確定するものとして必須だ。また、ここでステージと空間の次元を分ける必要が生じた。ステージは空間の次元とは別である。ステージは差異のカテゴリーと規定しておく。
変化は違いに含まれる。同一は違いの起源だ。同一の存在条件は、二つ以上が存在している事だ。二つ以上が存在している場合に、同一と差異が生まれる。二つが、一つを起源とする場合に、同一であっても差異であっても矛盾となる。一つしか選択できない状態は矛盾が解消された状態だ。
周期性というのは同一の時空間的発展形だ。時間は同じ間隔を繰り返す。空間を構成する距離も同じ間隔を繰り返す。世界の基盤は同一性を持つ。時空間の基盤は周期的な同一性で構成される。周期性を同一性とみなす根拠は、起源が1である事、1点に収束する事が決定論的に予想できるからだ。加速度や遠近などの比率的勾配が導入されても、系が 1 へ収束することは、数理的構造から決定論的に導かれる。歪みがあったとしても法則原理で規定されるのであれば、やはり1へ収束する。因果関係もまた1への収束を指示している。従って時間と空間、それ自体は変化や違いではなく、むしろ1を起源とした同一性の充溢した状態を示す。時空間は、それ自体ではフラクタル構造だ。先に書いた通り、同一が二つ以上ある場合には矛盾であり、フラクタル構造は矛盾構造となる。矛盾構造には解消の力が働くと仮定すると、この時空構造は1に収束する力、指向性を持っている事になる。
では、この差異で充溢した表象世界は何かと考えると、まず、時空が1に収束する事を阻んでいるということが分かる。又は阻んだ結果がこの表象世界であるという事が分かる。差異が1への収束を阻んでいる。もし、差異が因果的・法則的であるならば、依然として1への収束を阻止できない。差異は非法則的で非因果的である必要がある。つまり不確実性が、間隔に意味を与えて、間隔の最小単位の基準(絶対値に相当するが値ではない)を恣意性(自由意志)を以て決定する事によって、時空の収束を阻止している。この差異としての不確実性は、1を起源とする差異ではない事になる。もし1を起源とする差異であれば、同様に矛盾の解消の力が働き、1に収束しようとするからだ。従って不確実性は、1を起源としない差異なのであって、それは数理的には表現不可能である。また表現や論理あるいは理解は数理的構造であり、この不確実性は表現不可能性、理解不可能性、論理逸脱性を持っていることだけが分かる。
また、時間の矢が一方向である事は、理由なく与えられたものとして存在しているのではなく、1への収束が不確実性によって阻止されている事を示している。
理論や言語、または数式で、抽出可能な不確実性は不確実性の本質を持たない。それは、理論や言語、または数式という、絶対普遍が証明できない道具を使っているという意味において、循環論法となり、依然として道具性を逸脱できない。内部は内部を完全説明できない事が循環論法だ。ここに外部的視点をもたらすならば、不確実性の表現可能な表現は、「表現不可能性」「理解不可能性」であって、それ以上の説明を完全放棄する事だ。この不確実性は自由意志そのものだ。もし、この不確実性が、与えられたものとして在るであれば、それは決定論であり、因果や法則に従属した構造と同様に、やはり1に収束する力が働くからだ。
白い球を、同じ白い球99個に混ぜて攪拌して、最初の白い球を選ぶのはほぼ不可能だ。選んだ球は最初の球と同じである事は確率としてだけ存在する。選んだ球は100分の1の確率で最初の球である。この確率に何か意味があるだろうか?選んだ球は最初の球と同じでいいのではないか?誰が違うと証明できるのか?または誰が同じだと証明できるのか?しかし、それでは駄目な世界に我々は住んでいる。完全なる同一性は実在できない世界である。
私は、時空の座標の変遷という因果関係で表される唯一性(この時空の座標の変遷という因果関係は、過去の不確実性を固定し原理化した因果関係であり、起源は不確実性だ。ただ、この不確実性は「私」の前にこの物質が出現する以前において、「私」にはどうでもいいことに相当し、この物質の変遷は「私」にとって非実在的である。決定論を採用するなら、この物質の変遷は実在であり、この物質が「私」の前に出現した事も決定論的だ。その場合にこの物質は因果によって出現したのであって不確実性を起源としない。決定論ではない事は再三書いてきた通りである)を除いても、同じ性質の球は存在できないと考える。ここでいう性質とは、物質の固有性であり、不確実性であり、唯一無二性だ。従って、我々の世界の規則では、同じに見えたとしても同じである「べき」ではない。これが現実の規則だ。実際には、世界の全ての表象が同じであり、性質も、固有性も表象的には持たないはずだ。表象の内部性に外部性を以て不確実性を持ち、それが唯一無二性を持つ。この唯一無二性が物質が持つ「意味」に相当する。
非感覚的には(感覚器官を利用しない場合を予想するという意味で)、原初の世界は均質で同一のフラクタル構造だ。これは原無意識の世界だ。差異化された何ものも存在しない。また非感覚的に「今」を予想すると(非表象的な世界の想像)、均質ではなく不確実性が充溢している。感覚器官は不確実性によって世界を差異化し構築している。感覚器官は世界を知る為ではなく、世界に不確実性を顕現させるためという役割であるはずだ。視覚という感覚カテゴリーの登場は、視覚を視点とすれば内部の外在化だが、構造的には原「私」が世界という内部を切り離し、原「私」がこの内部性を持つ世界に外部性を以て存在する事を明確にしている。視覚は世界との断絶性を明らかに自覚させ、現実というものに現実感を与える。世界や自然法則が、「私」とは独立して存在しているかのような錯覚、即ち現実感を与える。視覚によって、現実というものが出現したといえる。
世界にはフラクタル構造が散見するが、散見するレベルに留まるのは不確実性のせいだ。もし不確実性が無ければ世界は均質のフラクタル構造のままだ。もしフラクタル構造の世界である場合、先の右の木と左の木は同一であり、成長した木も成長する前の木も同一であり、またそれ以前に木など見える必然性さえない。視覚は、世界の構造の必然を構造化して顕す。視覚がなければ、そこには世界の構造の必然が充溢している事を知るだけであり、構造的世界は現れない。多次元が錯綜した混沌とした世界であって「私」と分離することが困難だ。
という私の解説は納得できないかもしれない。この理解困難性は、容貌失認が理解できないのと同じ意味を持つ。容貌失認は目、鼻、口を認識できても顔全体としての個体認識ができなくなり、知人や家族の識別が困難になる障害だ。このように一般定義を説明しても、理解はできない。これが理解できない事は現実を創る基本的な法則だ。容貌失認という病気は、視覚的世界は「再配置」によるものである、という事を証明しているのである。顔という系における全体性が同一性を失い、パーツという部分系の差異だけが現れている。これはフラクタル構造で世界を構築しようとする無意識の法則の破綻であると見なせる。一方で、フラクタル構造の小さな系が拡大していると見る事もできる。つまり、多様な人の顔という系が一様に同一化された全体性となっているという事だ。これは逆に無意識支配が強烈になっている事になる。私は後者だろうと推定する。精神の病は、無意識支配が優勢になる事によって引き起こされるものだからだ。
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物質の唯一性には我々は表象的にはアクセスする事が困難だ。それは物質が物質である所以であり、物質が物質に留まる所以だ。だから最初の白い球を見つける事が出来ない。しかし、生物に対しては、その唯一性にアクセスの容易性がある。対象が高等生物になる程、唯一性にアクセス可能である。これは生物は進化に従って自らの不確実性を増大させてきたのである。大腸菌を顕微鏡で見ても、個体の区別が困難だが、人間になると、顕微鏡で精査する必要性さえない。
我々が、物質の唯一性、不確実性にアクセスする最良の方法は食べる事である。次いで嗅覚、触覚。視覚は最も、その本質にアクセスしにくい感覚だ。聴覚は、人間のレベルでは物質の唯一性へのアクセスは困難だ。つまり感覚の、唯一性へアクセス可能性には受容帯域の広さも考慮しなければならない。受容帯域とは周波数受容帯域である。聴覚の、聴覚という形態以前の感覚としては、もっとも唯一性にアクセス可能な感覚ではなかったかと推定できる。初期の原生動物においては物質の唯一性にアクセスしていたはずで、その方法は聴覚の元型だろうと推測できる。その唯一性は周期性に紛れているノイズにある。
視覚はもっとも周期性を意識しない感覚だ。明瞭で固定的な再現性を持つ。周期性の起源である同一性が現れる。「視覚」という考え方では、「視覚には世界と同一の情報が現れている」、という二重性を持つ表現になる。世界が在って、視覚が在るという意味の二重性だ。視覚によって、世界は視覚及び自分とは独立して存在する事を確信できる。視覚は等間隔の周期を小さな系で1にまとめている。離散時空が持つ情報を小さな系でまとめ、さらにそれらを小さな系でまとめ、この系の連鎖と集合と拡大で表象が在る。しかし、同時に、最も周期性を意識しない同時に、最もノイズ(不確実性)を意識しない感覚だ。
世界と視覚の同一性はフラクタル構造を現わし、違いや差異は不確実性を表わす。そしていずれも明瞭化(境界性を持つ事)、固定化(不変ではないが不変的な性質)、構造化(合理性、論理性。高い理解可能性)されている。明瞭性は聴覚や、触覚、嗅覚、温度感覚の比ではない。明瞭性は差異の性質だが、固定性は同一性の性質だ。
視覚によって、先に挙げた木の事例のように、違いと変化の違いが分かる。違いの上位概念は不連続性だ。テレビ番組の合間に見える広告は表象的には完全なる不連続性を持つ。ドラマの場面の切り替わりも表象的には完全なる不連続性を持つ。不連続性は、瞬間の世界にも在り、世界は不連続性で構成されている。切り取った瞬間の世界には変化はなく、違い、差異だけがある。
時間が加わっても、連続性が分かるレベルでしか変化が無い。変化には同一と違いが矛盾的に併存している。(後述する内容をここで先んじて書くと(実際には後戻りして書いている)、変化が分かるという事は時間が境界的である事を意味する。また瞬間の全体性を持つ時空が一つの同一性を持っている事も意味する)。以前書いたように、変化の不断性は実在できない。滑らかな変化というものは実在できないという意味だ。変化をどれだけ小さくしていっても、決して滑らかにはならない。従って時空は離散的だ。時間当たりの変化の距離的な限界のスピードは光速となる。光速とは、現実世界を視覚的に構築するのに要するスピードである。見方を変えると、光速は離散時空が、次の離散時空に変化するに要するスピードだ。これは現実のステージに現れる。スピードとは、同一を維持する力と、差異が出現する力の拮抗である。
{ここで私の立場を明確にしたい。この現実についての構造的解釈は、写像世界、投影世界としての見方だ。その素因は複雑極まりない多くのステージで構成される。ステージ、場(field)、次元、これは過去の記事で錯綜しているが文脈によって、定義のようなものを判断していただければ幸いだ。}
視覚に現れる世界は脳が可塑性によって記憶を持つのと同じだ。視覚的な表象世界は脳の記憶の世界を表現していて、記憶より再現性、信ぴょう性に優れる。視覚は固定された不確実性を表わしている。これは原理化された不確実性であり、過去であり、記憶である。見ているのは固定された過去だ。固定された記憶である。見ているものは、今の瞬間に記憶と同時的に成立している。記憶と視覚的世界の二つを同時的に創出している。記憶は原理化されていて時間を含むが、視覚は今の瞬間にしかない。記憶は原理化に従って次の世界を予測可能だが、予測可能に止まる。次の視覚世界は不確実だ。因果に従う理由が無い。従って、記憶の因果に従って出現する事が視覚世界の、拒絶できない前提条件とならなければならない。それでは記憶は、テレビや画面のように決定論的世界を構築する為の、“与えられた”情報に過ぎない事になってしまう。次の視覚世界の不確実性は錯覚に過ぎないということになってしまう。だからシミュレーション仮説が登場する。世界は形骸的にはテレビを見ているように、シミュレーションで構築する事が可能だ。それは数値と比率のみで構成された世界だ。従って、そのような世界は“展開”する必然は全くない。ハードディスクに保存したままで結構だ。シミュレーション世界に決定的に欠如しているのは、「意味」である。意味は、表現不可能性を持っていて人工的に創出不可能だ。世界の不確実性は「意味」に在る。<私は「意味」が何なのかを提示しているのではなく、「意味」がどれだけ分からないのか、を提示しているということになる>
視覚表象の不確実性は境界や色、明暗、形状で表現されているが、これが固定化されているので、我々は、この視覚表象に不確実性が存在していた事を意識できない。不確実性と固定性は相反する性質だからだ。不確実性は予測不能だが、固定性は予測可能である。過去の不確実性を見ているが、ほぼ固定されているので不確実性だとは思っていない。変化のスピードが速くなると不確実性を意識するようになる。たとえば、正面から猛スピードでこちらに向かってくる車は自分に衝突するのか否かに不確実性が含まれるようになる。木の成長過程を毎日見ていても不確実性を意識できないが、撮影して早送りにすると不思議感がもたらされる。この感覚が不確実性を意識した感覚だ。
原初の生物は、周期性とノイズ(不確実性)が混在する曖昧で混沌とした世界に居た。原「私」は周期性から逃れようとし、無意識は不確実性から離脱しようとし、その結果生まれたのが視覚世界だ。しかし、視覚世界は、この対立構造が明瞭に構造化されているに過ぎず、周期性(原理性、因果性)からの離脱、不確実性からの離脱の対立構造は視覚世界に止まらず、現実世界の基本的な力学的構造である。ただこの対立構造は視覚で明瞭化されているにも関わらず、一本化されているかのように見えてしまうのは、脳が無意識支配であり、意識も無意識が構築しているからだ。
境界
視覚はもっとも、その物質の不確実性を把握できない感覚だ。視覚表象は、もっとも表象的だ。表象の表層は明瞭性を持つ。表層の誤差が歴然としている。しかし、視覚表象は物質の唯一性を表わさない。明瞭性とは境界の明瞭性だ。境界が同一と差異の矛盾的併存を表す。水は、全部一様な水に見える=同一性。しかし、水は水であることが分かる=違い(不確実性)。
境界は常に二項対立の中心に在る。二項は比較差異である。差異とは比較差異しかない。同一も比較同一しかない。別の時空間に在る似たものを判別する事は記憶によって比較差異(及び比較同一)を見つける事だ。似たものを並べて判別する事も比較差異(比較同一)を見つける事だが、ここでも記憶が必要だ。一度に二つは見る事が出来ない。では逆に考えると、時空及び空間は、線的な視覚的に明瞭な境界だけではなく、境界で充溢している事になる。この境界は離散時空単位と離散時空単位の間隙である。
話を戻すと、比較差異を発見しようとすると逃げる。また比較同一を発見しようとしても逃げる。一度に二つを見ることができなく、もどかしい思いをした事は誰でも経験しているはずだ。
また二次元的には、境界はなぜ線状であるのか?それとも線状であるために境界となるのか。この境界線は、二項におけるそれぞれの同一性を区分する。二項のそれぞれの同一性は、明と暗や、色など。二項のそれぞれに異なる同一性を与えた時に境界が生じる。それとも境界によって異なる同一性を与えるのか。というのは大便を排出する時に気づいたことがある。大便は構造的であり、境界を持って排出される。「構造的である」とは、境界で区分された差異がそれぞれ同一性を持って構成されている事だ。
雪の中に道が見える。この道は他の雪面とは境界を以て区分されている。しかし、近づいてよく見ると、道の境界は消え、その境界に見えた部分は他の境界を表し濃淡や明暗に変わる。最初に見えた道の境界は大きな系における境界である。近づいて見た境界は小さな系における境界だ。部分がなぜ全体性を表わさず、むしろ全体性を失うのか、と考えると、部分は差異で構成されていて、さらに小さな系まで分割していっても差異で構成されるはずだ。しかし、この差異は一つの系でまとまると同一性を持つが、まとまる前の系とは違う。
さて、境界について考える事は切りがない。以後も考察は続くが、ここで一区切りをつけておく。境界の構造化は難解で、多次元的で私の手にあまる。私は多くの疑問を呈する事に留めて、ここで、結論だけを書いておく。現実が現実である理由は、現実には意味が充溢しているためだ。意味を失えば現実は現実感を失う。境界は過去に与えた意味であり、過去に与えた現実である。過去と今とは境界的に表裏である。今の最前線の原「私」が意味を与え境界的に(時間を持たず、単に順番だけが存在するという意味での境界)、この現実は無意識の原理に回収され過去となる。
騙しの構造
境界は例えば人が「騙される」、ということと関係している。二つの石は違うので判別できる。二つの石が似通っていると判別が難しくなる。二つの石が極小な砂粒で、似ていれば余計に判別困難だ。擬態していて動かない虫は環境と区別しにくい。この虫は物質の性質を真似ている。物質はより表象的である。虫が表わしているのは、視覚的な表象の本質だ。近づいて偶然触れなければ、その擬態は分からない。
視覚表象は同一で在る事ができる。しかし、同時に違って在る事もできる。少し大きな系では擬態の虫の模様は、周囲の環境の系と同一である。特定の場所の環境の系は違いで構成されるのだが、環境のパターンに同一性がある。環境という一つの系は、小さな差異の系で構成されているが、環境の系をまとめると同一性が現れる。その環境は小さな差異や大きな差異さえもあるのだが、全体としては同一性を持っているのである。この特定の場所の環境の小さな系の配置は不確実性を持っているが、全体としては同一性を持っている。小さな系を構成する差異もまた同様に、小さな系全体としては同一性を持っている。フラクタル構造では部分も全体も同一性を持っている。このフラクタル構造の世界観または脳の現実構築の法則が、小さな系の不確実性を消しているのではないだろうか。視覚という、脳の機能的な現象は無意識支配であり、やむを得ないだろう。意識が見ている視覚は過去であり記憶だ。記憶は構築されるものだ。世界が独立して存在しているとしても、ダイレクトに意識に世界が現れるわけではない。
視覚的な同一性とは厳密さを要求しないだけでなく、厳密さを精査できない性質を持つ。なぜか、というのは目が二つしかない、視覚の限界、という物理的、生物的な理由ではない。もちろん精神の問題でもない。視野の範囲で、例えば、目の前の10㎝四方の空間に、二つの似た鉛筆があるとする。両方を視野に収める事ができる。両方を見ている、しかし、精査するには片方ずつでなければできない。これは注意機能、視覚機能の問題ではない。では10㎝四方の空間を我々は比較対象がない場合に、間違いなく精査できるかといえば、やはり一瞬ではできない。そして、比較対象の無い空間は存在していない事を知るだろう。つまり精査においては、似たものを二つ並べて比較差異又は比較同一性を見つけようとしているのと同じことを行わなければならないのである。理由は、境界が在るからである。この境界は、この空間には現れてはいない。これは空間の遠近の勾配が空間には現れてはいない、と同じ意味だ。遠近の勾配は風景に見て取れるが、遠近の勾配をガイドするような線や枠は現れない。これと同じ意味だ。境界の存在をガイドするような線は現れていない。たとえ話に近いのだが(それしか説明する方法はない)、この境界は内と外が在るのであって、精査対象は精査前は外にある。精査後は内にある。内は記憶であり過去である。精査を進めていっても、内に含まれたはずの精査後の世界は再び外に現れる。なぜなら、常に今が更新(創出)され続けていて、我々は「今」にしかいないからだ。つまり、この空間は「既に」時間的な境界によって常に、あらゆる場所が区分されている。厳密には、非実在的に区分されていて、注意が注がれなければ、この区分は機能しない。「既に」という意味は、知る時点では全ては「既に」であり、過去であるからだ。ではやはり、構造的には離散時空という考え方で合っているのではないか。
そして、世界は注意を注ぐ前には全体として同一性を持っている。境界は注意によって非実在的に現れるのである。既に区分されているのではなく、離散時空単位で世界を創出しており、創出する前の世界が決定論的世界だ。この決定論的世界を精緻に見る事は通常できない。曖昧な状態でしか見る事が出来ない。決定論的世界は無意識が因果関係によって非実在的に構築した世界であり、それは非精緻的に見えて細部が未確定だ。未確定であるという意味は、まだ現実化されていないという意味だ。しかし、現実に非精緻的に現れる。この構造では、私のこの仮説は証明できないし、反証もできない。見れば消え、見なければ現れるのである。
写真や映像は確定後の世界を映している。何が確定させたのかとえば、ベクトル性である。それ以外に、可変的要素を確定させる原因はない。このベクトル性は、カメラや映像機器が自己生成的に持っているのではない。予め非可変的なベクトル性として人間が与えているのである。このため写真や映像は、固有のベクトル性によって普遍性を持っている。
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時間
ここで野球選手の「ボールが止まって(いるように)見える」「ゆっくりに見える」ことを考えてみることにする。
たとえば、野球選手には「ボールが止まって見える」、という証言が在る。これは最小単位が意味であり絶対値ではない事を表している。これは主観体験であるが、同時に自然法則は生物とは独立して存在しているのではない可能性を表わしている。可能性に留まるのは、脳の処理能力という理由も提示できるからだ。最小単位を変えたのか、最小単位は変わらず減速度が生じたように見えたのか、という相対的な問題となる。前者は観察者の世界において自然法則が一時的に変わった事を意味し、後者は観察者側の観察能力が一時的に変わった事(感覚の変化)を意味する。両者は観察者において同じ現象として現れる。
どちらなのか?という答えは、以前の記事(参照):『「私」には時間がない。しかし、「私」が時間を与えている。という構造』、『意味的同一性、価値的同一性』)で示した通り前者である。我々は「今」という境界的に時間幅を持たない現実しか知る事はできないが、世界は動いている。世界に存在していて、世界に同期している場合には世界の動きを見ることは出来ないし、時間的世界に連続体として実在することもできない。世界に同期している場合には永遠に時空の一コマに固定されたままで静止状態となる。我々はこの世界に外部的に内在することによって世界という現実の現象を俯瞰的に、かつ操作的に見ている必要がある。魂論ではない。
脳科学の視点からも、ボールが止まって見える現象は説明可能だ。以下はChatGPTの説明の抜粋だ。
「ボールが止まって見える」という感覚は、実際にボールの物理速度が遅くなっているわけではありません。これは高度な専門スキルを獲得した脳の情報処理の変化によって生じます。脳科学的には、以下のしくみが関与しています。1. 予測脳 ― 「見る」より「先に分かる」{脳は入力された映像をそのまま受け取るのではなく、過去の経験(投球フォーム・回転・コース)/文脈(カウント・球種の傾向)/身体感覚(スイングとの同期)を用いて、到来する未来の位置や速度を先取り予測します。専門家ではこの「予測モデル」が極度に洗練されるため、見てから処理する → 予測して微修正する、に切り替わります。その結果、情報処理の負荷が減り、時間が「拡張」したように感じるため、ボールが止まって見える、遅く見えるという主観が生じます。} 2. 時間知覚の変化(時間のスローモーション効果){緊張・集中が極端に高まると、脳の注意ネットワークがフル稼働し、知覚のサンプリング回数が増える/体験をより細かい断片として処理するようになります。これは映像のフレームレートが上がることに似ています。同じ1秒でも「知覚される情報量が増える=長く感じる」ため、動きが遅く感じられる(止まって見える)ことがあります。} 3. 視覚処理の専門化(動きが「滑らか」から「離散」に) {熟練者では以下が強化されます:動きを検出する背側視覚経路(V1→MT→頭頂葉)/速度・軌道を扱うマグノセルラー系|練習によりこれらの神経回路が効率化すると、動きを連続的に追うのではなく重要な瞬間だけを離散的な位置として把握する傾向が強まります。これが、止まっている/点で見える、感覚につながります。} 4. Quiet Eye(クワイエット・アイ)現象{エキスパート選手に共通する特徴として、打つ直前に視線が一点に安定する時間が長いことが知られています。これにより、眼球運動が減る/ぶれが減る/視覚と運動の協調が最大化する。結果、対象が静止しているように知覚されることがあります。} 5. 運動制御の「予測モデル」と小脳{スイングの制御には小脳が深く関与し、未来の位置の予測/誤差の即時修正/フィードフォワード制御を行います。この運動予測と視覚予測が同期すると、脳の内部モデル上では「もうそこにあるはず」となり、実際の高速運動が主観的に静止・減速したように見えることがあります。} 6. 知覚の学習(専門家は「見る情報量が少ない」){初心者:逐次すべてを処理 → 情報過多→ 速く感じる|熟練者:重要な手がかりだけ抽出(フォーム、リリース点、回転軸)/残りは予測で補完。よって神経活動が効率化/ノイズが低減/主観的な余裕が生まれる→ 止まって見える体験が生じる。}まとめ{脳科学的に言えば、この現象は、予測処理の高度化/時間知覚の可塑性/視覚運動の専門化/Quiet Eye/小脳の前向きモデル、が統合して生じるものです。ボールが本当に止まるわけではない。脳が未来を先取りし、処理負荷を減らした結果、余裕が生まれて止まって感じられる、というのが本質です。}(以上:ChatGPT)
この解説は理論モデルであると同時に検証された実証モデルだ。私は、逐一この解説に反証する知識は持っていないのだが、全体に対する反証としてはこうだ。観察すれば、現実のステージの法則に従って、現実に沿って構造化された実証モデルが現れる。決定的な弱点は、前記した通りに我々は現実のステージには立てない、ということだ。しかし、私は脳科学の成果を否定するわけではない。脳科学の成果は、世界という内部を独立的に説明するものであり、私の説明は世界という構造を内部として外部的に説明するものだ。サンプリング回数の増加という考え方は私も同意する。脳科学の説明に欠いているのは、時間感覚、意識時間感覚の不変性についての説明であり、情報量が増えた場合であっても、なぜ通常の意識時間感覚を持っていられるのか、なぜ遅く感じるのかという理由だ。世界側を変更したのかといえば、そうでもない。世界が自分とは独立して存在しているのであれば、世界側の変更が必要だ。しかし、世界は自分とは独立しているのではないということだ。
私の立場を明らかにすると、脳は世界を予測しているのではなく、原「私」のベクトル性制御(方向・量など)を予測している。原「私」のベクトル性の制御を知り、世界を構築(生成)するための予測だ。世界の構築とは、意識の「私」に世界を現すという意味だ。
たとえば、時間の進む速さが二倍になるとした時、我々自身が体感する速度は二倍である必要が無い。世界から独立した外部の観察者でなければ、この二倍スピードを知ることは出来ない。ではその体験している時間の速度とは何か。時間には速度感があり、等速感があり、しばしば速度の変更感を持つ。しかし、客観的視点、現実視点、時計時間視点では、時間には速度など現れない。そもそも外部の観察者以外に時間の速度の変化というものは知ることは出来ない。テレビやパソコンの番組を見ている我々は外部の観察者だから、早送りにしたりスロー再生すると時間の変化を知ることができる。我々が、車が速度を持っている事や、他の車より速い車が走っている事、自分より速い事を知ることができるのは、外部の観察者だからだ。車の搭乗者が知ることができるのは、車の速度感ではなく、風景の移動速度感だ。我々は時間に乗っていて、つまり時間と同期しているとするならば、周りには比較できる時間がないので、本来的には時間の速度感が生じるのはおかしい。従って、我々は現実時間外に存在するのである。体内時計で時間を知る、という発想は本末転倒で循環論法の域を出ない。
変化するとした時、同様に我々自身が変化を体感する必要が無い。外部の観察者でなければ、この変化を知ることは出来ない。こうなると物質と生物の違いの説明になるのだが、生物の不思議さを表現している。もし決定論的世界であるなら、変化を知る必要がゼロであり、また自身の変化を非決定論的であると錯覚する必要もない。我々は明らかに外部性を持ち自由意志を行使している。
変化も速度も時間も外部の観察者でなければ知る必要もないし、知る事も出来ない。
我々が時間を共有できるのは、手続きが順番を守って進行している事を、外部的に知ることができるからだ。時間を共有する必要はない。ここも物質と生物の違いである。我々が共有しているのは時間ではなく、手続きだ。時間は時間幅を規定できず、時間には速度をあてはめる事が出来ないと考えられている。むしろ、時間は速度を決めるための基準となっている。しかし、時間に速度が在る事は誰もが体感している。この時間の速度をどのように規定していいか分からないだけだ。この時間感覚、時間の速度感は、表現不可能性を持っていて、日常生活を営む分には錯覚ということにして棚上げしておいても何の問題も生じない。しかし、錯覚しているのは、時間と速度についての概念だ。速度とは距離だけの性質ではない。そして、速度とは、通常我々が考えているようなものではない。「速度」という表現では、距離に限定されてしまい、時間や重さや温度などに、「速度」をあてはめることは出来ないのだが、その普遍的な構造は他の度量衡にもあてはめる事ができるということだ。
距離や長さは仮定的に等間隔性を持っているのだが、主観視点では遠近の勾配があって等間隔性は存在できない。主観体験を世界の本質であるとした時、距離の本質は等間隔性ではない。距離はむしろ、加速度や減速度から導かれる。同じ大きさの物体は遠くなると小さくなり、近くなると大きくなる。これは遠近の勾配だが、この勾配は減速度と加速度だ。距離はその概念自体が速度の表現型であり、等速運動の表現型だが、それは理論的な表現型だ。減速・加速の表現型である遠近を持った距離だけが実在的だ。度量衡で表す尺度の等間隔性、等量性、定量性は実在的には保証されておらず、理論的に保証されているだけだ。世界に実在しているのは速度と加速度・減速度であり、さらにその加速度・減速度だ。静止状態が持つ速度の層が一つ欠けていて、静止状態を速度の無い状態としている。これは錯覚しているのではなく、速度の層が一つ欠けている事を自覚的に知っているが、それを意識的に論理的に構造化できていないということだ。重い物ほど動かしにくく、軽いものほど動かしやすい。これも速度の勾配であって、減速度・加速度だ。距離が既に速度であるのと同様に、重さは既に速度だ。静的であるのに、なぜ速度を持つのかといえば、速度を内在しているからである。遠近の勾配は空間に内在する減速度・加速度だ。重力は空間に内在する加速度だ。
速度は距離だけにあてはめるのではなく、温度を含む全ての度量衡だけにあてはめるのではなく、変化を伴う現象、全てにあてはめられなければならない。速度とは世界を生成する速度であるからだ。
原「私」は常に「私」の最前線である「今」にあり、時間幅を持たない。意識の「私」は原「私」の選択を痕跡として知る。意識の「私」は常に過去に在る。意識は無意識が構築しているが、この意味は、世界は無意識が構築しているという意味になる。原「私」が選択し(確定し)境界的に無意識が世界を構築を“開始する”。この「境界的に」とは時間幅を持たず表裏の関係性、順番の関係性しかないという意味だ。“開始する”とは、世界構築には時間を要するからだ。(しかし、時間を要する必要性は別にある。時間は決定論的世界を自由世界に変更するための条件だ)。その速度は通常光速だ。従って、