注釈:下記の論考では、無意識と物理現象を同格に論じているが、主観体験しかない以上は、物理現象は無意識に含まれる。物理現象の普遍性と客観性は、物質の原理主義的性質によるものであって、この原理は無意識が持つ普遍性である。また意味と価値は、表現不可能性を持った基準・最小単位が人類に共有されているために生じるが、この最小単位は数値や記述では表現する事が出来ない。さらに意識体験は無意識が構築しているのであり、構造化メカニズムとしての意識も無意識に含まれる。

 

 

 

 

 時間と空間は閉じている場に外部性をもたらす。時間も空間も、閉じている場を俯瞰できる外部視点をもたらす。時間的には過去を振り返る事が可能である事、空間的には物を見る事つまり世界を知覚する事が可能である事、が外部性を表している。時間と空間の創出は、内部的に外部性を創出する方法だ。

 

 閉じている場とは数学のように、それ自体で完結している場である。数学の場は、外部から数字を操作する人間を本来的に必要としない場である。その場には無数の公式と答えが存在できるが、ルールだけで、あらゆる公式と答えが決定されている。この場から、その数学のルールに絶対的に従属する外部の操作者が公式と答えを抽出したとしても、外部性を全く持たない。この外部の操作者は、数学の場の完結性から逸脱できず、つまり、内部に取り込まれている。

 

 時空が創出されたとしても、この完結性が維持されるのであれば、世界は決定論となる。しかし、考え方は逆だ。完結性が損なわれたから時空が創出されたのである。決定論的世界は閉じていて、これを時空的に展開する必然性は全くない。不確実性が外部性を以て完結性を損なう事によって、世界は非決定論となり、展開する意味を持つ。ここで「意味」という言葉を使ったのだが、意味や価値は、この時空世界の展開の駆動力であり、閉じた世界を展開するための外部基準、外部性である。その前に書いた、「必然性」も、意味や価値から生じる。不確実性の起源が自由意志の有無を決定するが、不確実性の起源は反法則性、反原理性なのであって、原理的性質である我々、機能的には物質性しか持たない我々には、記述不可能性、表現不可能性を持つ。しかし、ここでも必然性や意味が、自由意志の存在を肯定するはずだ。

 

 意味や価値は時空を構成する最小単位であり、基準から創出される。この基準は数値化できない。値ではない。起源は命である。命という基準が、この世界のあらゆる最小単位を非数値的に、つまり非比率的に決定する。命の性質こそ、記述不可能性、表現不可能性を持っているのである。時空を構成する度量衡の最小単位は絶対値を表現する事が出来ない。たとえば、1センチは最小単位の倍数だが、最小単位の絶対値は、いくら分割しても明らかになる事はない。ただ比率的に小さくなるだけだ。時空を構成する単位の全ては絶対値が明らかではなく、世界が表現しているのは、この比率だけだ。無意識の原理性によって思考を行う我々は、最小単位の絶対値を数値だと考えてしまう傾向があるのだが、数値では表現できないということだ。数値や数字は比率しか表現できない。最小単位は空虚ではないし、比率でもない。でなければ意味や価値は生じない。1と2は違うが、意味や価値を与えなければ、ただ違う事が分かるだけで等価である。最小単位を設定しなければ、違いは等価のままだ。この最小単位の設定が、基準の設定であり、外部性を持つ基準だ。この外部的な基準が、全てが等価で存在する閉じた場を時空に展開する。通常(人工的、または理論的という意味で)、閉じた場に対する外部基準は原理主義的な仮定法の基準として用いられ、最小単位を必要とせず、数値と言う比率だけで設定できる。1月1日の朝になったら初詣に行く、などだ。我々は表象的には、また論理的には、そして意識的には、つまり無意識的には、比率しか扱えないからだ。感情も比率だ。規定温度に達すれば駆動し始めるサーモスタットやエアコンがいい例だ。従って、エアコンはどれだけ優れた計算機能を搭載したとしても、自律的に見える自己判断基準(比率的判断)を運用できるとしても、自律性があるとは言えない。最小単位を持たないからだ。この最小単位の所有感覚が生物と物質の境界を分ける。従って、生物の仮定法は、人工物の仮定法とはかなり質が異なる事だけは予想できる。

 

 基準は命である。命から不確実性と確実性が生まれる。不確実性は道徳となる。確実性は物理法則・合理性・生物的合理性(感情を含む)・比率操作・原理主義であり、ルールだ。無意識が基準から生成できるものは比率であり指向性であり欲望だ。ルールもまた無からは生じない。ルールは指向性を表現している。ルールも基準から派生している。原「私」が基準から生成するものは道徳である。指向性は反道徳だ。道徳は反指向性である。道徳は反原理主義であり、反指向性であり、反比率である。

 

 ここで、「不確実性」「確実性」と、「不確定性」「確定性」を分離することにする。過去の記述についての転換だ。

 

 無意識は決定(確定、選択)しない世界、原「私」は決定する世界だ。無意識は数学や論理と同じく閉じた世界だ。原理が支配する内部で何かが決まったとしても、実は何も新たな事は決まってはいない。材料を与えれば、未来が予測できる。この場の状態は、何も新たに決まってはいない、という状態だ。初めから決まっている事が決まっているだけだ。つまり決定論的世界となる。たとえば、このまま推移すると人口は今世紀後半に100億人超える事が分かったとして、ここまでで閉じた系として完結している。だから何をするのか、しなくてもいいのか、というのが、この系を外部的に見た視点であり、選択の基準の導入だ。例えば競馬のAI予想で利益の出る確率の高い購入組み合わせが提示されたとする。これを購入するかしないかを決定するのが外部的な視点であり選択の基準の導入だ。1番の馬が1着でゴールしたとする。これもこのままでは閉じている。何も生じない。この馬が1着でゴールする事によって、多くの外部の選択基準が動き始める。馬券購入者や、馬主や、馬にダイナミクスが生じる。数学や論理では選択や実行がない、という事だ。「AはBである」を導いたとしても、何の選択も無い。AがBである場合に何かを選択する場合に、選択の基準が必要になり、論理の利用価値が生まれる。「AがBであるならば、Cを行う」。仮定法は一見して論理に見えるが、これは外部的視点を導入していて閉じていないので論理ではない。「AがBである」まで内部で閉じている。「ならば、Cを行う」は絶対性を持った外部視点だ。これは論理ではなく命令である。この外部基準は証明など全く寄せ付けない力を持っている。予め断っておくが、我々の世界にあるのは外部基準ではなく、外部的な基準である。そして閉じた内部の結果に外部基準を適用して駆動させると、結果は再び閉じた内部に取り込まれ、再び外部的な基準が適用されて結果を生み出す。このサイクルが時空の展開だ。

 

 無意識は結果は内部的に全て確定しているが、自律分散状態に止まっていて、結果を利用しなければならないという必然性を持つ外部的な視点で見れば不確定の状態である。無意識は数学の世界を表していて円環的に閉じた場である。なかなか表現が難しいが、無意識は1である。1を分割して、比率化すれば、相互の関連が様々な形・公式で記述できるし、公式の数だけ答えを持ち、公式は無限に創造できるために答えも無限に想像できるという数学と同じ内部構造だ。答えが無限に創造できるのは、比率と倍数の世界だからだ。しかし、その答えは、答えである事に留まる。答えである事以外の何ものも含意しない。これが自律分散状態に止まるという意味だ。仮定法で言えば、「AがBならば、Cを行う」の「AがB」という論理だけが存在していて、「ならば、Cを行う」という外部的な基準設定が与えられていない。サーモスタットでいえば、「温度検知した結果10度を下回った」までが論理的な結果、因果的な結果であり、ここまでが閉じた世界だ。その先の展開、その先の必然性は、この閉じた世界にはない。「ヒーターで熱して水を温める」が、その先の唯一の必然性である理由は、この閉じた世界は持たない。「ヒーターで熱して水を温める」は内部世界の因果関係を逸脱しており、それは外部視点の外部操作であることを意味する。必然性の設定は外部からもたらされる。

 

 不確定性、確定しない性質、自律分散状態が外部視点による無意識の世界だ。部分はどのように切り取っても確定した結果と因果関係で充溢しているが、外部に含まれる内部として見た場合に、外部に展開する仮定法的な因果関係、外部基準の設定を持たず不確定な状態である。しかし、外部も内部もない。内部性と外部性の場である。内部的であり外部的である。

 

 コミュニケーション上のトラブルが発生して怒りが生じても、そこで閉じる。そこからどう展開していいか分からないので、黙り込んでしまう。これは幼少期の虐待の積み重ねがモデル化され原理として取り込まれているためで、そこから先の展開を指示する基準と基準設定を喪失している。心理学で学習性無力感と呼ばれる無気力は、基準と基準設定の喪失である。生物原理としての原理主義的な基準設定さえ失っているケースと、原理主義は残存しているが外部性をもたらさないケースの二つが考えられる。後者の場合は、内的に原理再現が行われるのであって、憎悪感情の増幅となり、これは解離性同一性障害の原因となるだろう。

 

 外部に展開するための基準を持たないか、基準を失ったか、基準が希薄か、利用を障害されているか、基準設定がなされていない場合等々。これらはパターンを網羅していないが、意味解釈能力が低い発達障害の、臨床的な原因や症例の多様性を説明するだろう。内発的な基準や基準設定を持たなくとも、類似の外部基準を設定する事ができる。人工的な基準設定と似ている。内発的な基準、基準設定、運用、照合は、値ではない基準を扱うので、表現不可能性・記述不可能性を持っている。外部から獲得する外部基準は表現可能である事によって、内発的な基準設定とは全く異なるものである。人工物にどれだけアルゴリズムや不確実性類似プログラムを組み込もうとも、記述可能で数値化可能である事によって、基準となる最小単位を持っていない事が分かる。どれだけ書物を読み漁っても、実験や研究を行おうとも、この最小単位を獲得することはできない。しかし、最小単位の回復や覚醒は可能だろう。つまり外部から内発的基準を与えることは出来ないが、内発性を刺激する事はできるということだ。値ではないし、表現不可能であるためだ。少なくとも最小限度の基準の利用は行っているのであって、でなければ生物足りえない。

 

 「AがBならば、Cを行う」は、確定した未来そのものではなく、未来を一義的に拘束しようとする外部基準である。しかし、時間が経過し、それが確定した過去となった時、この命令構造は命令性を失い、「AがBであったため、Cが行われた」という論理(因果)構造へ回収される。それは即ち、過去が閉じた内部世界に取り込まれたということだ。過去は全体として「1」であることは変わらず、内部は無限の比率で構成される事も変わらない。この1には、外部的に命令構造を与えることも、介入することも出来なくなる。外部視点で、この閉じた1を覗くと、不確定性(操作不能性)がもたらされ、何事も新たに確定されない状態になる。過去は閉じた数学的世界と同じだ。新たな確定は、この場の確定した結果の利用法を外部から与えて、選択を発生させる事だ。外部的に基準を設けなければ、この場から何事も新たな確定は生まれないし、世界が展開しない。自動販売機のボタンはたくさんあっても、どれかを押さなければ確定は生じないということだ。自動販売機のボタンは無数の確定した結果に相当する。確定する事によって、原理化し、不確定とするのである。確定も不確定も外部的な視点だ。内部は無限の比率しかないのであって、新たな比率が加わっても、この場では何も増えてはいない。最小単位がないからだ。この無意識世界が最小単位を扱えない事は、我々が最小単位を表現できない事からも明らかである。その場が1であることは時間の経過に無関係に成立しているのである。過去は原理に収束されて、無限の比率に還元されただけである。過去が実在しない事は、日常的に理解している。また「私」とは今にしか存在しない事も理解している。今の「私」のどこにも過去はない。在るのは今だけである。過去は原理に回収されて比率化している。しかし、過去に意味や価値を与えれば、比率は生々しく現実を表現して記憶に蘇る。生々しさは視覚的な具体性を意味しない。むしろ意味や価値を持つ記憶は、視覚的精緻さを欠いているはずだ。視覚は本質の多くを覆っているからだ。遠い昔の、無数の記憶の中でなぜか、それだけを稀に想起するような記憶は、意味や価値の更新が在った記憶であるはずだ。過去の記憶を生々しく再現するには意味や価値が必要だ。精緻な記憶は、原理再現性であって、意味や価値を含んでいない事を証明しているのである。

 

 なお、基準設定は単純な仮定法ではないであろう事も明記しておく。仮定法は、分かりやすく説明するために便宜的な道具として利用したものだ。

 

 では映像はなぜ過去を映し出せるのか。映像機器は原理主義者であって、その映像は原理に忠実なための再現であるからだ。これを原理再現性と称する事にする。この映像機器の事例から分かる事は、我々の身体を含めた物質的存在は、原理再現性によって出現し続けているだろうということだ。従って、この出現は自律性を持たない場合に時空の座標が決定論的である。自律性を持つ場合に、時空の座標は決定論的ではないが、存在形態が決定論的である。映像が決定論である事は一目瞭然だ。既に未来が決定している。過去は実在“していた”のであって、今は実在していない。写真は過去が実在していた事を証明するが、今実在している事を証明していない。過去が今どのような形になっているのかを、我々は理論的にしか知る事が出来ない。原理再現性は鏡にも適用できる。鏡に映っているのは、光子の振る舞いによって、少し前の「今」の「私」だ。過去は実在できないので、無意識が原理に従って再現している。もし原理が歪であれば、歪になる前の「私」とは違った「私」が映るだろう。直視している現実もまた光子の振る舞いによって、少し前の「今」の現実である。過去を見ているのではない。従って、現実もまた原理再現性によって再現されている。ここで光子の振る舞いと書いたのだが、光子は、物理学において観測事実を説明するために導入された理論的実在である。従って、光速とは距離の勾配に従って原理再現性によって現実を構築するスピードだと見なすこともできる。これは光速はどのような運動系から見ても常に一定である、という特殊相対性理論とも整合性がある。

 

我々は、「今」しか見る事はできない。過去は見ることは出来ない。天体は、かなり昔の「今」を見ているということだ。過去は理論的にしか実在できない。従って、写真の個所で書いた「過去」とは、やはり少し前かだいぶ前の「今」だ。映像は少し前かだいぶ前の「今」が連続的に撮影されたものである。

 

容貌失認は、基準を喪失した事を意味する。基準は共有されているのであって、それが世界の客観性や普遍性をもたらしている。


 

 もし未来に不確実性が存在しないならば、既に論理(原理)に収束していて閉じている。命令構造も存在できない。原「私」の不確実性による選択が時間を創出している。命令構造は論理と不確実性が併存する事になる。無意識は論理であって、外部的に過去を扱う。原「私」は不確実性であって、外部的に今を扱う。無意識は、感覚器官または意識によって過去を扱う。無意識の性質で構成される意識の「私」は過去を扱うのである。論理や合理性、法則によって、今も過去に含もうとするのが無意識の指向性であり、当然、意識の「私」も、その指向性を持っている。楽で楽しいからだ。原「私」は今の最前線にある「私」であり、意識の「私」は、原「私」の過去の刻印を今として知る。従って刻印は不快の記憶でなければならない。苦痛や苦悩の記憶でなければならない。楽しい記憶は本来的には原「私」の刻印ではないが、道徳が生物的合理性と合致するケースもある。これは人間の特性である。例えば、互恵的利他性は生物的合理性だが、道徳でも説明できる。この説明の二重性は生物的合理性と道徳の合致点を意味しているのである。これは道徳の顕現ともいえる。従って楽しい記憶が生物的合理性に終始している人もいれば、道徳を含む人もいる。二元論ではない。今の「私」が原「私」であり、原「私」の刻印は意識や脳という構造でなければ知る事が出来ないということだ。意識はつまり無意識が扱う過去である。