知覚世界とは表象世界だ。感覚器官が単純であれば世界は単純である。感覚器官が複雑化、多様化すれば世界も複雑化、多様化してくる。我々が知覚している表象と、もっと感覚器官が複雑ではない生物とでは、世界が違う。違うが矛盾しないように違う。世界を最初に作ったのは最初の生命であり、その原初の世界は極めて単純な世界だ。

 

背中側の世界は非実在的に存在しているだけだ。しかし、背中で風を感じ取っていたり、後ろから音が聞こえているなら実在的に世界が存在している。しかし、その場合の背中側に実在的に存在している世界は正面の世界とは違う。風や音、実在的には、これだけの世界で、しかも統合されていない。風や音だけを感じて感覚を統合しない生物の世界である。背中の世界は皮膚感覚と音を感じるだけの世界だ。しかし、人間は感覚の統合機能である意識が発達しているので、非実在的には背中の世界を正面と同様に存在させることもできる。先ほどまで見えていたからおよその想像(=非実在的に存在する世界)ができるのである。

 

自宅にいる時、少し離れたコンビニは、実在的には非存在だが、非実在的に存在している。何度も通っているから想像できる。目の前の空気に含まれる酸素も非実在的な存在だ。学校で教えてもらったから、想像できる。酸素は実在的には存在できない。この見えない物質の実在性が特徴的だが、言葉と意味が、「実在的な非存在」であった「非実在的な存在」を浮き彫りにするのである。従って、ほかの陸上生物の周りには空気も酸素もない。信号を判断して横断歩道をわたる犬は非実在的な存在である「信号の意味」を知ることができる。ハエや蚊には「酸素の意味」も「信号の意味」も実在的には非存在であり、非実在的には存在しているが、非実在的な存在である事を知る事ができない。意味理解とは、非実在的な存在を知ることだ。ただ、ハエや蚊は別の意味をもって酸素や信号を世界に組み入れているだろうから、実在的な世界も、非実在的な世界も人間とは違うのである。

 

しかし、背中に感じるのは衣類のこすれる感覚だけだとしても、我々は背中側に世界が広がっている事を信じていて、非実在的に背中側の世界を存在させている。背中側に虚空(何もないから何も見えない。暗闇でもない。虚空とは何かがそもそも不明だ。ヒントになるのは寝る時ではないかと思っている。寝る時に瞼の裏側を凝視している人は少ないだろう。暗闇を契機に視覚を遮断しているはずだ。これがおそらくは虚空である)が広がっているとは思わない。見えていない背中側には虚空が広がっているはずだ。この背中側の虚空は「私」にしか生じないが、「私」は見る事が出来ないという矛盾的な表象だ。それは表象ではなく反表象ともいえる。見えず、感じないところには、虚空以外なにも存在するわけがないのである。(このため虚空は非実在的にも存在しているのではなく、非実在的に非存在だと言える)。つまり世界は主観体験でしか創れない。創るとは認知的な意味ではなく創造主的な意味だ。世界は予め存在しているのではなく、生物によって実在的に存在させることができる。従って、「私」が見ていない背中側を飛んでいるハエや、「私」の後ろを向いている人には世界が実在的に存在している。どうやって世界を存在させているのかと言えば、感覚によってである。

 

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世界を知るには反応を知る事が必要である。反応を知る事が知覚であり、知覚が無ければ、「私」(あらゆる生物や細胞の「私」である)も世界も実在しない。「私」は、「私」が「私」の感覚を得る事によって実在感を得られる。これは原始的な生物でも多細胞生物の細胞でも同じだ。「私」とは「私」の規範で選択を行う者である。観察も行為も感覚の選択である。選択は追認によって感覚を得る。「私」が実在している事を知る事のできる機能が選択と追認だ。知るとは記憶だが、記憶には必ずしも複雑な神経回路を必要としない。可塑的な反応は、もっと機械的で化学的な構造でもよい。可塑的な反応は、規範を獲得した事を意味するが、この規範獲得は規範の自己生成である。

 

生物は規範を自己生成して一つしか選択しない事によって、時間を創出したといえる。そして「私」とは規範であり、規範を自己生成する規範である。これも人間に限らず生物全般に普遍的に適用される。一般的には、この逆であり、線形時間のせいで、生物は一つしか選択できないということになる。しかし、生物の起源を考えれば、時間を創出したのは生物に外ならないのである。一つしか選択しない事によって、一つの時空を経験するように反応系、神経回路、ひいては脳を発達させていったのであり、だから我々は線形時間が当たり前だと思っている。そして空間を創出したのも生物である。目の前の家から、少し遠ざかるとその家が小さくなるのも、不思議ではないだろうか?不思議だと思わない事も不思議ではないだろうか?

 

遠ざかると家が小さくなるのは、実は明確に矛盾している。物体の大きさは変ってはならないからだ。ここは統合できなかった矛盾の一端だろう。この統合しきれなかった矛盾はバイアスとして処理されている。遠ざかると家が小さく見える(矛盾)→距離という概念で統合。音の強弱が変わる(矛盾)→音源の遠近という概念で統合。明暗が変わる(矛盾)→光源と陰影の概念で統合。この「統合の跡」が、我々の知覚的バイアスを形成している。つまり我々は空間を創出しているのである。人間にはいくつものバイアスがあるが、世界と自己の実在に関わる根源的なバイアスについては誰も疑わず、受容するだけだ。これが真のバイアスだ。この現象を生物学や物理学で説明すると、法則(普遍的な因果関係)が出てくる。この法則や因果関係こそ、矛盾を統合する法則であり、疑いなく受容される法則である。普遍文法は、この世界生成、時空生成の際に生じる矛盾を解消する法則の全てである。

 

我々が見ているような世界が、固定されたものとして生物の出現以前から予め用意されていたわけではない。むしろ生物の出現によって、必然的に物質が実在化し、それ以前の歴史も自動的に実在化(非実在的に存在)したということだ。この世界の起源は最初の生物であり、最初の生物が創造主といえる。そして我々は最初の生物と同一であり、各生物とも同一であり、世界を構成する全ての物質とも同一である。

 

ここで翻すが、実は生物は出現したのではなく、初めから存在していたのである。しかし、線形時間的には生物は出現したのでなければ生物は存在しないという矛盾を持つ。つまり生物が生まれる前にその環境が整っていたとするのでなければ、線形論理では生物の存在が説明がつかなくなる。しかし、この世界はどう見ても地球の生物の為に創られている。地球はあまりにも生物にとって都合が良すぎる。環境要因による生物の誕生には偶然性が重なる必要があってほとんど奇跡だ。

 

世界が実在するためには生物が必須である、ということはこれまで書いた通りである。物質だけで実在することは出来ない。であれば、存在が実在するためには生物が起点にならなければならないのである。生物の誕生以前に、我々が経験しているような時空間世界は無い。時空で構造化されていない世界があり、それは実在的に存在している世界ではない。

 

ここでいう初めとは生物が出現した瞬間であり、生物の起源である生物が生まれた瞬間であり、予め存在していた瞬間である。線形時間はここから前後に始まる。この線形時間の前後の起点となる瞬間の位置は、別の枠組みで規定されるべき時間に似た枠組みがあてはめられるだろう。我々は線形時間以外に時間のような枠組みを知らないから表現できない。感覚的には、その瞬間はつい先ほどでも、1週間前であっても変わらない、という時間的枠組みの中に線形時間は組み入れられているのではないかと予想する。

 

無生物の、物質だけの世界は実在的には存在することができない。観察者のいない世界は、世界とはならない。世界とは知覚であり感覚であるからだ。ビッグバンも地球創生も生物の登場によって、実在できるようになった、ということだ。宇宙のどこかで他の生命が生まれている事も無い。なぜなら、我々は最初の生命の創った線形世界を拡張することしかできないからだ。わかりやすく説明すれば、最初の生命の内部で始まったシミュレーション世界が、現在まで拡張を続けている“ようなものだ”。

 

生物の主観体験は普遍文法で普遍性を持ち、種や個体間で齟齬や矛盾が生じない。原始生物には単純な世界であっても、その世界は、人間の複雑な表象で構成される世界が包含していて齟齬や矛盾が生じない。世界生成の法則である普遍文法が予め用意されていて、感覚器官の発達により少しずつ獲得していくことが世界の拡張である。

 

世界は進化に従って詳細に創られ続けている。生物の出現により、物質も出現したのであって、その時、物質は生物の出現の為の因果関係を予め持っていなければならないということになる。生物が実在的に存在した事によって、物質もそれ以前より実在的に存在していたことになった(非実在的な存在)ということだ。

 

生物が居なければ時間も空間も実在的には存在できない。生物が死滅すれば物質は実在的には存在できず、非実在的にしか存在できない。生物が存在すれば、物質は実在的に存在する事ができる。たとえ原始的な微生物でも生き残っていれば物質も世界もある。最後の微生物が死んだあと世界は非実在になる。自分が最後の微生物か否かは知る必要はない。世界は生物の個体にしか現れず、つまり生物の個体の主観体験にしか現れないからだ。

 

外宇宙はなぜ在るのか?という問いに対して。生物の為に地球が必要であり、地球のためにビッグバンが必要であり、ビッグバンの線形的な因果関係によって外宇宙が創造されたということになる。つまり世界は地球の生物の為に存在するのであって、侵略してくる宇宙人などはいない。

 

 

もしこの生物の世界(我々の現実世界)を外部視点で俯瞰できる者がいるとすればは、全ては「今」この瞬間に凝縮されているように見えるだろう。→これが円環的世界だ。この凝縮を蚕が吐き出す糸のように、順番に出力すると、時間と空間が必要になる。→これが線形的世界だ。

 

この構造的世界(時空間的世界、離散的な時空の集合)は、脳が作り上げている(実際には無意識が作り上げている。無意識が創造し、意識は同時的に知覚している)。無意識が世界を自動的に構造化していて、この無意識の構造化マニュアルは種単位(知覚に対応)で共有されている。存在は一つだからだ。私の仮説はシミュレーション仮説と似ていて非なるものである。むしろシミュレーション仮説を否定する進化論的説明である。それでも二重世界の構図となる。

 

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 宇宙探査も生物の起源も物理学も、その他科学的な研究の全ては、生物というものがいかに矛盾を解決しているのかを調査する作業だ。それは自分を知る作業であり、自分のバイアスの原因を知る作業である。しかし、世界の矛盾解決の方法は全て精神に現れる。ここが人類が持つ、それまでの生物とは一線を画する特異な能力である。科学的な発見をした者は、自分の精神の法則を一つ発見したという事だ。世界を知る全てのヒントは人生経験が包含している。