たいていの人は森を見て木を見ていない。木を見て森を見ずの逆だ。見ているようで細部は見ていない。注意で表象化されてくる。表象化は矛盾を解決する作業だ。矛盾を解決したからこそ、表象化されるのである。矛盾の解決方法は、矛盾の一つを選択する事だ。従って、矛盾は解決されていない、という見方もできる。
という表現は、知覚器官の進化形である意識が表象を作っていると考えた場合だ。しかし、前回書いた通り、表象は既に無意識が構築しており、意識は追認しているだけだ。表象は意識の為にある。意識は、存在する者が、実在を体験するためのメカニズムだ。従っていかなる生物も意識を持つ。実在の体験は、必ずしも人間のように複雑な知覚や、知覚の統合を必要としない。観察し、選択し、結果を追認できる事が実在の体験である。そして実在する事とは、実在している事を知る事だ。実在している事を知らなければ、実在していないのである。「実在している事を知らない事は、実在していない事と同じ意味を持つ」という表現は間違いだ。実在も非実在も同時的に存在しているのであって、「実在している事を知らない事」と「実在していない事」は、ともに非実在であって完全に同じである。結論だけ記せば、無はなく存在しかない。存在には実在的存在と非実在的存在がある。
物質は主体としては実在していない。客体としては実在している。この意味は、物質は主体としては非実在的に存在していて、客体としては実在的に存在しているということだ。観察者がその物質の実在的存在を選択しなければ、その物質は実在的には存在できず、観察者がもし非実在的存在として選択した場合には、その物質は実在的には存在できないのである。逆の言い方をしてみる。観察者が、その物質の非実在的存在を選択しなければ、その物質は実在的に存在できるし、観察者がもし実在的存在として選択した場合には、その物質は非実在的には存在できないのである。つまり、この段は、たとえばキリスト教の熱心な信者が遭遇する奇跡についての説明でもあり、超常現象の説明でもある。実在と非実在の選択は、観察者が行うはずだが、その選択の判定は謎である。信念や確信は判定の要素となる事は分かるが、ただそれだけでは再現性に乏しい。ここは行為の実行のトリガーと同じメカニズムだと予想できる。
ここで観察者は選択者でもあるという前提に問題が生じてしまった。私は選択者であるはずだが、実在を選択した覚えがないからだ。実在と非実在という、「最初の矛盾の選択だけは観察者に委ねられているのではない」と考えるよりも、むしろ「選択は観察者が行っていると感じているだけである」、と考えた方が選択方法に普遍性を持たせる事ができる。しかし、私は自由意志を信じている。論理的に考えれば、我々は、選択者を装っている観察者に過ぎなくなる。しかし、「観察者は自分が選択していると錯覚している」という論理構造は、線形理解に顕れてしまう矛盾的構造だ。線形理解には時間と順番が存在するためだ。例えるなら、「話した事が間違っていた」と「嘘を話していた」の矛盾的同一性の問題だ。「観察者は自分が選択していると錯覚している」と「観察者は自分が選択していると自覚している」は、因果(線形理解の基本構造)的に矛盾していて、全く違う。前者は観察者が選択しておらず、後者は観察者が選択している。しかし、前者も観察者においては「観察者が選択している」のである。後者も「実は観察者が選択していない」かもしれないのである。しかし、両方とも観察者は選択している。「嘘」の話では、両方とも間違った話をしている。要するに、どっちでも変わらないという話になる。すると、今書いたこの論理も錯覚であるかもしれない。であるならば、自由意志なるものも、決定論なるものも同じであって、矛盾的に同一なのである。従って、自由意志はあると考えて生きていた方が良い。
さて、実在の条件は、「他」と「私」が分離している事だ。分離していなければ、「私」も無く、「他」もない。逆説的には、実在するためには、「他」が「私」と違うか、「私」が「他」と違うか、のいずれかであり、この違いを観察できる必要がある。差異は観察者となることによって必然的に生まれる。観察できる事が既に差異化されている証だからだ。非実在が同時的に存在する場合もある以上は、「他」と「私」は分離しておらず同一として非実在的に存在している場合もあるという事であって、「私」が実在するためには、差異を自己生成する必要がある。しかし、その差異は、非実在的には差異ではなく同一的差異であるという矛盾も含む。もっとも、この差異を自己生成する「私」とは存在そのものであり、非存在そものもである。実在的な存在であり、非実在的な存在である。実在的には、原初の「私」即ち存在は一つである。今、我々は実在的には異化しているが、非実在的には原初と同様に同一である。我々とは世界の全てを含む。従って、このように線形の論理構造では、意識と無意識の関係性を矛盾なく整合性を以って説明する事は不可能だろう。最初の矛盾は、実在と非実在が同時的に存在していることだ。
カメラはなぜ実在を選択し、画像を記録するのか?という問題。
逆説で考えると、非実在を選択し何も映らないようにすることができないためだ。人間で考えてみる。考え事をして歩いていると、通り過ぎた風景をよく覚えていない事がある。目を開けて風景を見ていたはずだ。これは意識において非実在を選択していたという事になる。ではその時何を見ていたのか?と考えると、非実在的存在を見ていたことになる。
我々は実在を選択している。しかし、非実在的にも存在している。矛盾的に、別の場所に存在している「私」を想像できるからだ。これは簡単だ。今居る場所に非実在的に非存在となっている状態を想像することもできる。(なお、想像という言葉は実は二重表現で、「非実在的に」という言葉が既に「想像」を含んでいる。「今居る場所に非実在的に非存在となっている状態を想像する」は「今居る場所に非実在的に非存在となっている」と同じ意味だが、便宜上、以下も「想像」を使うことにする)。
そして主体が非実在的に存在する場合には、主体は主体自身を客体としている。今居る場所に非実在的に非存在となっている状態を想像する事と、今居る場所に非実在的に存在している状態を想像する事はほとんど同じ作業だ。しかし、私の現在についての想像は私の状態を俯瞰した絵柄となる。私を非実在的に扱うには、私を客体としなければならない。俯瞰図ではなく、今の私がここに居るという主観的な実存的存在状態(一次的な実存状態。主観体験としての実存状態)について、この主観体験を保ったまま非実存的な非存在となる事(想像する事)はできない。一方で、他の場所に居る私を想像するには、俯瞰図でも可能だし、主観体験を保ったままでも可能だ。ここから考察できるのは、現在の時空間的座標というものは普通の人間には絶対的な実在性を持っているという事だ。当たり前の話ではあるが。
世界の非存在を想像する事もできない。目を瞑っても眼前に暗闇という世界が広がるだけだ。何かを想像してもやはり非実在的な世界が見える。物は非存在にできるが、世界は非存在にはできない。「世界」は他者や物質という客体を含まなくとも成立する事が分かる。世界は客体としては扱えない事も分かる。
非実在的であっても主観的存在としての自己や世界の非存在の想像が不可能である事は、「私」が存在を指向しているためだろう。そして「私」と世界が同一である事の証拠でもある。また、非実在的であっても実在的であっても、存在しているのであって、非存在は存在しない事を示唆している。つまり無は無い、ということだ。
しかし、予め断っておくが他の場所にいる自分、非実在的に存在している自分を想像する時に、今居る場所に居る実在的存在自分も同時的に実在させておくことは重要である。実在的存在としての自己を忘れてはならない。自己を忘却した場合と忘却していない場合では、想像する「場」が違う。この「場」とは空間的な意味ではない。説明するのは困難だが、実在的自己を忘却せずに、非実在的自己を想像できている場合と、実在的自己を忘却して、非実在的自己を想像した場合で、違いを認識できるはずだ。自己を忘却してしまうと、それは妄想世界への没入となる。止めておくべき理由は、とりあえずは私の直感である、と言うことに留めておく。
さて、ここでのまとめは、主体は、客体に対して、実在と非実在を選択できるということだ。非実在的にも観察できる事は、主体の条件である。カメラは主体性を持たないために、実在的にしか客体を観察できないのである。カメラは「見ている」が、「見ている、ことにする」事はできない、ということだ。「見ている、ことにする」事ができれば、「見ている」と「見ていない」も、矛盾的に併存させることができる。誤解されると困るが、この偽装のような知覚の矛盾は、高度な認知機能ではなく、原始生物でさえ持っている機能だ。この事例は、偽装の矛盾と、主体性の矛盾の、二つの矛盾を孕んでいる。
「見ている、ことにする」、「見ている」。
前の「」が非実在的で、後の「」が実在的だ。行為という結果が同一だが、非実在的な因果が矛盾しており、前の「」では主体性が欠如し、後の「」では主体性がある。これは主体性の矛盾だ。前の「」の場合に、意識が追認機能である事を自覚してしまう事になるが、後の「」では意識が能動的に選択を行った事を自覚する事になる。通常我々は、見ているのであれば、「見ている」でいい。だから我々は実在的存在なのである。そして追認とは論理追求上の錯覚である事は前記した通りだ。従って主体性がある事と無い事も、同時的に矛盾的に併存している。ここもやはり主体性を選択した方が良いことは言うまでもない。
前の「~ことにする」の部分では、行為という結果が一つではなく実行と不実行の矛盾が併存しており、因果が同一である。実行していなくとも、実行していてもどちらでもいい、という矛盾がある。これは偽装の矛盾だ。
「それでいいです」もいい例だ。それで良い場合も、良くない場合もあるのであって、「それでいいです」は、矛盾的表現だ。
なお、この主体性の矛盾と偽装の矛盾は、だいたい解決ルートが決まっている。「見ている、ことにする」と言う場合には、通常、主体性が無い事が選択され、かつ行為の不実行が選択されている場合である。また「見ている」と言う場合には、通常、主体性があり、行為の実行が選択されている場合である。「それでいいです」は微妙であって、定石が無い。
我々は想像の世界を軽視する傾向にあるが、現実と等価である。実在的存在(現実)と非実在的存在(想像)は同時的に存在している。なぜ想像の世界を軽視するのかと考えた時、一つには、我々は非実在的存在がいかなるものかを、知らないからだ、と言える。一つは、我々は既に実在的存在を指向し、実在の維持に日々励んでいるからだといえる。
自由意志の有無も、主体性の有無も、矛盾的に併存しているが、通常、我々は、主体性を以って意思決定を行っていると考えている。これは実在を知り、実在するための条件なのだ。

