矛盾とは、一つの系の中に複数の可能性が同時的にあって釣り合いが取れている事だ。絶対に貫く事の出来る矛と絶対に貫かれない盾の二つの相反する要素で構成される系「矛盾系」である時、互いに存在することによって、この系は実在的に存在し、または互いに消えることによって(互いに動的であった場合、互いの存在は許可されない)、非実在的に存在する。つまり、この系には存在と非存在の二つの可能性がある。実在的に存在しているか、非実在的に存在しているかのいずれかだ。この系は総体として公平である。静的には実在できる(実在できる条件を備えるという意味であって、必ずしも実在するとは限らず、非実在的な存在としてもあり得る)が、動的には非実在である。しかし、現実の世界は動的である。このため、この矛盾系は非実在的にしか存在できない。この意味は想像上の存在と同じ意味だ。

 

 しかし、さらに翻すが、世界には生物という行為者が存在していて、また矛盾系は世界の構成要素の一つに過ぎない。世界という系は矛盾系の集合であり、さらに各矛盾系の枠外にあって各系に属さないエネルギーも充溢している。行為者や外部エネルギーは、この矛盾系の矛と盾のいずれか一つを選択し、影響力を行使することができるし、影響力を行使しているので、この矛盾系は動的には不公平となるのであって、動的にも実在できる。しかし、その場合、矛も盾もその性質を変えてしまうことになる。

 

 つまり静的な条件下で、完全に安定した状態、公平な状態では、矛も盾も実在と非実在のいずれの状態でも存在できる。動的な条件下では非実在的にしか存在できないが、外部要因が不公平にすることで、盾も矛も実在的に存在できる条件を備える事ができる。

 

 ここで一旦、重要な箇所を抽出すると、

 

・矛盾=公平

・矛盾解消=選択=不公平

 

実在可能な条件が備わったとしても、まだそれだけでは実在することが決まったわけではない。つまり、ここに、やはり選択が必要となるのである。

 

 現実は不公平であり、矛盾を解消しようという指向性によって、不公平を維持されている。これは現実を維持するためのメカニズムといえる。もっとも完全なる公平などは実現不可能だ。不公平は矛盾ではなく、公平が矛盾である。矛盾は不公平ではなく、公平だ。物質は、概ね安定し、概ね公平で、概ね矛盾が拮抗している。ただ、著しく安定せず、著しく不公平で、著しく矛盾が損なわれている物質もある。従って公平性は物質的である。公平性を過剰に求めるのは物質性に支配されているからだ。物質性は同化指向だ。意識における迷いや逡巡は、選択肢という系が公平になり矛盾が生まれているのである。

 

 物質の矛盾の構成要素を探ればマトリョーシカのように矛盾を発見していくことになる。物質の研究の歴史は、まさにこの矛盾を発見していくプロセスだ。原子は陽子・中性子・電子に分かれ、さらに陽子や中性子はクォークに分解される。

 

 究極は存在と非存在の矛盾になる。存在と非存在の矛盾が物質の起源だ。従って、存在を選択した外部のエネルギーが仮定されるだろう。

 

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 我々自体も、存在と非存在の矛盾がある。つまり存在しない場合も、存在する場合もあるが、存在している。非存在の「私」が存在しているとすれば、非存在とは、我々が考えるようなものではない。なぜ存在しない場合があるのかといえば、存在する事ができているからだ。つまり、その場に私はいない場合に、私の非存在なのである。その場に何が無いのか分からない場合に、それは私の非存在ではない。私の存在を否定する事ができるからこそ、私の非存在となる。存在している事は、既に矛盾を持っているという事だ。誰に聞いても自分がなぜ存在しているかを答えることは出来ない。なぜ答えられないのかと言えば、存在していない事も予想可能だからだ。これは、皆が矛盾を抱えて生きている事を意味する。

 

 矛盾を解消する、とは、いずれか一つを選択する事にほかならない。選択は一つしかできないことによって、選択によって矛盾が解消されるのである。また、むしろ選択は、矛盾が解消されたから行われると考えるべきであって、選択には矛盾の解消が必然として備わっている。

 

 一つを選択すると不公平になり、選択せずに矛盾を維持すると公平になる。この事例は、多重的な個人の特性にもいえる。社会的な一つの人格を堅持するのは、努力が必要だが、多重性を予め公表していると、楽になる。自分が不公平である事は苦悩を抱える事であり、自分が公平になる事は楽になる事だ。

 

 矛盾を顕すと、その人は公平になる。たとえばLGBTのカミングアウトだ。この構造は少しわかりにくい。しかし、人質問題で考えてみる。誰かに弱みを握られている事は、矛盾を顕していない状態である。このため、この人は不公平な状態だ。矛盾を顕すことによって、たとえば、小事であれば友人に教え、大事であれば公的機関である警察に告白する事によって、この人は公平になる。

 

 たとえば、著名人は、公共の場で一つの自己を絶対的な自己として演じなければならない。しかし、薬物の常習者である事を秘匿している場合に、この人は矛盾を顕していないので不公平である。つまり、秘匿や隠蔽は不公平となる。

 

どれが我々の指向性かと言うと、選択し続けるという生物の傾向から考えると、矛盾の解消が我々の指向性ではないかと思う。だから隠ぺいし、嘘をつく。そして、私も以前間違ったが、矛盾の解消が公平だという錯覚がある。実際には、今述べたように逆だ。そして公平性が至上の高尚な目的だという錯覚が在る。

 

 我々は公平を求めているのではなく、不公平を求めているということだ。矛盾を解決する事は公平性の追求とは真逆である。選択を行う事は矛盾を解消することだ。矛盾解消のために選択し続けている我々又は生物は、結果的に世界を不公平にしてきたのである。この結果、公平性も不公平性も複雑化し、選択肢も多様化している。

 

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 文頭の写真と本文は、ほとんど関係ない。しかし関係を見出すのは自由だ。たいていの人は、この文章が無ければ、本文と写真を統合しようとするだろう。人格の統合も同じメカニズムであり、矛盾を一つの系とする事が、選択=矛盾解消という生物の指向性に対抗する手段だ。矛盾を内在し一つの人格として公平を保つのである。つまり、これは具体的には、自己矛盾は棚上げしておいて、あまり深く考えないという方策だ。内に対して、その矛盾を解消する必要はない。なぜなら、その矛盾は非実在的な想像に過ぎないのだから。考えすぎは精神の健康に良くない。ところが周期性に支配されていると、矛盾が解決するまで、その矛盾が意識に上がってくるのである。