全ての生物種が普遍的に同じ感覚器官を持っているわけではないという事は、全ての生物種にとって世界の表象は普遍的に同じ表象として顕れてはいない。表象は世界を構成する法則である普遍文法に従って顕れており、この普遍文法は生物種によって違う。この普遍文法は道徳と同じであると見なすこともできる。この道徳は、意識的に運用する道徳ではない。意識的道徳と区別するために真道徳と称する事にする。従って、この真道徳(=普遍文法)は表象の複雑化、多様化に従って複雑化している。物理法則はこの真道徳に含まれる。
意識は真道徳´(前回まで普遍文法´と書いてきた)を無意識に構築する。この真道徳´は人格の核だ。瞬間的な選択と実行は、この真道徳´に従って無意識が反射的に行う。結局は無意識的選択が行われるので、意識的な意思決定プロセス(=思考=矛盾解決の方法を考える)は一見して無駄のようだが、そうではない。無意識が反応するのは表象であって、意識は表象を作る事によって意思決定を実行する事ができる。意思決定を実行するためには、意識が創る表象と、真道徳´との反応系が確立している必要もある。意識が創った表象が悉く、あるいは無差別に実行されるのであれば、精神病だ。
真道徳´は、意識的「理解」が生じた時に、少しずつ形成されていく。この理解は意識的な働きであって、知覚の発展形である。矛盾が解消された時に理解となる。知覚は理解の原初的な形態で、餌を餌として知る事も理解だ。この原初的な理解でさえも、実は矛盾が解消されている。その物質は餌であるか、餌でないかの二重性を持っているからだ。比較対象がない、単一の物体でも、既に存在している事は矛盾を内包しているのである。何かであるか、それとも何かはでないか。これはあらゆる存在について言えるのである。人間の理解はさらに進んで、解決した矛盾の解決方法に含まれる矛盾を解決する事も含まれている。さらに予測した解決方法についての矛盾を解決することも含まれていて、この解決方法の矛盾を解決するプロセスにはきりがなく、これは迷いとか逡巡と言われる。この場合、法律や社会制度や社会慣習や習慣などの外部規範を利用して、逡巡のプロセスを停止する事ができる。注意過多では次々に外部表象や内部表象に注意が行くので、さらに、このプロセスを妨害する。
この未来の矛盾の解決は、意識的な選択に向けての矛盾を解決する事と同じであり、全ての意識的な行為、行動計画について適用されるが、それでも実際の選択は真道徳´に従うのである。行動計画が必ずしも実行されない事は、経験的に誰もが知っているはずだ。行動計画を立てたのに実行しないのは、選択と実行の関門があるということだ。考える道徳は、今書いた外部規範に含まれる。未来の矛盾を解決する事はもっと下等な生物でも行われており、未来の矛盾の解決方法についての解決を考えるのは意識的生物だけである。
