グリコ森永事件の犯人は、後悔しているだろう。もはや自首しても、公平な司法機関では罰してくれないからだ。マスコミに告白しても、ただ、不公平な大衆の罵倒を浴びるだけだからだ。
あらゆる事件は個人や大衆が公平なる世界を求めたのであって、公平の基準が個人に帰結する事による齟齬の発生が原因である。この公平性を求めるというのは、あらゆる行為に対して、説明を提供する一つの原理である。
しかし、個人も大衆も人を断罪する権限を持たない。自己の正当性を立証する事は、自己によっても大衆によってもできないからだ。なぜなら世界は循環論法であるからだ。この時、循環論法から離脱するための外部の視点が法律だ。
大衆もそれ自体では循環論法から離脱できない。なぜなら、大衆とは原始性、生物性の象徴だからだ。
たとえば、ある猟奇的で凄惨な殺人事件を仮定する。事件の惨状が凄惨であればあるほど、加害者の不公平分が大きい、という見方ができる。この視点では、被害者が既に報酬として得ていて因果応報である場合もあり、またその不公平分を、集団や社会全体が報酬として得ている場合のいずれかであるということになる。(後者は陰謀論に通じる)。この論理は犯人視点である。しかし、世界は主観体験でしか存在していない。公平の価値付は個人に帰結する。
では、個人の、または大衆の歪んだ価値基準を是正する取り組みが社会で必要だろう。
