最近、書いてきたことの復習に近いのですが。
生まれてから成長期にかけて。普遍文法を参照しながら「普遍文法´」を創っていく。これが人格である。(選択は常に瞬間であり、普遍文法´が瞬間に決めるが選択はタイミング次第であり、それは個性であり、脳波で示される。だから普遍文法´という規範が同じだとしても、誰もが同じ選択をするとは限らない)。これは普遍文法´を普遍文法に近づけていく作業だが、同じにはならない。これはまた道徳を発掘する作業である。子供が欲望に忠実であろうとすることから考えられるのは、人間の普遍文法がある程度完成するまでは、進化の系統樹に従った下位種の普遍文法が、成長に従って、漸進的に顕れていくいくのであって(内に顕れ外にも顕す)、この普遍文法の顕現のプロセスは、他者も含めた環境との相関が必要なのである。ここで、この普遍文法を道徳とし、普遍文法´を道徳´としてもいいのかどうかはまだ考察を必要とするのだが、とりあえずは、便宜的に同じとしておくこととする。
これが発達障害という文脈における「発達」である。
ただ、人は矛盾に必ず遭遇する。矛盾は子供でも見破る。原始的な生物でも見破る。餌だと思ったが餌ではなかった。これは事前に見破ったのではないが、事後承認的に見破っていると見なす事ができる。事前に見破るにはもう少し進化しなければならない。矛盾とは、同じ表象が二つの異なる意味を示してしまうことだ。
他者の矛盾的言動への遭遇よりも、自己の矛盾に気づくことの方がダメージは大きい。特に成長期において。最大の自己矛盾は、自己制御感の喪失だ。これは大人でもダメージになる。虐待や拘禁、体罰は自己制御感を減退させるが、性的虐待はさらに決定的に喪失させる。
再び原始的な生物に戻る。餌だと思ったが毒だった。この生物は既に死んでいる。報酬が罰になる。生が死になる。進化論的には、この矛盾に対抗できる法則を偶然獲得した生物がたまたま生き残る事になっている。しかし、私はその法則は予め世界に準備されていると考える。つまり普遍文法の最終形なるものが予め用意されていて、ある個体が、新たな法則を獲得する事が進化の起点になるということだ。
そこで自己制御感である。自己制御感の喪失とは死の疑似体験に相当する。なぜなら生物とは自己制御する自律的、主体的存在だからだ。自己制御できないのであれば、物質と同じである。成人は、これが統合失調症発症の契機となり、主人格がそもそも豹変し(本人は豹変に対して無自覚である)、統合されていた人格が分離し始める。子供は人格形成に障害が生じる。
