中止という非実在的行為を実行し続けている時、これは衝動の発生が消えていない状態である。

 

 また、我々は何も行為をしていない状態があるのかといえば、意識のある状態では、何らかの行為をやっている状態であるともいえる。これは自律神経を除くものだ。注意の発生は、同時的に衝動の発生であると考えると、同時的に反射行為を行わない事は、中止と言う非実在的行為の実行を反射的に行い、注意に対する何らかの行為を実行するまで、その中止と言う行為を実行し続けているといえる。座禅は、この注意が発生しないように無心になる事だ。かといって、「無心」という内的表象または言語的表象に注意が発生してはいけない。

 

 思考それ自体は、実在行為ではないが、非実在的行為である。しかし、思考が非実在的行為である事は、ここでは問題とはしない。外部の表象に注意が向けられた際に、感覚器官からの表象の情報(感覚)を統合的に構築する機能が意識である。思考は統合化された感覚の減衰や増幅を行い、イマジネーション即ち内的な表象を構築する作業である。実在行為が環境の注意に向けて実行されるのと同様に、思考によって非実在的に構築された内的な表象は注意の対象となり、行為はこの内的な表象に向けても実行される。むしろ意識的生物である人間は、この意識で構築した内的な表象に向けて行為を実行する。前回書いた通り、全ての実行は一瞬の選択の決定による反射行為だが、人間は意識で考えて実行したと考えている。意識で考えたのは表象である。例えるなら、どのような餌であるかをイマジネーションで構築したのである。この餌に飛びつくか否かを選択し実行するのは、一瞬の反射反応である。

 

 もし、注意の対象が意識に上がらないのであれば、行為は反射的に実行される。これは意識が制御できない行為が存在する事を意味する。そして実際に意識に上がらない行為は、いくつもあって病的なものも正常なものもある。正常な状態では、寝ている時の寝返りや体の動き、病的な状態では夢遊病。熱いものに手を触れた時に反射的に手を引っ込める。動く物を目で追う。などなど。

 

 しかし、「意識が制御できない行為が存在する」という表現は実は間違いだ。いかなる選択も意識は制御していない。意識が意思決定を行っているのではない。意識は、意思決定が行われたことを知る場である。意識は制御された結果、即ち表象を後付けで知るだけである。いかなる選択も一瞬で決まる反射反応だ。

 

 意識の役目は、前記した通り、餌としてのオリジナルの表象を作る事だ。では誰が選択しているのかという問題は自由意志の問題となるのだが、私の考えでは、やはり個体であって個人である。意識が個人に固有なのではなく、人格が個人に固有なのである。選択がタイミングの問題である事、タイミングは脳波が支配しているであろう事も前回書いたとおりである。

 

 考え事をしていて、一見して何もしていない時とは、実は中止という非実存行為を行い続けている。思考は、表象に対する欲望という衝動が時間的に引き延ばされた衝動ともいえるのであって、思考が生じた時点で、衝動的行為を中止し続けている。衝動的な実行も、行為の中止や停止や遅延という非実在的な行為も反射行為である。

 

 

 中止は、非実在的な想像上の行為であるが、現実に実行しているという実在性を持つ。つまり、その行為は非実在的に存在している、という矛盾を持っているのである。この行為は想像であり、妄想と言ってもいい。この非実在的行為の実行は、想像や妄想でイマジネーションした実在的行為を、現実に実行する事と関連があるはずだ。想像した事をそのまま実行してしまうという事の根拠である。

 

 衝動を意識に上げた時点で、その衝動はイマジネーションとなる。この衝動が意識に上がって後に実行する事は、非実存的行為の実行であり、これは意識が創った表象に対する反射反応である。原始的であれば、意識は介在せず、外部表象そのものに対する反射反応となる。従って、衝動が意識に上がった時点で、その衝動に関わる実行は全て、非実存的行為の実行といえるのである。意識が創った表象に対する反射反応か、外部表象そのものに対する反射反応か、ということだ。

 

 イマジネーションを「忘れる」というのは、中止または実行と言う非実存的行為から逃れる最善の方法だ。忘却ができなければ、反道徳的であっても、その欲望に忠実に実行するか、若しくは苦悩し続けながら、永続的に停止を実行し続けなければならない。忘却されなければイマジネーションは増幅され醸成され続ける。イマジネーションに対するイマジネーションの喚起が行われるからだ。

 

 ある衝動が意識に上がっていて、その衝動に対する反射行為が実行されていない時には、中止という非実在的行為が実行され続けている。しかし、中止が実行されているという事は、{想像における実在行為(中止という非実在的で現実には現れない行為ではなく、現実に現れる行為という意味の行為である)の実行}という非実在行為が実行され続けている。これは中止と言う非実在的行為が必要とする非実在行為である。この非実在行為なしで中止はできない。中止は非実在“的”なのであって実在するが、この想像上の実在行為は現実には非実在だ。この非実在の表象が消えない為に、この非実在の表象に対する行為の中止が実在し続けているのである。