意味解釈についての箇条書きメモ

 

 

 鳥は航空力学の計算を瞬時に行い、飛行を制御する計算能力も持っているが、人間より知能は低いと考えられている。その理由は意味解釈の能力が低いからである。鳥を見て、自分より頭がいいと思う人はいない。しかし、その理由はよくわからないはずだ。犬や猫を見ても、同じだ。全体の雰囲気が、意味解釈の能力を欠いている事を示しているのである。しかし、意味解釈の能力が欠いているために、頭が弱く見えるという事を理解している人はいないだろう。なんとなくだが、自分より頭が弱いということだけは確信できるのである。

 

 一見して自分より頭が弱そうな人も、話してみると意外にも知性・記憶力が高いことに遭遇する事もしばしばある。

 

 実は知能と記憶力は下等動物でも人間を凌駕する。下等動物が、人間より知能が低いように感じるのは、下等動物は意味解釈の能力が劣っているからである。例えば、鳥は航空力学の多次元的な計算を行う知能を持っている。この能力を無意識による自動計算であって、鳥が意識的に計算しているわけではない、と考えるのは誤りだ。例えば、我々は高所の崖をフリーで登らなければならない時に、無意識に完全に計算を委ねて安心して崖を上るわけではない。絶体絶命の状態では意識的に、無意識の知能を利用するのである。(しかし、この時、表象的な計算方法ではない事は明らかだ。無意識の非表象的な計算方法を利用している。また高等数学や物理学の天才も、表象的でなく、非表象的な計算方法を行っていると考えられる。ここに意味解釈は介在しない。従って、天才の言葉や公式は、私のような凡人には理解しがたいのである。)。鳥は空を飛んでいる時、自身が常に絶体絶命の状態である事を知らないほど、あるいは命知らずなほど痴ほう症的な生物ではない。地上と空を区別し意味を与えるだけの意味解釈能力は持っているのである。しかし、鳥はなぜ自身が生まれ付き鳥である理由を知らず、それを考えることもできない。内省するには、自己同一性の感覚を持つ能力が必要であり、さらにその能力の為には自他を分離する能力が必要だ。自他を分離するには、非表象的な情報共有能力を遮断する必要がある。人間は非表象的な情報共有能力を遮断し、自他分離に成功し、意味解釈の能力を発達させたのである。

 

 路傍に転がる石ころが、知性を全く持たないように見えるのは、意味解釈を反映して表象化(外部に表出)していないように見えるからだ。しかし、石ころの知性は極めて高い、という見方もできるのは、物理法則を完璧に理解しているために、物理法則に従う事ができるという観点においてである。知性は、その存在が固有で持っているのではなく、その存在が引き出しているだけである。従って、石ころの知性が高いというのは、実は間違った表現だ。

 

たとえば、何を言っても無表情であるか、もしくはいつも同じような作り笑いのような笑顔を浮かべる人、これは私の言葉に対応して変化していないために、私には少し頭の弱い人に見える。

 

知能指数は意味解釈とはあまり関係が無い。しかし、知能検査のテストを受けるためには意味解釈がある程度できているということになる。鳥にテストを受けさせることは不可能に近い。フォーミングできればいいが、フォーミングにはある程度の意味解釈能力が必要になる。調教できる動物は、意味解釈ができる動物だ。哺乳類や鳥類は概ね調教可能で、両生類、爬虫類も人間になつくことがあるから、これは意味解釈能力がある程度発達している事を示す。意味解釈能力を原始性に還元すると、やはり違いを見分ける事であり、その意味では宿主を選択するウィルスも意味解釈の原点を持っていると言える。特定の物質を摂取するという意味では、もっと原始的な原生動物も意味解釈能力をもっているのである。

 

知的障害者も同様だ。知能自体は高くても、意味解釈能力の欠如で、問題を解くことができず、知能指数検査が低くなっている可能性もある。これも鳥と同じ。

 

表象操作(コントロール)の問題で、これは道具的理解能力であり、意味解釈とは道具的な世界の理解の仕方ではないかと直感的には分かる。鳥も巣をつくるという意味で、比較的高度なレベルの道具的理解野力を持っている。

 

意味解釈というのが、実は曖昧なのだが、これは人間と下等生物を隔てる決定的な違いであることは間違いない。たとえば知的障害者に見える人は、特に何かをしているためにそう見えるというわけでもない。これは表象的には微妙な差異であるにも、かかわらず、歴然として違いを認識できるのである。

 

時間が関係ありそうだ。つまり、過去の「私」の存在が重要になる。私一人で「意味」というものを成立させようとすると、今の私だけではできないし、不要である。過去の私が必要になる。

 

時間は常に意味を創出している。しかし、無表情である人、全く変化が見られない物質には意味を見出せない。これは実質的に時間が存在していない。意味を見出せない対象に対する感慨は、その対象は意味を理解していないというミラーのような認知構造がある。

 

ランダム性。周期性からの離脱が意味創出だろう。これは合成音声と、人の声との違いでもある。表情に乏しい人は周期性が高い。つまり同一性の再現である。異化の傾向が少ない。

 

ここで発達障害について。つまり彼らは特定の周期に支配されている。同一性の再現性が高い。常同行動もそうだ。ある事柄や興味のある事に固執する事もそうだ。一点を見つめる傾向もある。

意味解釈は能動性だとすると、この観測による彼らの受動的な非能動性は、自身の意味解釈をも妨げているはずだ。

 

同一性が継続すれば、そこに意味は発生しない。

 

同一性は、ある意味では非実在であり、この非実在に対する反発、反・非実在の指向性があるからこそ、生物は反周期性、ランダム性を指向し、その頂点が人間だと言える。人間は知能の頂点ではなく、反周期性=意味解釈の頂点という事だ。

そして発達障害者は、反・非実在の指向性エネルギーが蓄積され、暴発する可能性あるいは、精神異常に発展する可能性が高い、ということになる。

 

意識というのは、道具的理解しかできず、即ち意味解釈的理解能力しかできない。逆説的には、意味解釈的理解または道具的理解の能力の発達によって意識的生物、意識が優勢な生物が生まれたと考えられる。

 

例えば、天才型の発達障害者は、アイデアを他者に伝える事に失敗する。例えば天才物理学者の公式は、凡人には理解できない。たとえば天才型の野球選手は、必ずしもコーチには向いていない。これは自己の意味解釈に難があるために、他者に意味解釈的な伝え方ができないということだ。

 

下等動物は、意味解釈が固定されているのではないかと思う。あるいは種によって特定の表象が特定の意味に固定されている。ここに意味解釈の可変性・多様性と信念の問題がある。これは下等生物が下等であるほど、人間になつきにくい事と関係あるはずだ。その可変性・多様性の為に人は、食べ物に慈悲を感じてしまう。