本来的な思考なるものは、膨大な時空を含む壮大な物語的な情報が、一瞬で終わっており、それはまさに時空を超越して膨大な情報量であり、脳の能力では説明不可能なレベルである。詳細は省くが、ここで言いたいことは、思考は一瞬で終わっているのであり、我々が通常指す思考とは、その本来的な一瞬の思考をあえて時間的に引き延ばした冗長なる何か、表象に近づけた冗長なる論理に過ぎない。この表象化の過程と表象の操作が思考と称されているが、そのような一般的に思考と言われているような思考は、冗長なだけではなく多くが削ぎ取られている。むしろ、一般的な思考とは、本来的な思考の回収努力であって、断片を拾い集めているという表現が適切だろう。つまり、ほとんどが忘却されている。
思考の読み取りなど、幻想に過ぎない。ヘッドホン型で思考の読み取りが可能なレベルまで来ているという事だが、それは本来的な思考とは異なるものだ。その一瞬の膨大な情報量を読み取って記録するだけでも、膨大な記憶容量を必要とするし、それは読みとり不可能である。なぜなら、その一瞬の思考は、脳という矮小な表象的器官で行われていない事は明らかであるからだ。
残滓を読み取ることに何の意義があろうか、と考えた時に、この残滓こそ、私が世界に吐き出している行為であり表象であり、人類全体としての文明の構成要素なのだと気づいた。我々が見ているものは我々自身の残滓であって、それらは全て表象である以上は、感情である。では残滓を除いた本体は何かといえば、道徳に外ならないのである。
