「信頼についての錯覚( 2025. 09. 21投稿)」記事の修正。2

 

―――――

子どもが騙されやすく、屈託がないのは、世界は自分の命令系統下に在ると確信している段階に在るからだ。言い換えると、子供はまだ原生動物の世界に在り、これは不確実性の自己生成能力が低く、フラクタル構造が完全に近い。ベクトル性の速度調整能力が低く(これが不確実性の自己生成能力が低いということだ)、自己生成的に内在する粘性ではベクトル性を制御できない。社会的な粘性によってベクトル性を強制的に抑圧されている。経験(失敗、拒絶)を通じて、速度調整能力を獲得していくのが発達だ。これは不確実性の自己生成能力を高める、ということになる。裏切り、失敗、拒絶というフラクタル構造における矛盾を解決する方法が、速度調整だ。

 

矛盾を解決する速度調整の法則は表象化されて外在していて、一般的には道徳と呼ばれている。言語は顕在的に道徳を顕すことが可能だが、明示的な方法は浸透を拒否される事もある。言語文法は潜在的に道徳を含んでいて非明示的であるために浸透に気づかない。

 

外国人二世は速度調整の矛盾に遭遇しやすく、やはり速度調整能力が身に付かないだろう。生まれ育った地域の速度があるのであって、両親の速度と速度調整方法が違う事や、友人の速度や速度調整方法が違う事は、速度調整能力の基盤を構築する事を妨害するはずだ。つまり速度は基準となる速度がなければ、観測できないし、調整すべきかも分からない。私の定義では、発達障害とは速度調整能力の障害だ。生来的に発達障害者の資質を持っていなくとも、外国人二世は発達障害になりやすいと言える。

 

この速度は、生物種、出生地、社会、集団という所属カテゴリー別に醸成されるはずだ。生物種というカテゴリーでは生得的な速度基盤があるだろう。ここでいう速度とは、距離と時間で規定される現実の速度ではなく、世界生成の密度だ。世界は密度で構成され、密度をもって生成されている。我々は(物質も含めて)1点に収束しているわけではないので、その関係性は加速度で表され、また生物は、この加速度を調整する能力を持っている。精神の働き、あるいは知覚の働き、あるいは反応というものと、物理現象は分離できない。変化と物理現象が分離できない、のと同じ意味だ。

 

 言語文法、及びその上位の普遍文法自体は、無意識の反射メカニズムを表している。つまり合理性だ。これはベクトル性(生物的合理性)に対する速度調整の結果としての合理性だ。「動く」ではなく、「足を動かす」。「足を動かす」ではなく、「歩く」。「歩く」ではなく、「駅まで歩く」。「駅まで歩く」のでなく、「駅まで急いで歩く」。具体化し、分岐し、細分化し、修飾し、再構造化していくことに、ベクトル性の抑制の結果、即ち速度調整の結果が表れている。分解と再構造化によって、原始的な未分化の行為が、意味を持ち始める。これは行為に境界性を与える事だ。この分解と再構造化の作業工程に不確実性が含まれるので、その痕跡が言葉に残る。言葉の歴史的変遷は、言葉に道徳を含ませてきた歴史だ。合理性に収束してきたわけではない。合理性に収束するのであれば、数字だけでいい。