(雑記)

 

 前後してしまうが、前回の記事を記事を書く前に考えていた事のメモを少し整理したもの

 

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 命という基準の照合不可能性が、決して満足に達しない理由である。命は意味しか持たない。価値に換算する事は困難だ。しかし、命の意味と価値は世界のあらゆる表象や前表象(感情や感覚)の価値を決めている。世界には最小単位の絶対値は実在せず、最小単位の意味だけが実在している。度量衡は、それ単体としては、最小単位が規定されなくとも何の支障も生じない。比率だけがあればよい。物価の上昇が避けられないのは、最小単位の価値換算が比率的な指向性をもって上昇する事を意味する。

 

 

命から遠ざかるにつれて、世界の事象の価値は下がる。

 

 

基準から翻訳した比率的価値(数量で表現できる価値)は照合に利用できる。従って、無意識は意識の「私」に比率的価値の決定を促す。「私」しか、決定できない。無意識は決定するメカニズムを持たない(前言を翻すようだが)。論理や計算は、それだけでは何の役にも立たない。それだけでは、何も選択できないのである。ということは、決定のメカニズムは脳に表現されているとしても、事後的なメカニズムとして存在するはずである。

 

 進化論的には、命という基準の翻訳的価値・比率的価値は増大している。差異という観点から進化を見ると、個性化が顕著な人間は不確実性(の出現頻度)が高く、唯一無二性も高い。容姿も他の動物と比べて、容易に個体の判別が可能である。だからロボットはロボットに見える。昆虫はみな一様に見える。不確実性こそ、基準の比率的価値を決定しているという比例的な関係性が成立する。

 

 他にも命の性質を表す認知的傾向は散在している。たとえば大きさである。小さな虫は平気で殺せるが、大型の哺乳類を殺すには罪悪感や躊躇を伴う。大きさも比率的価値に関係している。また殺害時に暴れたり、血流が噴出したり、内臓が飛び出るような生物も比率的価値が増大する。ゴキブリなど叩きつぶすと、はらわたが出るのは嫌だから、他の方法で殺虫する。これは気味が悪いという別の観点でもあるが、この観点も命の一つの側面であって、翻訳された価値だろう。たとえ大型であっても、破壊する事にあまり躊躇が無くむしろ楽しいのは、ビルや山や車や通常兵器などの無機質な物体である。一方、映画などで見られる個性があるかのように見えるAIロボットには、罪悪感や躊躇を持って破壊する事に躊躇や憐憫を覚える。愛玩動物に対しては、その種に関わらずその愛玩動物の命の比率的価値が増大する。

 

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 自己責任性の行為と、他責の行為がある。これは重要な視点だ。自責行動の駆動原理は道徳であり、他責行為の駆動原理は欲望だ。他責行動はモデル化、数値化、原理化可能な原理に従っている。シンプルな罰と報酬の原理だ。自責行動、道徳的行動は数値化不可能、むしろ理由が無いと考えられるような行動だ。

 

 基準を持たずに過ごしてきた人や、基準を喪失した人、基準が希薄だった人は、二項対立の世界の世界に強く惹かれるだろう。基準を与えるからだ。つまり基準の一つの側面は道徳である。道徳は二項対立であるからだ。ある思想や主義に傾倒する人、没入する人、一体かする人がいる。最後の人は、それまで全く基準が無かった人だ。基準がなくては決定ができない。行為はループし、その人は一か所に留まり続ける。離脱するために基準を探し求めるのである。

 

 この二項対立を提供するのは、たとえば明確な被害者世界であり、あるいは神と悪魔の世界である。しかし、ただ、それが提示されているだけでは依然として、何も決定されない。基準が具体的な行為を規定している必要がある。基準設定は、仮定法となる。心の在り様や精神の安定の拠り所となる宗教、世界を規定する思想、世界を再構成する思想、ただそれを信じるだけでは、仮定法の基準設定とはならない。

 

 罰と報酬の行動原理は、“今”は基準設定ではない。原理主義、つまり合理的な因果関係、普遍的な因果関係なので外部に展開しない。罰と報酬という普遍的合理性に基づく基準設定は、外部に展開する仮定法ではなく、内部的な論理に収束する。しかし、罰と報酬は、マイナスとプラスという二項対立であって、初期生物に出現した最初の道徳である。この二項対立は、初期生物以降に普遍的に共有されている道徳であり、道徳と合理性の合致点の最初の事例である。しかし、既に原理に収束していて外部性を含まない。という意味で“今”は基準設定ではない。

 

 

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 虐待や拷問が何を確定させようとしているのか?あるいは憎悪感情は何を確定させようとしているのか?何を対象に求めているのか?を考える時、相手の泣き叫ぶ姿、ひれ伏して許しを請う姿、つまり生物原理に忠実である事を、表層的には求めている。これは原理の確定だ。しかし、それでも満たされないので、エスカレートする。これは、確定とは自己参照型の確定である事を示唆する。事前の比率的価値を凌駕できないのは、基準がないからだ。無限大の憎悪感情だ。健全な精神を僅かばかりでも持ち合わせていれば、それは基準を持ち合わせているという事であり、その場合に、満たされなくとも停止が働く。

 

 過去の事件事例を見ると、誰もが基準の利用方法を喪失するか、基準を喪失する可能性のある事も示唆している。例えば、尼崎事件(wikiに拠れば1987年~2014年。確定はされていない)。主犯が、被害者相当の被軟禁者を、加害者に仕立て上げて、この元被害者が加害者になっていく事件だ。この構造においても主犯は、確定(過去の被虐で失われた基準の獲得か、過去の被虐で生じた感情への到達=欲望の成就)ができていないために連続的に殺人が行われている。元被害者の加害者においては、確定性(欲望の成就)の欲求ではなく、原理支配のロボットだ。このロボット化されて加害行為を行う元被害者を目の当たりにする事は、主犯にとって前記した一つの目的としての原理確定(原理支配の完全証明)なのだが、真の確定は基準との照合にある。元被害者においては殺人を道具とした確定欲求はない。主犯は確定の作業を要し、しかし確定できないために同様の事案を繰り返してきている。元被害者の加害者も、当初、確定欲求ではないにしろ、次第に確定欲求が芽生えていく可能性が在る。それも資質に拠るだろう。この資質は主犯の資質と同じだろう。主犯は基準を失っており、被虐感情が基準にとって代わっている。この場合に、感情は比率支配であって、どのような加虐を行ったとしても、過去の被虐感情を凌駕する感情に到達する事はないだろう。比率支配とは、一つには基準となる感情を得た状況との同一性が必要な事と、内的再現による増幅だ。たとえのカテゴリーは全く違うが、子供の時に食べたおいしい食べ物には二度と出会う事が無いのと同じである。感情や欲望は比率支配のために、増幅する。道徳は二項対立なので増幅されない。道徳が失われると、比率的に増幅していく指向性支配、感情支配、欲望支配となるだろう。

 

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 生贄や古代の闘技場とは、原理確定、そして基準の確定の意味を持つ。観衆は、基準が同一化される可能性がある。ただし、真の基準には達しない。満たされる事は決してない。オキシトシンが基準の同一化に関与する可能性は高い。仮の基準が設定される。これは感情で表現される。感情は基準検知器か、基準表現機能か。この基準は感情のみで構成される。基準は本来道徳を含む。感情で構成された基準は延々と比率的に増幅される性質を持つ。感情は二項対立ではない。道徳が禁忌である理由は二項対立であるためだ。

 

 

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 感情はむしろ比率的であり、無意識(脳)で構造化処理が可能である。道徳的判断は、自責におけるトリガーである。これはだいぶ前の私の主張(その時はアイデアに近かったのだが)に一致する。一方で、我々は習慣行動など原理的行動も行うが、やはり感情という比率では何事も決定しないのであり、これは過去のモデルを参照しており、この行動の許可を「私」が事前に与えているだろう。

 

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 話を戻して、また算数とか数学。数学は選択ができない。1÷3=0.333333...と続く。我々はこれに選択を与えて、小数点二けた以上は切り捨てるという選択ができる。1÷6であれば、0.1666666...を小数点以下二けた以上は切り上げるか切り捨てる事ができる。数学を選択に利用するにしても、閾値設定や基準設定し、利用方法を与える事が必要である。たとえば、10に達した時に、何かをするという設定だ。選択は外部でなくではできない。内部では何も選択していないし、できない。必ず当たる馬券というものを教えられたとしても、買うか買わないかを決定するのは「私」である。

 

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 原理再現性・原理忠実性の原理には、選択原理を含む。このため、原理の完全証明は果たせない。「私」が直近若しくは、事前に、あるいは予定を計画し、選択の権限を無意識の最適化原理に委譲した場合に行われた行為は、依然として世界(身体でもいいが、主観体験である為に世界をあてはめる事ができる)が原理によって駆動している事を証明しない。私の恣意性、不確定性、不確定性によって世界が駆動している事を証明するだけだ。従って、「私」が覚醒している時には、証明されない。無意識は原理主義であり、従って私が、意識において、このように論理的かつ言語的に考える事は、自由意志を確固たるものする。

 

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 宇宙食のように、液状で栄養素が全て含まれているような食べ物は、合理性の成果であることは歴然としているが、道徳でもある。つまり肉を加工し、その生前の姿とは全く違った形態にする事は道徳に含まれる。この忌避は道徳だ。矛盾的に合理性(生物性、感情)と道徳が合致している。人間は、矛盾的に合理性と、道徳を合致させていく事ができるようになったともいえる。これはやはり漸進的な価値観の変容を必要とする。離乳食のような食べ物を、誰も日常的に食べたいとは思わない。しかし、食糧難やエネルギー問題を解消する方法は、この道徳と合理性の合致点を見出す事だろう。

 

 つまり、我々は、無意識の指向性に従うのではなく、無意識の計算能力を利用できる資質を持ち合わせているのであり、無意識的人類を排除する必要はないという事だ。これは道徳のの慈悲の精神でもあり、生物的合理性の感情でもある。

 

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 ・表象はそれ自体は無意識の感情を表わすが、分割され離散化されており、決定されている。道徳に拠って離散的世界になっているのである。感情によって指向性的世界になっているが、哺乳類の中では、指向性は抑制されている。むしろ画期的と捉えていいほどだ。悲観すべきではない。

 

 ・子供のころ食べたラーメンの味には出会えない。これは不確実性が二度と到来しない事を示唆する。しかし、記憶で想起できるという事は、この過去が原理化されており、この原理の条件は無数であり極めて厳密ということだ。この厳密性が過去の不確実性、唯一無二性を表現しているはずだ。

 

 ・過去の反芻は原理支配の状態だ。記憶にふけっている状態は原理支配だ。確定性が過去に働いても、過去には操作性がない。閉じた世界に閉じこもることだ。