今でも、街の中で「おかあさん!」という子供の声に振り向いてしまう自分がいます。私の子供達は、もう立派な親になっているというのに(爆笑)

私は、あなたたちを産んでから、母となるための育成課程を経てやっと母親になれました。時には投げ出したくなることもありました。自分の情けなさ、力の無さに涙したこと何度あったことでしょう。そんな赤点だらけの私がやっと母の卒業証書を頂けたのは、あなた達のお陰です。元気に真っ直ぐに育ってくれたこと、心から感謝申し上げます。

今の私が、幼いあなた達と出会っていたら、もっと大きな心で受け止められたのに。でも人生とは、やり直せない一度きりの舞台。沢山の後悔が残ります。そんな私も60歳、あなた達に負けぬよう、最後の舞台を愉しんでいこうと思ってますので、よろしくね。

 

そして、最後に母として伝えたいこと… 

お陰様、その気持ちを忘れないで生きていくこと。

 

あれ、これはJUJUが塩沼尊師より頂いたおことは゛。

 

 

 

2002年、脱サラしまだ手探りでお店をやってた頃の話。

看板のない真っ黒のドアを、堂々と開けて入ってきた男がいた。カウンターには3人の美人さんが呑んでいて、咄嗟に私はその男にこう告げた。この店には三つのルールがあります。一つはお隣の方と決して話をしてはならない、二つはどこのお偉いさんであれ名刺抜きのお名前でお付き合いする、三つは一杯500円に込めた思いを宜しくとかなんとか…かなりキツい言い方で告げた。一見のお客様への洗礼である。

しかしだ、翌日も、その翌日も彼は訪れ、三顧の礼?みたいに独り黙って薬酒を呑み帰って行く。無礼には無礼で、礼には礼で。それから彼とのいいお付き合いが始まる。

その後数ヶ月して彼は広島へ転勤。その際、後にこのお店にとって重鎮なお客となる後任の(ある有名な損保の支店長)方を紹介してくれた。

そして、2011年。震災の時には一週間仙台へ入り、傾いた私のお家を彼自身が診てくれた。大雨の中、ずぶ濡れになって。

昨夜、彼が突然現れた。15年前のあの時のように…ではなく部下を5人伴って。

今は北海道の統括らしいが、その真摯な姿勢は変わらない。

銀座の有名なママが語ってたが、出世していく男はわかる、呑み方が紳士だから、とあったが、今となっては私でもそれが読めるようになった。

そして、人生の中でほんとうに縁がある人というのは、大事なとこでまた繋がる。私がお店を続けてるかぎりそんなご縁は続く。

今回のハーブ製剤講座は、エリキシル剤及びリモナーデ製作。最近身体の衰えを痛感している私は、引退も考慮し初めて娘を参加させた。横浜日吉駅を降り、植物療法の学校トトラボへの道は、いつも新鮮な空気に包まれている。講師の村上薬学博士からは毎回様々な知識を得る。学ぶということは、こうして足を運び直に五感で感じること、それを娘にわかって欲しい。専門用語が飛び交う。必死にメモを取る娘が、気になる。そのせいか、いつもよりもあっという間に講習が終わった。

しかし、腹は減る。新丸子の三ちゃん食堂でガソリン(おちゃけ)を入れ、一番の目的である、西新宿のベンフィディックへ。今年、アジアランキング50に日本から8店舗が選ばれた、そのひとつ。近年海外で新しいバーのスタイルとして確立された新ジャンル「ミクソロジー」を堪能できる唯一のお店。今では予約が取れないそうだが、渋谷ちゃんがコネで取ってくれた。持つべきは良き呑み友。オーナーの鹿山さんはボタニカル素材、スパイスやハーブといった材料に精通しており、なんと自家製のアブサンがあるという。absinthe好きの私がずっと行ってみたかったバーであるし、何もわからない娘に、まずは最高のバーで何かを学んで欲しかった。私は、その自家製アブサンを、娘は、鹿山氏より、来月の大会で披露するというバナナカクテルを作って頂いた。この時間を永遠に生命に刻もう。

緊張感を引きずりながら、いざ中野へ。ひろみちゃんの息子さんの経営するフレンチへ、東京から西岡さんと佐々木君、そしてJUJUも合流。ここが東京であることを忘れるくらい愉しんだ。お泊まりは新宿のゴジラのホテル。

その夜、私たちは爆睡。翌日は、いつもの問屋でお酒を仕入れ、日比谷の松本楼でカレーとシャンパンに酔い、仙台へ戻り、ゴスペルの受付をお手伝い。今回のXmasコンサートには、日本が世界に誇るサルサバンド「オルケスタデラルス」のパーカッショニストの佐藤由さんがゲスト出演。由さんのかっこよさに目が釘付け。まぁタイトな2日間でしたが、様々な業界のトップに触れ、これ最高の時間なり。そして日々修行。今夜も素敵な出会いがありますように…