「ある女子カテゴリーに出場した(しようとしている)選手について,女子カテゴリーに出場してよいのか?」論争。
大きなスポーツ大会の度に話題になる。ありふれた話題。解決できないから毎度話題になるとも言える。
この話が面倒な(難しい)理由は,大きく2つあるように思う。ただし,きっぱり2つに分かれるわけではなく,互いに絡み合った2つ。(だからこそ,いつも面倒だ)
1つ目は,現代においては,男女の線引が一意ではないこと。つまり「この人は女性ですか?」という問いに対して,今は客観的な答を出しづらい。(ある生物個体をもってきて,「これは人間ですか?」と問われるよりはるかに答えるのが難しい)Wikipediaをみても難しさがわかる。
そもそも生物学的にも,各個体について「女性(メス)的な特徴(性質)をどの程度もつか」(あるいは「男性(オス)的な特徴(性質)をどの程度もつか」)という「程度の問題」であって,集団をきれいに(客観的に)カテゴライズできるようなものでもない。
ほとんどの個体は片方の特徴だけが圧倒的に強いので,問題なく「この人は女性(あるいは男性)です」と合意できる。しかし,両方の特徴をある程度もつ人の場合には,二択問題としては非常に難易度が上がり,合意できなくなってくる。
「二択問題にすること(各個体について,必ず女性か男性かのどちらか一つに決められるという信念)自体が不適切」というのが,生物学的にも真実なのだろうが,現代社会においては実務上決めなけらばならないシーンが多い。とくにスポーツにおいてはこの要請が非常に強い。
なぜなら,どちらにカテゴライズされるか(女性と認定されるか否か)で,世界チャンピオンになれるかどうかが事実上決まる人がいるから。別の言い方をすれば,カテゴライズの結果によって誰が世界チャンピオンになるかが決まるからである。これが,関心を高める大きな理由。
この問題(二択問題)は,スポーツのレギュレーション的な考え方によって,理屈上は解決可能だと思われる。例えばだが,体重別が認められているように,テストステロン等のホルモンの値や染色体型(あるいはそれらの複合条件)による階級分けのような客観的なやり方が考えられる。
ただし「テストステロン値〇〇未満かつ染色体型☆☆の者のみが,女性カテゴリーに出場できる」というような言い方はやめた方がいいと思う。現代では,女性(women)という言葉は非常に様々な意味で使われていて,様々な「女性」がそれぞれ価値をもっている(もたされている)。別の言い方をすれば,社会的に「二択問題になるべきでない。できない。」と考えられていて,その境界を曖昧にさせつつある。そのような現代において,客観的かつ科学的あるとはいえ,特定の定義を強要していると解釈されかねない線引きは受け入れられないと思う。
体重別に行われる競技で使われる「〇〇kg級」のように,無味乾燥な(価値判断になるべく影響を与えない)言い方,たとえば「カテゴリーX」のようなネーミングにするのがよいと思う。「あくまでも,(ホルモンの値や染色体型を用いた)競技上のクラス分けであって,個人の性については何も判断していない」というスタンスでないとダメ(受け入れられない)だろう。(自分のアイデンティティー(生まれてから信じていた性)が否定されるような状況が発生するのは好ましくない)それくらい現代の性概念は複雑。
この問題の2つ目の理由は,そもそも2つのカテゴリーに分けているから。
事実上の無差別カテゴリーと,特定の条件を満たした者だけが出場できるカテゴリー(女子カテゴリー)に分かれていなければ問題は起こらない。
こんな主張をすると「何をいっているのだ?女子が活躍できる場がなくなる」と反論や批判を通り越して馬鹿にされそうだが,「女子という条件によるカテゴリーのトップが全人類のトップと同等に称賛されなければならない理由(必然性)とは何なのか?」という問に到達する。
何が言いたいかというと「人類を分割するもの(分割しうる性質)は何も性別だけではないだろう」ということ。
「先天的な条件」に絞ったとしても,たとえば人種があるし,人種によって多くのスポーツのパフォーマンスが異なるのは明らか。にもかかわらず,(人種もきれいに分割できるわけではないが)オリンピックを人種で分けず,性別で分けるのは何故か?「黄色人種のトップは,全人類のトップと同等には称賛される必要がない理由とは何なのか?」ということでもある。
人種差と性差は(程度が)違うという議論はあると思うが,今後医学等の発展により,生まれた段階で「この男児が100mを11秒以下で走れることはありえない(100mの世界記録の男女差は1秒未満)」がわかる日が来たら,新しいカテゴリを設けるべきなのか?という問にもなる。
かつての有名な炎上ツイート
にもあるように,将来オリンピック級のパフォーマンスができるか否かは,遺伝子段階で決まっている(当然トレーニングも必要だが)ことは多くの人が認めている(このツイートが炎上したのはあまりに正論だったからという側面がある)。現代の我々は,(性別を除けば)持って生まれたことも含めて能力であると認め,その特別な遺伝子と過酷なトレーニングの合せ技としての人間離れしたパフォーマンスを称賛する。
この称賛のロジックから性別を除外する(例外扱いする)理由は,合理的には見当たらない。
性別を特別視したいのは,理屈(合理性)を超えた問題で,おそらく歴史的なもの(権利の性差等)にも根ざしているのだとは思うし,多くの人にとってのアイデンティティーは,私は黄色人種ですより先に,私は女性ですが来るのだろう(黄色人種である前に女である)。
そうはいっても,科学的な知見が増えた現代においては,気持の問題を越えるような可能性もあるのではないか。
マイケル・ジョーダンのプレイを見た背の低いアジアの少年が,楽しみのために(NBA入を夢見るわけでもなくただ)バスケットを始めるように,隣に住んでいる少女も同じようにバスケットをするでいいのではないかと思う。様々な性の課題を見るに,我々はもっと性に(とくに他人の性に)無頓着になっていいのではないかと思う。「そういえば,マイケル・ジョーダンって人は男だったの?」という世界がきてもいいのでは。