医師は、「認知症はいろいろな原因がある」とだけ言った。
私は、「30種類ぐらいあるそうですね」と応答した。
普通、ここで、うちの母の場合は、~と、説明してもらえるはずだけれども。
説明されず。
認知症と診断されていても、詳しい内容は、関知せずと。。
その後、市役所の人と約束があるので、介護保険のことで。。。
といって、席を立っていった。
私は、地下のケアに行き、もって来たパソコンで、禁食についてのネットのQ&Aを、表示しようと、パソコンをネットにつないだ。
しかし、最初つながったけれども、切れてしまった。
家で、検索したときのパソコンとは別のを持ってきたので、あらためて、検索して表示しなkれば、ならない。
ケアマネとは、医務室で言われた身元引き請け人と、話し合ってください、という話の続きを、はじめた。
私が、本当は、身元引受人になってくれといわれていたけれども、断ったため、妹のだんながなり、妹のだんなが死んでしまったので、妹になったことを、話した。
しかし、妹は、父の頼みを聞いて、いろいろやってあげていた。
父と妹は、仲がいいというか、私が父を避けていたというか。
父は、私に向かって、「お前は、おれにこずかいをくれてもいいんだぞ」と、昔言った。
父の年金は、40万円近かった。
私は。そのころ、夫婦二人で働いていたけれども、住宅ローンでぎりぎりの生活であり、家を退職金で建て替えた両親のほうが、可処分所得は多かったはず。
それなのに、そんなことを言われ、さらに、父は、弟にこずかいをやっていた。
弟は、司法試験を受験し、予備校に通わせてもらっていたのに、ちゃんと勉強もしなかった。
甘やかされて、だめ人間になっていた。
そういうわけで、私が身元引受人になったら、父は浪費するのではないか、最期、私に払わせればいいと思ってるのではないか、という心配と、50坪の家で、夫婦別室で暮らしていた両親が、50平米の小さな部屋で、一緒に住んだら、きっとけんかすると思ったため、ぎりぎりになって反対したのだっや。
それから、嚥下能力の話になった。
私は、少しでも飲み込めるならば、食事をする練習をしなければ、忘れてしまう、といった。
10%で、食べる能力があるというのですか?
と、ケアマネは、言った。
つまり、60%とか、もっと食べられなければ、食べる能力がないと、いいたいらしい。
ケアマネジャーは、会議があるので、行きますが、また終わったら顔を出します、と。
看護師が、指先の酸素を測りに来た。
指先では、80以下で、測定できないらしい。
そのため、足の指に変えて、測定していた。
足でも大丈夫です、といいながら。
このとき、私は、まだ何もしていなかった。
きっと、私が何かしたので、下がったというつもりだったのだろうけれども。
何もしない状態で、これだ。。。
しかし、次の日、顔を出した西○が、私のせいで、酸素量が80台にまで下がったと、言ったので、私は、最初に図ったとき、測定できないくらい低かったんですよ、といっってやった。
最初のは記録に残していなかったのだろうか。
私は、パソコンを見せる相手がいなくなったので、パソコンは閉じて、母の食事の用意をした。
アサイーのゼリーとお茶。
アサイーのゼリーは、3分の2くらい食べた。
前日よりも、よく食べるようになった。
ケアマネが、会議が終わりました、といって、顔を出した。
私が、母に食べさせているのを見て、いったん、出て行き、またきた。
そして、
「ここには、STがいないので、嚥下のリハビリはできません」といった。
そういうわけですか。。。
と、私は、愕然とした。
実は、ある場所で、言語療法士のセミナーを聞いた。
嚥下の能力を大事にするべき、という話だった。
その施設に、誤嚥性肺炎を起こす夫を預けている女性と、おしゃべりしたことがある。
彼女は、誤嚥性肺炎を起こすと、病院に入院することになっているけれども、直って戻ってきた、という話だった。
たびたび誤嚥性肺炎を起こすので、娘さんの手配で、その施設(老人保健施設)をでて、特養に行くことになった。特養では、元気がなくなってきた、老人保健施設のほうがよかったと、言っていた。
言語療法士さんがいたので、嚥下のほうもリハビリしてくれていたのだ。
だから、私は、母が誤嚥性肺炎といわれても、そんなに命にかかわるようなことはないだろうと思っていたのだけれども、なんでこうなるの!!、まさか、と思うような展開に、ひどい、このまま死んでしまうのだろうか、と、あわてるばかりだった。
そうか、この有料老人ホームでは、業界一位といわれながらも、認知症の診断も、治療も、嚥下のリハビリも、やってくれないのだ。。。
ずっと、高いお金を払っているのに。。。
介護保険制度も、両親がこの有料老人ホームに入った後、できた制度だし。
両親が、この施設に入った当時は、いろいろな介護施設がなく、選択肢がなかった。
今は、特養でも、ここよりましだと思った。
何しろ、みんな明るいし、遠足にも連れて行ってくれる。
私は、「30種類ぐらいあるそうですね」と応答した。
普通、ここで、うちの母の場合は、~と、説明してもらえるはずだけれども。
説明されず。
認知症と診断されていても、詳しい内容は、関知せずと。。
その後、市役所の人と約束があるので、介護保険のことで。。。
といって、席を立っていった。
私は、地下のケアに行き、もって来たパソコンで、禁食についてのネットのQ&Aを、表示しようと、パソコンをネットにつないだ。
しかし、最初つながったけれども、切れてしまった。
家で、検索したときのパソコンとは別のを持ってきたので、あらためて、検索して表示しなkれば、ならない。
ケアマネとは、医務室で言われた身元引き請け人と、話し合ってください、という話の続きを、はじめた。
私が、本当は、身元引受人になってくれといわれていたけれども、断ったため、妹のだんながなり、妹のだんなが死んでしまったので、妹になったことを、話した。
しかし、妹は、父の頼みを聞いて、いろいろやってあげていた。
父と妹は、仲がいいというか、私が父を避けていたというか。
父は、私に向かって、「お前は、おれにこずかいをくれてもいいんだぞ」と、昔言った。
父の年金は、40万円近かった。
私は。そのころ、夫婦二人で働いていたけれども、住宅ローンでぎりぎりの生活であり、家を退職金で建て替えた両親のほうが、可処分所得は多かったはず。
それなのに、そんなことを言われ、さらに、父は、弟にこずかいをやっていた。
弟は、司法試験を受験し、予備校に通わせてもらっていたのに、ちゃんと勉強もしなかった。
甘やかされて、だめ人間になっていた。
そういうわけで、私が身元引受人になったら、父は浪費するのではないか、最期、私に払わせればいいと思ってるのではないか、という心配と、50坪の家で、夫婦別室で暮らしていた両親が、50平米の小さな部屋で、一緒に住んだら、きっとけんかすると思ったため、ぎりぎりになって反対したのだっや。
それから、嚥下能力の話になった。
私は、少しでも飲み込めるならば、食事をする練習をしなければ、忘れてしまう、といった。
10%で、食べる能力があるというのですか?
と、ケアマネは、言った。
つまり、60%とか、もっと食べられなければ、食べる能力がないと、いいたいらしい。
ケアマネジャーは、会議があるので、行きますが、また終わったら顔を出します、と。
看護師が、指先の酸素を測りに来た。
指先では、80以下で、測定できないらしい。
そのため、足の指に変えて、測定していた。
足でも大丈夫です、といいながら。
このとき、私は、まだ何もしていなかった。
きっと、私が何かしたので、下がったというつもりだったのだろうけれども。
何もしない状態で、これだ。。。
しかし、次の日、顔を出した西○が、私のせいで、酸素量が80台にまで下がったと、言ったので、私は、最初に図ったとき、測定できないくらい低かったんですよ、といっってやった。
最初のは記録に残していなかったのだろうか。
私は、パソコンを見せる相手がいなくなったので、パソコンは閉じて、母の食事の用意をした。
アサイーのゼリーとお茶。
アサイーのゼリーは、3分の2くらい食べた。
前日よりも、よく食べるようになった。
ケアマネが、会議が終わりました、といって、顔を出した。
私が、母に食べさせているのを見て、いったん、出て行き、またきた。
そして、
「ここには、STがいないので、嚥下のリハビリはできません」といった。
そういうわけですか。。。
と、私は、愕然とした。
実は、ある場所で、言語療法士のセミナーを聞いた。
嚥下の能力を大事にするべき、という話だった。
その施設に、誤嚥性肺炎を起こす夫を預けている女性と、おしゃべりしたことがある。
彼女は、誤嚥性肺炎を起こすと、病院に入院することになっているけれども、直って戻ってきた、という話だった。
たびたび誤嚥性肺炎を起こすので、娘さんの手配で、その施設(老人保健施設)をでて、特養に行くことになった。特養では、元気がなくなってきた、老人保健施設のほうがよかったと、言っていた。
言語療法士さんがいたので、嚥下のほうもリハビリしてくれていたのだ。
だから、私は、母が誤嚥性肺炎といわれても、そんなに命にかかわるようなことはないだろうと思っていたのだけれども、なんでこうなるの!!、まさか、と思うような展開に、ひどい、このまま死んでしまうのだろうか、と、あわてるばかりだった。
そうか、この有料老人ホームでは、業界一位といわれながらも、認知症の診断も、治療も、嚥下のリハビリも、やってくれないのだ。。。
ずっと、高いお金を払っているのに。。。
介護保険制度も、両親がこの有料老人ホームに入った後、できた制度だし。
両親が、この施設に入った当時は、いろいろな介護施設がなく、選択肢がなかった。
今は、特養でも、ここよりましだと思った。
何しろ、みんな明るいし、遠足にも連れて行ってくれる。