聖なる香 | 新教会牧師書斎の窓

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新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

【主】はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。(30:34)

あつい夏もやっとピークを過ぎて、時折、虫の音が聞こえ出すようになりました。
秋も深まれば、金木犀(キンモクセイ)が香り、秋の七草があちこちに生い茂り、秋の香りに包まれます。
塗油の「油」に続き、30章は文字上、「香」の制作で締めくくられます。
前のテーマの「油」の中にも、「最上の香料を散れ」と様々な香りの成分が込めるよう命じられています。
アロンとその息子が祭司として任命されるための油には、没薬、シナモン、菖蒲。桂枝、オリーブ油を用意して入れておけという命令でした。そして、これには様々な意味がありました。四種類の真理をあつらえ、そして善そのものにこれを混ぜよということでした。

今回は香り高いスパイスを取れ、と命じられます。
「香料」の霊的な意味は、真理と善の認知と、情愛です。(AC10291)
神の礼拝には、これらが不可欠です。神を礼拝するのに、真理と善を知らずに、そして真理と善に対して何の感情も抱かなければ、それは機械的な身体と口の運動を強いているだけになります。時間が来たから、集まって座り、歌と聖書の言葉を唱え、跪いて頭を下げる、そして讃美歌を歌うだけです。
そして、決して歌を歌わない人さえいます。それは著作は好きだが、「讃美歌」が好きでないという理由でした。あるいは歌が苦手であるという理由かもしれません。しかし、米の教会では日頃から讃美歌を口ずさみます。
また、牧師であっても決して献金をしない人もいます。
礼拝は、運営のための実利的なものだけではありません。主である神への賛美と、人の側の告白、感謝、卑下を、形として表しています。主である神に対して、すべてがそしてそのそれぞれが意味を持っています。
半シュケルの献金さえそうです。半シュケルは、真理と善は自分のものではなく、主から来ていると認めることが、その意味です。そのため献金には、額は問題ではありません。

礼拝の一連の行為のうち、何かが欠けるなら、礼拝する側に何か欠けていることになります。
これに気づくため、そして気づかせるため毎週の礼拝と説教がありますが、自分の足りないものに気づく人は、多くはありません。自分のこととして気づかない、あるいは意図的に、あるいは偽りによって、目を向けないからです。天界の教義を深く学ぶ人さえそうです。

神の礼拝は、善と真理を認め、各々の行為に情愛を抱むことが礼拝です。そうでなければ、礼拝とはいえません。
善と真理は、主である神ご自身であり、讃美歌や聖句の読誦、個々の献金に向ける情愛が、礼拝を構成します。礼拝後の懇親会もその一環です。その一つ一つの行為には、必ず神的な意味があります。
礼拝の各々の行為を、何も考えず、何も知らず行っているだけなら、ロボットの礼拝と体操、羽目をはずした行動・見せかけだけの行為にしかすぎません。

香の準備には、任命の塗油とは異なった香料の用意が命じられています。そしてその差とは霊的なものと、天的なものの差です。そして、香りの準備は霊的なものです(AC10291)。
天的王国と霊的王国があります。天的王国の善は、主への愛の善です。霊的王国の善は、隣人愛の善です。
すべての善には、その真理があります。なぜなら善は真理によって形成されるからです。
礼拝の各々の行為に意味があるように、礼拝を善にするためには、善を形成している真理を知らなければなりません。

ナタフ香は、Stacteとされていて香料の最初にきます。このstacteは、実は御言葉の他のどこにもなく、ヘブル語では別の単語で示されています。
しかし、香料の最初に置かれていることから、感覚的真理への情愛とされています。(AC10292)
礼拝には何か神聖なものがある、という最初のおぼろげな情愛かもしれません。しかし、何か礼拝の神聖さの何かに惹かれます。例えば、天界の教義の読者や、翻訳者は、最初はこの香りへの情愛に惹かれますが、そのうち効率的時間の使い方、いわゆる「タイパ」(タイム・パフォーマンス)を一番に置き、あるいは礼拝の意味を見いだせずに、多くの人が去ってゆきます。それは、礼拝に真理と善を見いだせず、情愛を抱けないからです。

次の香料は、シェヘレテ香、英語著作にはonychaとされています。内的な自然的真理です。
ウィキペディアの英語版には、Onychaが正確に何かもわかってないとされていますhttps://en.wikipedia.org/wiki/Onycha
ただし第二番目に並んでいることから、内的な自然的真理とされています(AC10293)。
自然的真理であれば、行動等によって確認することが可能です。礼拝にときおり出席していれば、歓びが湧きますが、まだ漠然としていて、個々の行為、讃美歌や献金に、別の自然的意味しか見いだせません。

三番目はヘルベナ香、Galbanumとされ、天界の教義にはより内的な真理とされています。これも、御言葉の他の箇所には発見できないとされています(AC10294)。
香油として販売されているものもありますが、その真偽は明かではありません。

これらの香料は「香しい」とされています。
礼拝においての霊的な行動とは、天界の教えに記されています。
告白、崇敬(礼拝)、祈りそしてそれらと同等の事柄は特に「香」、香りによって意味されます。 (AC 9475,10295)

これらは、思考と発話によって心から産み出されます。この礼拝が、霊的真理によって行われるのは、人がこの礼拝にいる思考によって、みることができます。なぜならこの思考はその時、記憶から来て、従って知性から来るからです。そしてこの源泉から来るものが、霊的と呼ばれます。 (AC 10295)
霊的になると、自然的に集まる実礼拝だけではなく、Web上で集まるZoom礼拝でも可能となるのかもしれません。
しかし、Zoom礼拝も遠隔地等からの参加という自然的な理由が含まれていて、必ずしも、この香りの内的真理を表しているとはいえません。但し、何を優先するかという、その人の優先順位の強さは、霊的なものを表します。
告白も、自分を真剣に点検したものでなく、口先だけのものであれば、霊的とはいえません。
自己点検が進むにつれて、告白は、内的になってゆきます。

「これらの香料と純粋な乳香を取れ。」
乳香は、東方からの賢人が、主のこの世の降誕の時に捧げたものの中にあります。
乳香は、最内部の真理を意味し、霊的善です。そして悪の偽りと明確に区別されます。(AC10296)
「霊的な者の、意志の全ては完全に破壊されています。しかし知性は主によって完全に守られていて、主はその中に、再生の時、新しい意志を植え付けられます。この意志は良心です。これは真理の判断です。
・・・人の知性は信仰の真理を受容するよう割り付けられているからです。しかし、意志は愛の善を受容します。ここから明かなのは、霊的善の本質は真理であるということです。・・

そして霊的善は、・・あらゆる真理を支配し、並べ替え、結びつけ、情愛を与えます。そのため乳香は最後に並べられます。・・そして純粋な乳香と呼ばれるのは、悪の偽りから区別されるからです。」(同上)
乳香が最後に来るのは、真理を整理し、優先順を決める等、霊的な価値を与えるからです。
しかし、霊的な価値は、人に見極めることができるのでしょうか?

「これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。」(30:35)
礼拝は告白や崇敬、祈りなどによって、それが心から出て思考と言葉になったとき、煙となって立ち上がり、芳香となって周りに香りを振りまきます。
人が顔や話から人ではなく、その知性と意志から人です。人は最初は真理と善に関して無の状態で生まれます。そして人の善は、真理によって善となってゆきます。
人の意志から出る、すべての思考の発想の内に、その人の全体があります。霊界では、人の欠片からその人の全体を認識します。
神の礼拝に人の全体があります。なぜならそこには真理と善があり、その人自身となるからです。あらゆる真理が複合して表されます。それは四つの香料である、あらゆる真理がそこに現れるからです。(AC10298)

人が神への礼拝をする時、そこに真理と善がすべて表さます。
たしかに、讃美歌を歓んで歌わない人には、主への賛美のためらいがあり、献金をしない人は、真理は自分から来ていると考え、礼拝に出席しようとしない人は、主ではなく、自分自身を信頼しています。
教会の礼拝が全てではないですが、神への礼拝という状況では、人は自分の姿を現します。自分が大切か、隣人が大切か、主が大切か、これらが乳香によって意味される霊的善となって現れ、香りを周りに振りまきます。自分のことしか大切に考えない人は、自分に都合の悪い礼拝には参加しません。

日本語聖書の「調合法にしたがって」は、天界の教義では、「調香師の軟こうの働き」とされています。調香師の軟こうの働きにという言い回しに違和感をもつからかもしれません。そして天界の秘義を知らないからです。

「礼拝は人からくると信じていているかもしれません、なぜならそれは、その人の中にある思考と情愛から来るからです。; しかし、人からくる礼拝は、礼拝ではありません。従って人から来る、告白、崇敬そして祈りは、主がお聞きになり、そして受け入れる告白、崇敬そして祈りではありません。それらは主ご自身から来て人の元になければなりません。」
・・・ここからも礼拝にはあらゆる善があり、善のない礼拝は礼拝ではありません。従って、神聖な礼拝では、教会は神が現存されるよう、会話の思考を導きます。・・人が純粋な礼拝にいる時、主はその人の善と真理に流入し、その人達をご自身に揚げます、そしてその人が彼らの内にいる限り、そのようにします。人が純粋な真理と善の情愛にいて、その知識と認識の中にいて、あらゆる善が上から、主から来るという信仰の中に居ない限り、人にはこの高揚はありません。」(AC10299)
この調香師の軟こうの働きは、主から流入として与えられます。そして、自分のことを考え、大事にしている限り、それは礼拝ではありません。そこから離れさせ、主から流入によって礼拝していると考えなければ、いつまでも自分の香を作って、臭い我を周りに振りまくことになります。
それは御言葉で
「これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」(30:38) と戒められています。
確かに自己流で、自分のやり方だけにこだわる人には、香りではなく、嫌な匂いがします。
霊界ではさらにこれがはっきりします。霊的な価値を並べ直すのは、人ではなく、主の力です。

そして塩気です。
さらに「聖なる純粋な香油を作る。」に「塩気のある」が加えられています。日本語聖書翻訳者は、香油の製法に、塩気は関係ないと思ったのでしょう。しかし天界の教義は、真理が善を造るとしているので、真理への愛を意味する「塩気」は欠かせません。(AC10300)
マルコ福音書でも、「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい」(9:49,50)と、真理への情愛を保つことの重要性を教えられています。
自分ではなく、主から真理を求めることが大切です。
主からの真理を実行して、主の善となって初めて真の礼拝を行うことができるからです。

神である主から礼拝を行うなら、会見の天幕である教会に、豊かな流入が生まれます。
そして私達の内にある善と真理が、私達のものではなく、主のものとして、豊かな香りを発します。
これは人のものではなく、人にある主のものです。

「これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。」(30:36)
アーメン


出エジプト記 
30:34 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。
30:35 これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。
30:36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。
30:37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを【主】に対して聖なるものとしなければならない。
30:38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」

マルコ福音書
9:49 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

天界の秘義10299.
[2] 礼拝のそれぞれとすべての事柄に、流入と働きがなければならないことをいかに理解すべきか、これを簡単に述べます。
 天界の秘義に詳しくない者は、礼拝は人からくると信じていているかもしれません、なぜならそれは、その人の中にある思考と情愛から来るからです。; しかし、人からくる礼拝は、礼拝ではありません。従って人から来る、告白、崇敬そして祈りは、主がお聞きになり、そして受け入れる告白、崇敬そして祈りではありません。それらは主ご自身から来て人の元になければなりません。これは教会に知られています、なぜなら人から善は全く来ず、あらゆる善は天界とそこにおられる神的なものから来ると教えられているからです。ここからも礼拝にはあらゆる善があり、善のない礼拝は礼拝ではありません。従って、神聖な礼拝では、教会は神が現存されるよう、会話の思考を導きます。それは、こんなケースです。人が純粋な礼拝にいる時、主はその人の善と真理に流入し、その人達をご自身に揚げます、そしてその人が彼らの内にいる限り、そのようにします。人が純粋な真理と善の情愛にいて、その知識と認識の中にいて、あらゆる善が上から、主から来るという信仰の中に居ない限り、人にはこの高揚はありません。

[3]これがそうであることを理解しなければならないのは、世から賢明とされる人達でさえそうです、なぜなら彼らは学習すなわち物理的流入と呼ばれる、自然的な流入からは不可能で、霊的流入だけが可能と知っているからです。
 すなわち、自然から天界へは、まったく流入はなく、天界から世に流入があるだけです。このすべてから、流入と主の神性の働きが、礼拝のあらゆる、そしてそれぞれにあることを理解して、わかるようになります。
これは、経験としては私に幾度も与えられました。なぜなら、流入そのもの、自分にある真理が引き出され、それらの適用を祈りの対象に、付着している善の情愛、高揚そのものを認識するために与えられました。

[4] それにもかかわらず、人は手を下ろして流入を待ってはなりません、なぜならこれは生命のない人形のようにふるまうことだらけです。その全ての代わりに、人は考え、意志し、自分からとして行動しても、真理の思考の全てと善の情愛に全てを主に帰さなければなりません。そうすることで、主から主を受容する能力と主からの流入を植え込まれることになります。

[5]なぜなら人は神性の器として創造されたに過ぎないからです。そして神性の受容の能力は他に形づくられないからです。この能力が形づくられた後は、そうあるべきこと以外を意志することができなくなります。なぜならその人は主からの流入を愛し、自分からのあらゆる働きを嫌うからです。主からの流入は善の流入ですが、一方、自分からの働きは悪の働きであるからです。そのような状態が、天界のすべての天使です。そのため、御言葉の天使によって主からの真理と善がいみされます、なぜなら天使はこれらの受容体であるからです。 ( 1925, 3039, 4085, 4295, 8192).