主の栄化3 教会とは | 新教会牧師書斎の窓

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新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。
わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。(29:43,44)

出エジプト記29章を2週間にわたってとりあげてきました。
アロンとその息子たちの祭司としての任職を、文字上の主題にしているこの章の内意は、主イエス・キリストが十字架の試練に遭った後の栄化です。生涯の試練を通じて、ご自身を神的真理とされてきた主は、エホバである神的善、主の魂と一体となり、今や天地唯一の神に栄化されました。自然的なマリアからの遺伝をすべて脱ぎ捨てたことが、この章の10節から雄牛の生贄で描かれています。

続いて16節の雄羊の生贄によって、主が栄化され、全天界に、神的善から神的真理としての力を充満させたことが示されます。その力で、私達の自由意志を守りながら、天使と人間を再生させておられます。天界そして主を受け入れる地上の教会には神的善から発する神的真理の流入が、広く及んでいます。

本日第三週目は、36節から29章の最後までを学びます。
この部分は、神的流入に続いて、天使と教会の人間の、神的なものの受容について書かれています。
「毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。」(29:36)
雄牛が意味する自然的人間から、主からの無垢によって悪と偽りを絶えず、取り除けと命じられています。(AC10122)
悪と偽りは主により取り除けても、罪を取り除くことはできません、罪は人の焦点から見えない隅の方に移動させられるだけです。
毎週の聖餐で、自分の罪が清くなると考えているのは、それ自体が大きな偽りです。罪は決してその人間から、全く無くすことはできません。悪と偽りが、主の力で隅のほうに見えないように移動させられるだけです。

聖餐式で罪が清くなると考える人は、人間自体を誤って考えています。
悪と偽りは、それらが見えないほど隅に片付けられ、主からの流入を受け入れます。しかし罪はその人を構成する一部となって永遠に残ります。悪と偽りは主からの流入を邪魔するので、主の力で常にこれを取り除き、人の目に留まらない様にしなければなりません。

この流入を邪魔する悪と偽りが、人や天使に、いかに多くあるかを自覚しなければなりません。主お一人以外に清い者は一人もいないからです。主の眼の前には、天使でさえ、清くはありません。

そして知性と意志は、一つの心とならなければならないのが主の神的秩序です。そのため、私たちはこの世から永遠にいたるまで、自然的なものの中に残っている悪と偽りを取り除く努力を必要とします。悪と偽りが残っていれば、決して主から流入を受け入れることができないからです。

主から善の流入を受けると、霊的王国にいる者は、記憶にとどめ、そこから影響を受けます。影響を受けるに応じて、さらに進んで、それに従った生命を作り始めます。これが信仰と思いやりと呼ばれ、良心となります。人は自分勝手に生まれついていて、信仰の真理がなければ、他人に思いやりを抱けません。
人が良心を造り出せないなら、真理は記憶にとどまったままで、それは後に地獄となります。その人・霊の生命に合わないので、主からの善の流入を邪魔し続け、本来生まれた地獄は、何も変わらないからです。
この世にいる間に、良心の形成は欠かせません。それは来世でも主からの流入を受ける面として役に立ちます。
しかし天的王国にいる者は、愛の善を「直」に受け、真理を聞いて、真理を認めると、一瞬のためらいもなく直ちに実行します。

これらが、主からの流入と、天使と人の受け入れ方です。主からの流入と受け入れ方によって、それは主のもの、すなわち聖なるものとなります。ただしそれは主のもので、人のものではありません。人から発する、愛は、必ず偽りと悪が混じっており、愛の善は、すべて主から発して天界からきます。

 「七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。」(29:37)
 天界と教会にある流入は、主からきて、主が受け入れます。主体として人間は関与しません。
それは天的教会である最内部の天界です。最も聖なるもの、至聖所は、天的教会である第三界の天界を意味します。彼らは愛の善を直接受け取ります。
そこには主が愛の善の内に存在されます。
 「祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。」は、「触れる」とは、交流であり、伝達です。主の聖性を受け伝達されそして受け入れます。

「一歳の若い雄羊二頭」とはあらゆる状態で無垢の善を意味します。(AC10152)
 バプテスマの 「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)
そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。(1:36)
バプテスマのヨハネが口にした「小羊」は、あらゆる無垢の善のことです。これは、主から発し、この無垢、穢れの無さが、真理と善を受け入れます。これは主から発する主のものです。そして、この無垢の善を受け入れた者が、悪を取り除きます。

「一頭の若い雄羊は朝ささげ、」(29:39) 
内的人間の愛と光の状態は、主から無垢の善を通して悪を取り除かれるを意味します。主は悪を取り除かれますが、罪を取り除くとは言われません。罪は取り除かれることがなく、隅に押しやられて見えなくなるだけです。
主はご自身も、また対象となる者も無垢の状態でなければ、悪と偽りを取り除けません。自分が関係する、あるいは関係した悪と偽りにこだわれば、取り除くことができません。「こだわり」に執着する人間は、なかなか善と真理を受け入れることができません。新教会の人間で、自分のこだわりに執着する人が、なかなか成長できない理由です。人は悪と偽りを取り除く無垢の善を、自分の眼の前に置き、真っ白な気持ちで生まれ変わった気持ちを目指さなければ、罪は永遠に目の前に在ります。

「他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。」(29:39)
内的人間のように、外的な人に、光と愛が同じ状態にあることを意味します。・・・夕は一般的に光がおぼろげな状態を意味します(AC10135)。

「一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。」(29:40) 
一頭の若い雄羊、内的人間に、オリーブ油と、小麦粉の天的起源を持つ霊的なものが加えられます。すると天的なものからの霊的善は結合に十分できます。聖餐式をイメージします。

「この全てから、パンである肉の捧げものと、ワインである注ぎの捧げものは、教会と天界のもの、すなわち、天界の食物と飲み物であり、聖餐で意味されるパンとワインです。目的は上述したように、天界と人をみ言葉によって、天界を通して主を、み言葉を媒介として結びつけるためです。み言葉の神性は、そのようなものを構成し、人間の心を養うだけでなく、天使の心を養います、なぜなら天界と地上が一つとなるためです。」(AC10137 [8] )

み言葉によって、天界と地上が結ばれます。聖餐式を行なうことで、相応によって天界と地上を結びます。このため聖餐式は、教会の中で最も重要な役割を持っています。聖餐式のパンは種のない、小麦と油で作られています。
これを食パンという種の混ざったもので代用できると考えている教会、そしてこの相応を理解できていない人は、聖餐を台無しにしています。もはや天界と地上を結ぶ機能がなくなってしまうからです。同様に、飲酒運転や年齢の懸念からブドウジュースで代用する世的事情を考慮した聖餐も、結合が危うくなります。
いずれも、相応が失われ、結合は不十分となる恐れが出てくるからです。

「これは、【主】の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。」(29:42)

神的なものへの礼拝を絶やさないこと、すなわち、信仰の真理と愛の善から真摯に神に向かい、その二つの中には無垢の善を宿します。純粋な気持ちで、自分の悪と偽りを清め、絶えず善と真理を植え付け、善と真理の結婚を進めるなら、純粋な礼拝を行なったことになり、再生が進みます。

悪と偽りの清めと、善と真理の植え付けと、その結合を主から行う人は、
「純粋な礼拝の内にいます、なぜなら悪と偽りの清めはそれらを断ち、それらを避け、背くことで行われます。
善と真理の植え付けは善と真理を考え、意志し、それらを話し、行うことでできます。そして両者の結合は、それらから生きることで実現します。そのとき、人は新しい意志と新しい知性を持ち、従って新しい生命を持ちます。人がこの性質を持てば、行うあらゆる業に、神の礼拝があります、なぜなら人はその時、あらゆるものに神的なものを見るからです。人は尊び、愛し、従ってそれを礼拝します。・・すなわち、主の戒めに従って行うことが、真に主を礼拝することです。(AC10143)

「その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。
わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。」(29:43,44)

天界は主がおられ、天使たちがその神性に囲まれ、その神性を自らに受け入れるところ天界とされます。主がおられないなら、天界とはいえません。天使たちは主の神性の一部を得るから、天使と言われます。主の神性を受容する力があります。

私達も本来的に主の神性を受ける力がありますが、私達の内にある偽りと悪が執拗にそれを妨げています。私達はまず、自分の悪と偽りを自分のほんの片隅、まったく目のつかないところに退けなければなりません。主の助けを願い、地獄から来る甘いささやきを、断固として断ち切ります。全地獄に一人で立ち向かうことは不可能なので、必ず主の助けを求めます。

そのためにはどんな教会であれば良いのでしょうか?
教会とは建物ではないので、建物を求める必要はありません。またある人が熱望している宗教法人格でもありません。世的なもので、税制の優遇が得られるだけです。
神的・霊的世界には関係がありません。金銭的なものから抜け出してゆきます。
そしてまた、教義でもありません。教義は主が作られて存在しています。その翻訳をもって団体や個人の力とするなら、主から教義を盗むことになります。翻訳や出版は自己実現の一部だとするなら、その元は自己愛です。

その中に主の神性があるのかを問います。教会は、主の神性によってできているかを自分に問います。
もし主に尋ねて祈っていないのであれば、自分で求めていることになります。自分の悪と偽りをことごとく断ち切らなければ、教会は完成しません。

悪と偽りを断ち切る過程で、善と真理と植え付けていきます。
善と真理は、質や形が異なるので、善と真理を結婚させることは簡単ではありません。しかしこの二つの結婚を求め続けるなら、いつか善と真理が結婚する天界的結婚が進みます。再生が進展してゆきます。これこそ主の望みです。

「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。」(29:45)
アーメン

出エジプト記
 29:36 毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。
29:37 七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。
29:38 祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。
29:39 一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。
29:40 一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。
29:41 もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、【主】への火によるささげ物である。
29:42 これは、【主】の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。
29:43 その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。
29:44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。
29:45 わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。
29:46 彼らは、わたしが彼らの神、【主】であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、【主】である。



ヨハネ福音書
 14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

天界の秘義 10143(3)
生贄と全焼の捧げものによって、特に悪と偽りからの清めと、善と真理の植え付け、その二つの結合が、すなわち再生が意味されます( 10022, 10053, 10057参照)。 
これらの内にいる人は純粋な礼拝の内にいます、なぜなら悪と偽りの清めはそれらを断ち、それらを避け、背くことで行われます。善と真理の植え付けは善と真理を考え、意志し、それらを話し、行うことでできます。そして両者の結合は、それらから生きることで実現します。そのとき、人は新しい意志と新しい知性を持ち、従って新しい生命を持ちます。人がこの性質を持てば、行うあらゆる業に、神の礼拝があります、なぜなら人はその時、あらゆるものに神的なものを見るからです。人は尊び、愛し、従ってそれを礼拝します。
 [5]すなわち、主の戒めに従って行うことが、真に主を礼拝することです。いや、真の愛であり、真の信仰であると、この問題を考察するすべてのも見えることができます。というのは、誰かを愛し、信じる者にとって、その人が意志し考えることを意志し行うこと以上に喜ばしいことはないからです。その意志と思考を知ることがただ一つの望みであり、そしてその歓びです。

天界の秘義10151
「その祭壇」はより高い天界での、主からの神的なものの受容性を意味します。・・・
[2] 知っていただきたいのは、主ご自身を表すものすべては天界をも表します、なぜなら主から発する神性は、天使たちによって受けられると、天界を作るということです。すなわち、天使たちのものによっては、天界は作られず、主から発して彼らが受け入れた神性が作ります。これは、彼らの内のそれぞれがそこで認め、信じ、知覚してさえもいる事実からそうだとわかります、それは彼自身からの善はなにもなく、主お一人から来るということです。
そして彼自身から来るのは善ではなく、かくして、教会の教義によれば、あらゆる善は上から来ます。これがそうであるなら、彼らの天界的生命、すなわち天界を作っているのは、主の神性ということになります。
ここから、どのように理解すべきかがわかります、それは、主は全天界における全てであるということです。そして主はご自身のもののもとにしか住まわれません。同じようにみ言葉の「天使」によって、主の何かが意味されます。

[3]これは教会でもそうです。
教会の人間の何かに関していえば、それらが教会を作ることはなく、主から受ける神的なものが作ります。なぜなら愛の善と信仰の真理のすべてが神から来ていると認め、信じない者は、教会の者ではありません。なぜなら、彼は自分自身から神を愛そうと望み、自分自身から神を信じようしているからです、しかしそれは、誰一人行うことはできません。
ここから明らかなことは、天界を作るのと同じように、主の神性が教会を作ります。さらにいえば、教会は地上における主の天界です。従って、主は教会のすべてにおける全てです。主が天界におられて、天界にある天使たちのもとでそうであるように、主は人の主のものに住まわれます。さらに、この世の生の後は、愛と信仰の内に主の神性を受けた教会の人間が天界の天使となります。他にはありません。