EX26幕屋の垂れ幕 | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

次に、・・垂れ幕を作れ。(26:31)
(青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸を使って、意匠家の描いたケルビムの模様の)

26章の前半は、幕屋の十枚の幕の制作を描き、十枚の幕が一枚として全天界を構成する場面まで進みました。
「こうして幕屋を一つに仕上げる。」(26:6)
しかし、大きな布一枚では、何もできません。幕(カーテン)は信仰の内的真理を、新しい理解から行うことを意味します(AC9595)。信仰の内的真理だけでは、形とはなりません。大きなテントも支柱がなければ、天界は広がりません。一枚の布だけでは、雨や寒さをしのげません。

天界を表象する幕屋は、山羊の毛の幕、赤い雄羊の毛皮、アライグマの毛皮(日本語聖書ジュゴン)で覆われています。天的な善の外的なものから来る真理(AC9615)、善からの外的真理(AC9631)、外的善から来る真理の周辺(AC9632)がその内的意味ですが、これらは人間の体にも相応しています。
「人間の外的なものには、内的なものを取り巻き、囲む、四つの外的なものがあり、角質?と皮膚と(pelles et cutes)呼ばれています。」(AC9631-3)
人間の皮膚の最新知識を検索すると、角質層・表皮・真皮・皮下組織となっています。スウェーデンボリの時代にどれくらいの知識があったかは不明で、現在の医学用語とは異なる用語ですが、これら四つの層が人間の皮膚に相応しています。

幕の製造のあと、みことばは、板・二つのほぞ・銀の台座、まとめる箍(たが)横木の製造を述べます。
「板は支えを意味し、そしてそれらは木からできているため、善からの支えを意味します。・・その善の質は、シッテムの木で意味されます・・これら板は人の筋骨あるいは肉質部分に相応し、被膜と皮膚を囲む部分を支えます。肉質によっても善が意味されます。この板は、シッテムの木からできていて、天界を支える善を意味しています」。(AC9634)

天幕の幕部分は、シッテムの木でできている板によって支えられています。すなわち、主の功績の善によって支えられています。
主イエスの功績によって支えられています。主イエスなしには、天界は存在しません。

板には二つの「ほぞ」がつき、40の銀の台座によって支えられています。「ほぞ」の著作ラテン語は”manus"すなわち「手」です。手の霊的意義は力です。
板は主の功績の善ですが、銀すなわち真理によって支えられています。真理の力がないと、板の支えとなりません。主の功績も、主とその行いを知らなければ、真理として働きません。天界を構成する、善と真理とならなければなりません。主の功績は、その基本的な骨格と土台がなく、理解さえできません。私達は少なくとも、十字架の死に代表される主イエスの功績をイメージすることができますが、主のすべての業は想像さえできないほど大きく、固いものです。

「台座は足と人の足のかかとに、そして一般的に、身体の肉体部分すべてを支える骨に相応します。そして、同じように足と骨によって、支える真理が意味され、身体の肉部分によってそれ自身を支える善が意味されます。・・(3)この理由によって共通の基礎となる「土台」、信仰の真理、信仰自体が意味されます。」(AC9643-2)

信仰の真理は、行わなければ知識のままです。しかし真理を実行することによって力を持ちます。善は力の源ですが、真理によって方向を明確にしないと、現実の力となりません。真理を確定して、はじめて善となります。
「善は真理を通して力を持ちます、これは真理が、善の形であるからであり、そこから善は性質を得ているからです。なぜなら、性質があるところには形があるからです。・・ここから善は力を持ちます。しかし真理によらなければ、何も確定しません。確定した力こそが、現実の力であり、支える力です。」(AC9643-1)

天界は巨大人として主の眼の前に、一人の人間の形として現れます。そのため、幕屋の構造も、人間の身体に相応するようになっています。皮膚と骨格、筋肉があり、神経は頭につながります。これが、壁板を上部でまとめる鎖(箍たが)です。

「壁板は、下部では二つずつに分かれているが、上部は箍(たが)で一つに連ねられている。両方の隅は同じように作る。」(26:24)
上部は箍(たが)で一つに連ねられている
すべての板は、頭の箍でまとめられています。
「下から頭にいたるまで」とは内部から、を意味します。
頭によってせうべてを意味するのは、頭は体の上にあり、・・高いによって、内的なものが意味されるからです。そして、内的なことがらは頭の中にあるからです。
なぜなら頭は感覚と動作の初めであり、初めにあるものは最奥です」(AC9656)
箍(輪)は結合です(AC9657)、そこからあらゆるところに結合が生まれます(AC9658)。
頭脳は神経によってすべてを結合して、身体の感覚から感じ、動きを指令します。幕屋の板が、頭の箍によってまとまるように、箍はすべてをまとめます。箍が外れてしまった人間は、何の制御も利かず、自分をコントロールさえできません。

「金箔で壁板を覆い、金環に横木を通す。その横木も金箔で覆う。」(26:29)
横木は善からの真理の力です。幕屋の板をまとめあげます。そしてそのすべては、神的なものに起源を持つことが金で覆うことで意味され、これら善と真理は、宇宙すべてに関係します。

「善と真理は箍によってまとめられます。善からの真理の力は横木あるいは柱によって表されます。すべてが善からそして善を通してできていることは、宇宙のすべては、善と真理に関係し、善は真理からきて、そこからすべてが生まれていることを表します。善は神的なもの自体に源があります。」(AC9667)
宇宙のすべては、善と真理に関係します。神に由来する善と真理に関係し、天界とそれを表象する幕屋も、この善と真理に関係しています。宇宙に存在するもので、神に由来しない善と真理に関係ないものは、一つとしてありません。
幕屋の中で、その力の源が表現されます。

「垂れ幕を作れ」(26:31)
この垂れ幕は、中間天界と最奥の天界、すなわち霊的善と天的善を結びます。
幕屋の構造で喩えれば、証の箱と、燭台と供えのパンのテーブルを分ける垂れ幕です。垂れ幕は、中間天界と最奥天界を結ぶ媒介です。
中間天界は隣人への仁愛の善であり、最奥天界は主への愛の善です。そして媒介は霊的善と天的善を結びます。(AC9670)

隣人愛と主への愛は、外から見ると区別しにくいもので、この世ではいずれの外観も、私たちが行う道徳的善や社会的な善と変わりません。
しかし動機は大いに異なります。社会的な善や道徳的な善は、他人の見る目を気にします。職場や近隣関係、学校関係で、人に後ろ指をさされることを気にします。すなわち、これらは自己愛と世間愛が混じりこんでいます。

隣人愛は、隣人が傷つくことを心から怖れます。その隣人とは、単なる隣にいる人だけにとどまらず、社会や国、そして教会なども意味され、それらの価値が傷つくことを怖れます。十戒の、特に後半部分は、この隣人愛です。
新教会でも、自分が関わる出版自体だけを大切にし、人が傷つくのは気にしない人達がいますが、それは自己愛と世間愛にしかすぎません。出版物さえ売れれば、彼らは傷つきません。

しかし、純粋な隣人愛は、隣人がもつ善が傷つくことを怖れます。そして主が傷つくのを恐れるのが、主への愛にいる人です。主がどういうお方か、または隣人が何か、その価値、善とはなにかをよく知らなければ愛することはできません。知ることは愛することの始まりです。街頭で布教活動を行う集まりが、主への愛と隣人愛を体現しているかはわかりません。団体内のノルマを気にしている恐怖から行う世間愛かもしれません。

しかし、霊界では、中間天界と最奥天界は、互いに入り口がないほど区別されています。これを相応で説明するなら、中間天界は肺に相応し、そのため意識的な呼吸ができます。また、意識するため、大脳にも相応しています。最奥天界は心臓に相応し、小脳にも相応するため、不随意的な活動に関係します。相応で説明すれば、きわめて際立った明確な違いがあります。

しかし、ある天界が媒介する天使たちによって形成されて、相互のやり取りを行っています。これも相応で説明すると、肺と心臓を結ぶ血管で、心臓に結ばれた肺動脈と肺静脈が関係する肺循環の機能です。

脳でいえば、延髄に相応し、そこでは大脳神経と小脳神経が結ばれています。(AC9683-2)
これが幕屋の垂れ幕で表されています。延髄から全身につながる神経がなければ、人は動けません。人間らしい活動をするには延髄の働きは不可欠です。

神殿の垂れ幕が聖書に現れる場面があります。主が十字架の苦難にあった時、神殿の垂れ幕が裂けました。
これは「主の栄化を意味します。主が世におられた時、ご自身を神的真理となさいました。しかし、主が世を出て離れた時、主はご自身の人間を神的善とされ、今やそこから神的真理が発しています。神的善は至聖所です。」(AC9683-4)
至聖所と聖所の境が、主が栄化されて、なくなったわけではありません。

至聖所の掟の箱の上に贖いの座を置く。(26:34)
最奥の善は主ご自身で、主から直接、愛の善が発します。次は相互愛の善です、その次は隣人愛の善であり、最終的には信仰の善です。これが最奥からの善の継続する秩序です。(AC9683)
これは、主からの流入の秩序です。継続して人と天使に絶えず流入します。

主からの流入は、直接、誰にもあります。直接の流入がなければ、間接的な流入は意味がありません。
主からの善の内に生きなければならないことは、私達の秩序です。私達は主から生きなければなりません。
この流入は継続的で、それぞれ、そしてすべての人の意志に付加され、可能な限り秩序の内にいるように向けます。

なぜなら人の意志は絶えず秩序から離れようとするからです。
それは、随意的なものと、不随意的なものが人の内にあるのと同じです。随意的なものは絶えず秩序から遠ざけますが、不随意的なものは絶えず秩序に戻します。そのため、人間の心臓の動きは、不随的で、人の意志から完全に遠ざかっています。同じように小脳の力は、閾を超えて向かう衝動を抑え、時が来る前に身体の生命が消えることのないようにします。そのため、随意的活動と不随的活動は全身で結びついています。(AC9683)

何も考えず、ロボットのように主の命令に従い、全身が不随的存在となることが、天界に入ることなのでしょうか?
それでは私達の生命に、意味がありません。人生に意味がありません。不随的部分と随意部分の双方がバランスし、その自由の中で私達が選択しなければ、本当の意味での進歩がありません。強制によっては何も改良されません。
深く考えた上で、主に従うことで結びつきが生まれます。ゆっくりとバランスを見ながら進みます。目に見えない存在が、心の眼で見えるようになります。目に見える神への信仰が、新教会の信仰です。

モーセに命じられた幕屋の建設は、私達に天界の構造を教えてくれます。
地上に生まれた主イエスが、その生涯を通してみ言葉となられたことで、神が人間になられた姿を見ることができます。
そして、幕屋の内的意味が天界であり、垂れ幕の前に置かれた、机と燭台が、霊的天界を照らす燭台であり、机に置かれた供えのパンが、主の愛の善を表すことを知ります。これらすべてが霊的天界の形です。
そして、幕屋のそれぞれは、人間の形に相応しています。人間の形は、天界とその形、そしてその源である主を源としています。
幕屋の建設は主によって啓示された霊的天界の象徴です。

そして、霊的教会に属する人は、信仰の真理を通して生活の善にいるなら救われる(AC9684)ことを知ります。
「垂れ幕の手前には机を置き、向かい合わせに燭台を置く。燭台は幕屋の南側に、机は北側に置く。」(26:35)
アーメン。

出エジプト記
26:7-30略 (要素)山羊の毛:十一枚の幕・五十の輪・五十の青銅の留め金
赤く染めた雄羊の毛皮・じゅごんの皮
幕屋の壁板・南側に二十枚・銀の台座四十個・二つのほぞ、北側にも二十枚の壁板・西側の壁板は八枚
アカシヤ材で横木・壁板に五本・一方の側の壁板に五本、また西側、つまり後ろ側の壁板に五本・中央の高さに位置する横木は、壁板の端から端まで渡す。
金箔で壁板を覆い、金環に横木を通す。その横木も金箔で覆う「山で示された方式」に従って幕屋を造りなさい。

26:31 次に、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸を使って、意匠家の描いたケルビムの模様の垂れ幕を作り、
26:32 金箔で覆ったアカシヤ材の四本の柱の鉤に掛けなさい。鉤は金、四本の柱の台座は銀で作る。
26:33 その垂れ幕は留め金の下に掛け、その垂れ幕の奥に掟の箱を置く。この垂れ幕はあなたたちに対して聖所と至聖所とを分けるものとなる。
26:34 至聖所の掟の箱の上に贖いの座を置く。
26:35 垂れ幕の手前には机を置き、向かい合わせに燭台を置く。燭台は幕屋の南側に、机は北側に置く。
26:36 次に、天幕の入り口に掛ける幕を作る。青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸を使ってつづれ織を作りなさい。
26:37 また、この幕を掛けるためにアカシヤ材で五本の柱を作り、それを金箔で覆い、鉤は金で作る。また柱のためには五個の青銅の台座を鋳造する。

ルカ福音書
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

天界の秘義9670. 
「垂れ幕を作れ」。これがこの天界と、最内部の天界、そして霊的善と天的善を結ぶ仲介を意味することは、証の箱が置かれた住まいと、燭台と供えのパンをある机が置かれた所を、分けるベール(垂れ幕)が、中間天界と最内天界を結ぶ仲介であることから明らかです。
証を中に納めた箱によって、主がおられる最内部の天界が表され(9457, 9481, 9485)、ベールの外側の住いが中間天界を表します(9594)。そして主への愛が最内部天界を造り、隣人愛の善が中間天界を造るように、ベールは霊的善と天的善を結び付ける仲介を意味します。霊的善は隣人への仁愛の善であり、天的善は主への愛です(天界はこれらの善によって区別されることは上記 9277)。
このすべてから天幕にも神殿にもあるベール(垂れ幕)が意味することが明らかです。

AC9683
[2] 主からの流入は人それぞれにも直接的です、なぜなら直接的流入無しには、間接的流入は意味をなさないからです。
直接流入は、人と天使にある秩序に従い受け入れられ、かくして神的なものからの神的真理に従うことによって受け入れられます。なぜならこれが秩序であるからです。(n. 1728, 1919, 2447, 4839, 5703, 7995, 8512, 8513, 8700, 8988)
そして、主からの善の内に生きるべきだというのが、人の秩序そのものであるため、人は主から生きるべきです。
この流入は継続的で、それぞれと人の意志のすべてに結びつくため、人を可能な限り秩序に向けます。なぜなら人自身の意志は絶えず秩序から遠ざかろうとしているためです。
これは人の自発的なものと、不随意と同じです。人の自発性は絶えず秩序から離れようとしますが、不随意は絶えず秩序に戻します。
こういうわけで、心臓の運動は不随意的で、完全に人の意志から離れ、それは小脳の動きと同じです。心臓の運動と小脳の力は、自発的なものに向けられ、限界を超えて進むのを留め、時が来る前に身体の生命が消えないにします。
そのため、自発的そして不随意的なものの身体全体の中での優先的活動は、共同で進んでいます。これらの事は、主から愛の天的な、信仰の霊的な事柄が、直接的そして間接的に流入しているかという考えを、ある程度、例示するため、言われています。