この話は、よく悟りの話の中でも話されそうな話でもあります。

 

ただ、もうこの心境がわかっている方も沢山いるかもしれません。

 

自分軸というものがあるとすれば、この真実のようなものを沢山経験することで自然と得られる軸みたいなものです。

 

これ以外に表現があるでしょうか?  

 

 

エゴというものはいつも不安を抱えています。

 

この不安を解消するために、教科書のようなもの、聖典のようなもの、確信を得られるように結果を手にいれたがります。

 

しかし、エゴという幻想は、幻想が幻想をつかんでも何も得られないように、幻想であるエゴは、どうしても最後の1パーセントである真実というよなものを手に入れられません、。

 

 

なぜならば、エゴが手に入れようと必死になっている確信のようものも幻想だからてず。

 

その欲求不満のままエゴは、さ迷い始めます。 これが探求者となっていきます。

 

この探求者、求道者というものは、修行というものを通じて真実を手に入れようとする試みです。

 

しかし、最後には得られません。どうしても移り変わっていく、自分自身の心境、自分の心というものが変化していくことに、翻弄されてしまうのです。

 

 

この幻想の世界は諸行は無常です。すべて移り変わっていきます。

 

真実のようなものを求めるということは、この移り変わっていく川の流れをとめて、手に入れようとする事と同じです。

 

手に入れようとした川は、手に入った瞬間にただの水にかわります。ながれはもうありません。

 

 

流れは流れていく姿がそのまま真実なのですが、手に入れようと、自分のものにしょうとすると、手のひらの中にあるただの水になってしまいます。川ではなくなります。

 

そのように、カタチなしょうと必死なればなるほど、手に入りません。これが求めてきた真実です。

 

政治でも思想でも、なんでも 正しさのようなもの、永遠に価値があるものがあって、それを人類は手にできれば、それを実践すれぱ世界はよくなると思って人類は何かを信じてきました。

 

 

あるときは、イスラム教、あるときはヒンズー教、あるときはキリスト教だったりします。

 

しかしそれらも外側でカタチになってしまった、真実のようなものです。

 

そうなると、思うようにカタチに入り切りません。どこかで矛盾が出てきます。

 

殉教者が出たとしても、殉教した人は、その自分の信じたものを正しいと認めたくて真実を確信しょうとして殉教したとも言えます。

 

 

これはエゴという幻想がそこまで自分自身という存在をしっかり証明したいように、自分で自分を納得させたいのです。

 

しかし、いつまでたっても永遠に理想的なその何か、真実のようなものは手に入れられません。だから未来を追いかけるのです。

 

そして未来も実は幻想であることを知る由もないのです。

 

だから追いかけ続けるのです。疲れるまで。

 

 

そして疲れ果てて、すべてを投げ出した時、未来や過去から解放されたとき、いまここに入ってきたとき、なにか、確信というか、不動というか、自分の中での確信たる答えが見つかるのです。

 

それは確信というものより軽く、あきらかで、自分の中での答えなのです。

 

誰に何を言われても不動です。 それが答えだからです。

 

 

なんと答えは、自分の中にあったのです。静かにすれば、いまここに居れば、気が付けたのです。

 

これからの時代は、本当に真実のようなものをどんどん自分に発見できる素晴らしい時を迎えています。

 

それがアセンションという、神が神と合う、真実の合致だからです。

 

 

すばらしいですよね。笑

 

 

 

 

 

 

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