※2025年4月1日19時30分~ZERO POINT KU サロンを発売スタートオープンとなりました。入り口 下記 今度の16日にライブ予定です。
今日は、少し宗教がかった内容となります。しかし、宗教関係なくてもこの信仰というものは、だれでも自然に何かに信仰しているのが現代社会です。
無神論に信仰している人、唯物論に信仰している人もいます。
死んだら終わりだという信仰している人もいます。物がすべてだという概念に信仰している人もいます。
マリア様に信仰している人、イエスに信仰している人、総理大臣を神だと思って信仰している人、限りなくいろんな信仰をもっています。
このように信仰というものを既存の宗教だけにあるわけではないです、あらゆるところに信じるという心境は、あります。
つまり自分以外の外側にあるものと自分を繋げようとする試みが信仰とも言えます。
この信じたいという思いは、分離しているこの地球の人々にとって、唯一、みんなとつながる、また大いなるものと繋がるロープなのかもしれません。
しかし、試みは空しく、最後はそのローブは完全につながりを継続できません。
なぜなら、そのロープそのものが幻想だからです。幻想である外側の神と、幻想である自分の自我であるエゴと、幻想であるロープを使って、なにか完璧なものとして繋がろうとするのが信仰です。
かといって悪いわけではありません。信仰否定しているわけではありません。
究極的にいえば、そうなるといいたいのです。
100%の信仰する自分の不動の気持ちを試したくて、酷い目に合わされても、肉体をいじめられても、信仰をもってはなさないで死んでいったキリスト教の殉教者もいました。
でも転生輪廻して、こんどはわざと大金持ちの息子として、娘として生まれて、宗教とは無縁の中にそだち、生活して、親のお金で堕落していくこともあるのです。
過去生ではあれだけ、我慢してきた、身一つで貧相に耐えてきた、信仰のためにすべてを持たないで、欲望を持たないように努力してきた人でも、環境が変わり、自分も生まれ変わると反応は違ってきます。
あっさりと欲望の渦に飲み込まれたりします。
このように、行き過ぎたマインドは反対側の極端なマインドが経験できるように矯正されています。
ある時は死ぬ気で信仰もっても、その極端な思いは、反対の経験させらることで緩んでしまったりします。
永遠の信仰とは なんでしょうか? ありません。
時間とともに、変わっていくからです。
周囲の状況、時代が変われば変わるほど、ある意味、その繋がりを試されたりします。
試されるというより神である自分自身が、あくびするように行き過ぎた思いに修正をかけるのです。本当は神ですから。
やはり、外側にあるものは、すべて最後は流れていきます。変わっていきます。
そして自分自身の心も変わっていきます。流れています。
すべて諸行無常そのものです。 止める事はできません。
もちろん、命がかけて、国も守る特攻隊も、命をかけてイエスの信仰を守る信仰者も悪いわけではなく、その時代、時代の究極のドラマをしているんだと思います。
そして、外側に信仰を持つと、独善的になります。つまり自分の考えがすべて正しい、私たちの信仰はすべて正しいという一方的な見方になります。
それは、信じよう、信じようとし過ぎて、ストレスがかかっているのです。そのストレスは信じる以外を拒否して、さらに尖った心となっていきます。
それが外側にでると、迫害やら宗教同士の戦争となります。
これも幻想の世界に深く入りすぎれば過ぎるほど、こういうマインドになるのです。
つまり極端になっていきます。この極端さを宇宙は自然と丸くさせるように、解放させらるのです。
今、シフトしている人は逆でしよう。どちらかというと気張って何かを信じようとすることも何か力が入り過ぎている感じがしてしまうはずです。
それはもう、自分自身の中に神を発見してきているからなのです。
でも頭の中のエゴはそれはまだわからないかもしれません。何かを信じなくてもいきていける・・・というだけでも神としての表れなのです。
なぜでしょうか? 外側に信じている人より本当は安心感が人生に出てきているからなのです。
この安心感というものは本人しか体感できないのですが、信じるというより、事実そのものの確認のようなものです。
そこには安心感という自信が出てきているのです。
すばらしいシフトを自分軸の人だけは体験し続けていくでしょう。
それが信仰との違いであり、ゆるやかな最高のパワーなのです。
たった今でました。↓ 新動画です。
kuのインスタも、フォロアー数以上に盛り上がってます。笑 感謝です。笑
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