※YOUTUBEは本日の夜、1月25日土曜日夜19時30分に出します。お待たせしました。
今日のテーマは「 悟り 」系です。笑
今日の記事は難解になりそうです。笑
「気づき」を得るというものがありますね。気づきとは気づきの意識とも言われる事もあり、真我と関係しています。
ダイレクトにいいますが、気づくとは 誰かが気づいているわけではありません。
「わたし」の気づきではないのです。
エゴというのは、この気づきであっても、後々になると、「 私がきづいた 」というように、自分のものにしたがる、自分の体験にしたがるのです。
気づいていたのは私ではなく、「 それ 」なのです。 このそれを真我と呼んでも良いです。
しかし、気づいたから真我が成長した?といったものでもありません。
いきなり相当難しい話になっています。笑
たとえば、あるがまま、なすがまま というのは、あるがままに成って行く自分でも、なすがままになろうとする自分でもないのです。
「そこ」に気づけば、あるがまましかないのです。なすがまましか本当は無いのです。
つまりあるがままでないということが、エゴの生き方なのです。気づきの無い無明の生き方でもあるのです。
永遠にそこにあったのに、気が付かないので、誤解した観方をしているのがエゴの観方なのです。
かといって、誰かが気が付くわけではありません。それだとエゴの気づきになってしまうのです。 難しいでよすね。笑
たとえば、静寂 というものがあります。 私が静寂になるように努力したり、心構えをもったりしたくなります。これは自我です。
静寂を真我にたとえると、私達の真の姿は、静寂そのものなのです。その静寂の前にエゴがあって騒いでいるだけなのです。
そしてエゴが一瞬でも消えて、私がいなくなったとき、気づいている自分がいるのです。それが真我であり、静寂でもあります。
そして、私は気が付いた と あとでエゴが出て来て、体験を自分のものにするのです。
静寂なる 気づいて行く自分、真我というものがある ではなくて、静寂しかないのです。気づいているしかないのです。真我しかないのです。
すべてのすべての中から見ているのが真我です。観察意識みたいなものかもしれません。 ただそこには、自分はいないのです。
ただただ、「在る」ときに、気づいている意識になるのです。
だから、誰かが気づいて何かを発見したのであれば、それは気づきではないのです。
ただ導入することは必要かもしれません。この導入があるがまま、なすがままを受け入れてく。
というところから入ると入りやすいわけです。
しかし、導入しようが入って行こうが、もともと在ったものであり、すべてのすべてなのです。
また、それでは何もしないでそっとしておくことですか?と言う人もいます。
ただ、何もしないでそっとしている自分ではないのです。
何もしない自分、動かない自分であるならば、それは自我であり、あるがままではないのです。
動いていても、静かにしていても、カタチではなく、行動ではなく、全体と一体化していることが、静寂であり、気づきであり、真我であるのです。
結局、その中で浮き立ってくるように物質や行動やエゴの思いや念やいろいろな幻想の現象があり、その浮き立ってくるものを真剣に扱っているのがエゴなのてす。
真剣に扱わなくなった時、エゴが弱くなっているのです。
その時に気づきになったりするのです。笑
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