※ブログ更新失礼しました。連日メールのやりとりで忙しく、ズッコケて出し忘れました。すみませんでした。笑
今日のテーマは「 受け取る 」というワードです。
この受け取るといのは富だけではありません。光や愛も含まれます。
最近は、あるがまま、なすがまま というテーマがとても多く、それは時代的にもみなさんの認識が騰がって来ている事も関係しています。
すばらしいですよね。ただ、なすがままに生きている というテーマにも問題はないのに、三次元的にはこのテーマのような「 受け取れる 受け取れない 」といういきなりリアルに戻ってしまうマインドはまだあります。
これは、豊かさと清貧のような、部分でエゴがまだひっかかってしまうからです。
お金などでも、価値中立という言葉ではわかっていても、潜在意識の反射的な気持ちはまた別なのがこの地球です。
今の世の中では、受け取れないどころか、奪いにかかって行くというマインドもあります。それは過去生でも聖職者のような事にも縁が無かった普通の人だったもしれません。
しかし、ここに来るような人達、スピリチュアルな人達は、過去生でやはりスピリチュアルな事をしており、戒律や宗教的な戒めをしっかり守って来たような人もいるのです。
それが現代に生まれてもどうしても最後の自我のわがままとして、反射的に受け取れないという場面で引っ掛かってしまっている人も多いようです。
今の時代は、「 稼ぐ 」という言葉が流行っているくらい、お金に対してもっと積極的にむいていたりします。
だからこそ、過去生で聖職者だったような人の場合、そのところで遅れをとってしまう事が多いのです。
他の人達はもっと厚かましく、ずずしくしないと生きていけない事をわかっているので、受け取るどころか奪っていく事もやぶさかではありません。
しかし過去生が聖職者だったりする場合、与える事には敏感でも受け取る事にエゴが劣等感のようなネガティブをもっていたりします。
なにか欲が絡んでくることに敏感なのかもしれません。
欲はイケナイ事 という聖職者どくとくの刷り込みです。
また、受け取るということは、お金お富だけではありません。自分が得するような事すべて含まれるかもしれません。
受け取れないからすぐ与えてしまう。という癖もあるかもしれません。
与えるということは、まともにすれば、与えるものは与えられるという事になります。
しかし、受け取れない人の与えるは、受け取れないのですぐ使ってしまうといった、受け取りを拒否する気持ちです。
これは一見、謙虚で、謙譲的な感覚なので、美とされそうですが、実は逆で、そこにもエゴが張っているのです。謙虚のエゴです。
謙虚そのものは在り方ですから、エゴはありませんが、私はいりません、
私に必要ありません。私は謙虚です・・・といった私というキャラクターが絡んでくると、やはりそれはエゴになります。
やはり受け取れないという事も、奪いにかかるということもどちらもエゴなのです。
私が恥ずかしいというのもエゴの反応です。それと同じです。
ではどうすればいいのでしょうか? それはありのままの自分に常にいるという事でもあります。
本当の自然体はありのままです。拒否したり奪ったりはおなし事で、やはりそこに個が強すぎるのです。
ありのまま、自然体ということは、お任せする境地です。おまかせという部分には我が入っていません。
つまり受け取るためには、無我になることなのです。 つまり流れの中でそうなったことに対して抵抗しない と言うことです。
受け取る場面が出てきたにそれに対しても素直になることなのです。
それが自然体だからです。そこで我が出て来るから主義主張、正しさ、あるべき行為のような自分への戒めみたいなもがあるから受け取れないのかもしれません。
あるがまま、なすがままに成っているときは、自然体で自分というキャラが強くありません。
つよくないからつまり、自分というものを通してないから 自然と受け取れたり出来るのです。
つまり最終的には自分軸がしっかりしていて、自分に起きる事に素直になっていく・・・ということが受け取れる人となっていくわけです。
自分の目の前に起きている事にどれだけ素直に心開いて、対応するか?どうか?なのです。
あまりにも我があるからこそ、謙虚というキレイな名前がエゴを飾って、受け取れない素直になれない自分になっているのかもしれません。
2025年は受け取る事について考えてみるのも面白いかもしれませんよ。笑
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