今日のテーマは、とてもシンプルな言葉ですが、内容は少し難しい話かもしれません。

 

自分の方に意識を向けて、自分軸で、内省的になる・・・という自分の内側へ向かった楽しみもシフト時代には流行ります。

 

瞑想が得意ではなかったとしても、自分の内側を奥深く、気づいていくということはとても幸せな事だからです。

 

また逆に、この地球でいよいよ軽くなって来たので、出来る限りの範囲で、外側で活躍してみる。発展してみる。動いて活動していみる・・・・という事も始まったりします。

 

 

しかし、シフトされている方は、この両方の感覚、両方のバランスの感覚を自分なりに求めていたりします。

 

それが、ジレンマになっている人も多くいるかもしれません。

 

内省的であるのは、静寂な幸せ感もあって、「 在る 」だけで充分だったりしますが、かたやそればかりだと、なにか三次元的に行き詰って来る。

 

お金の面もそうかもしれませんが、行動の面でついつい日常的にマンネリ化してしまっていたりします。

 

 

この両方の面どちらも、素晴らしいものがあり、やはり軽くなってきたら、次のステージでは行動もしたくなるわけです。

 

結論から言いますと、カタチに拘る必要はありません。

 

陰でも陽でも、内でも外でも、何処に自分が居るかではありません。

 

何かをコントロールする段階では今ありません。 なすがままに、ながれのままに、そのとき、そのときで、「在り方」が違って来ても良いのです。

 

 

 

幻想に入っている・・・幻想の外に居ようとしている・・・それもカタチです。

そのカタチも破って良いのです。 

 

エゴというのは、学習が早いので、やはりカタチに拘るのです概念や観念というものが出来上がると、エゴが活躍しやすくなるからです。

 

そして、活躍してくると、次に出て来るのが、「 自分はこの場面で何をしたら正しいのか? 」というようにこの見本のようなものを作って行きます。

 

 

それが出来ればOK、できなければダメというように、自分でコントロールして、修行の道のようなものを創ってしまうのです。

 

そうではなく、もっともっとシフトを信頼して、自由であっていいのです。

 

アセンション版、無為自然という感覚です。

 

もっと流れままで自由に在っていいのです。

 

とはいっても、内省ばかりしていると、この世的に、外れてしまって身動きとれない不自由さの中に置き去りにされてしまうし、外側ばかり発展ばかり意識して進めば、この世的になりすぎて、シフトを忘れてしまう・・・そんなジレンマは出てきます。。

 

 

そのアセンションの時期を選んできたのは、そこにポイントがあるからなのです。

 

でも、考えてみれば、肉体をもったまま、スターシードのような地球に慣れてない人がそれをやる事自体が、スピリチュアル的に優秀極まりない事だと思います。笑

 

本当は凄い事を霊的にやっているのです。

 

ですから、今日もチョットしたアドバイスするとすれば、今日のテーマの言葉通りです。

 

「 目撃者になっているだけでいい 」ということです。これは内面を見てきた人なら一発で解る言葉です。

 

 

目撃者というのは、頭の中のエゴではない、本当の自分自身が見ているということです。

 

つまり、内側に居ようが、外側で動いていようが、いつもいつも自分に起きている事の外側、内面の「 目撃者 」なるようにしておく ということです。

 

もっと簡単にいえば、「 いつもいつも見ている、自分のすること、自分の考えること、 などをいつもいつも眺めている自分 」 ということです。

 

これが完璧にできるなら、本物の悟りの人です。

 

でも、少しエクササイズを混ぜてもいいので、なるべく、その世界の中にいながら本気にしないで、眺めている自分を持つということです。

 

 

ストーリー入りながら、入りきれていない。ような、どっちつかずのような感覚で眺められているいるようになるということです。

 

これは、どっちつかずにしょうと思ってしているわけでもなく、認識が騰がって来ると自然とそのようになってきます。

 

単なる、「 目撃者 」です。

 

監視しているからどうのこうのではなく、ただ見ているのです。目撃しているのです。

 

この目撃しているのは、エゴである自分を超越しているほんとうの自分です。

その本当の自分自身が見ているので、目撃者と 言ってみました。

 

 

 

悲しんでいても、目撃している。よろこんでいてもそこに目撃している。

 

怒っていても 目撃者、失恋しても目撃者、野球やっている時も目撃している。

 

大工さんやっていて、釘を打っている自分を目撃している・・・・

 

何か熱中しながら、かたや目撃している・・・という事です。

 

そうなってくると、外側でどんなに行動しても、いつも内面にいることになります。

 

 

 

つまり、目撃者がいるという自分になると、外側にも内側にも真の自分がいることになり、外側、内側を超越してくるということです。幻想から出ている自分となっていたりします。

 

 

結局、これから軽くなって、たとえばいくら成功しても、発展しても、または自分の環境が変わって来ても、最後は、いつも目撃者があれば、それは真我ですから、最後は自分の内面に戻ってきます。

 

それは外側に行ってしまうようで、内側に行く・・・・といった、両極がない世界観です。

 

そして、最後は「 止まる 」自分に戻って来る・・・という素敵な在り方です。

 

 

やはり、「 あるがままに自分を見ている・・・ 」というとてもナチュラルな視点です。

 

今日は人によってはだいぶ難しい話になりましたが、内面と外側の人生との関係で、

できるかぎり大切と思われる在り方を書いてみました。

 

ご参考までに。笑

 

 

 

 

 

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