みんな買ってくれてありがとうございます。笑

ゆっくり読んでね。笑

7月8日発刊 スターシードku著

 

記事です。

 

 

今日は難し目の記事ですが、ゆっくりご覧ください。

 

「 究極のゆるし・・とはなんですか ? 」 という質問がセッション中にありました。

 

この方は、すべてがゆるせるようになることがすばらしいことで、自分のビジョンとしてあったのだと思います。

 

とても優秀でもあり哲学的な人でもありました。

 

kuのチャネルは、その場で、こう答えました。 

 

「 正しい真実はありませんが、無防備になることだと思います。」 と答えました。

 

 

究極のゆるし・・・なんてとても深い言葉だと思います。

 

ただ単にビジョンにするものではなく、これから人類が体験していく、アセンションシフトそのものが、ここに関わってくるかもしれません。

 

許しということが、「 自分 」 という主人公が「 だれだれを許す。 何か許す 。 すべてを許す 」 という、二元性になりやすいです。

 

つまり、許される誰かと誰か、 誰かと何か があるという二元です。

 

ただ、それだと、永遠に叶わないかもしれません。

 

 

陰陽の世界であるこの世界は、完璧にしょうとしても、永遠に 主人公であるエゴは100%にできないからです。

 

100%白をにしようと目指す。 100%黒にしようと目指す、 100%素晴らしい世界を目指す。100%正しい世界を目指す。 全部ダメだと思います。

 

この世界は幻想であり、二元性がつねにつきまとうので、右に行き過ぎたら、左に揺れもどされ、左に行き過ぎたら、右に揺り戻されます。

 

しかし、人という主人公は夢をみます。 いつもいつも100%素晴らしい世界にいつか行けると。

 

 

しかし来たためしがありません。笑  それは幻想の世界だからです。

 

ユートピアや、暗闇の組織のようなものが無くなって、すばらしい世界になるために、一生懸命に努力してきたりして、過去の多くの民たちは、歴史中で夢を現実にしょうと行動を繰り返してきました。

 

それは、どこかに 究極 という名前の、 永遠 という名前の、 100%という完璧さを 主人公であるキャラクターの 父から、祖父から、先祖から、歴史の偉人の言葉から、理想にするように夢みさせられてきたのです。

 

いつか必ず、その理想の場所に行ける・・・・・ という希望です。

 

 

そして、この主人公は、長い転生輪廻の中でも、いつも理想を忘れないで、少しでも努力することで、自分を変えて行って、いつか100%理想の世界、理想の自分を 設定していくのです。

 

それは、この幻想世界に住む人達にとっては、あたりまえの優等生のマインドです。

 

しかし、それは叶わないかもしれません。 陰極まれば陽となり、陽極まれば陰と変化するからです。

 

また、100%ポジティブになる事は、ある意味宇宙人にとっては怖い事かもしれません。

 

大昔、プレアデス星人が、それを試んで、失敗しました。

 

 

すべて善なる世界、すべてをポジティブの世界にすることで、 陰と陽のエネルギーバランスが崩れたのです。

 

ポジティブだけが正しいと推し進めたプレアデスは、一気に大きなネガティブに振りもどされました。

 

そして、オリオン大戦の時に、自分の星のひとつが滅びたわけです。

 

それは、プレアデスの長老たちや、高次の存在にとって、片一方のエネルギーだけを選別して、しまうことが、どんなに恐ろしいことなのかを身を持ってわかったのです。

 

陰も陽もあり、消す事はできません。 

 

大切なのは、 バランスがとれている事に満足できることです。 

 

 

つまり、両方があって初めて、カンペキ なんだ とわかることなのです 」

 

つまり、陰も陽も ふたつともあるから、この世界は完璧であるということを認識があがるとわかってくるのてす。

 

これが、アセンションの目的ともいえます。

 

つまり、究極のゆるしというものがあるとすると、 究極の自由の視点で見れる ということです。

 

究極の自由の視点だからこそ、穏やかな目で、すべてを見れるのです。

 

 

それは、カルマがないから、ひっかかりの視点で見てないのです。

 

その自由な視点というものは、片寄った観方をしていない ということです。

 

天使の声はいいけど、低音はだめ とか、宗教のような善悪、白黒はっきりさせているような視点では、自由はえられません。だから宗教は発展していけない現在なのです。

 

自由とは、寛容という視点です。 

 

では、寛容とはどういう視点かといいますと、幻想を幻想として 見れている視点です。

 

 

幻想を幻想として見れてないと、緊張しているはずです。 

 

幻想を幻想として見れているということは、緩くなっているはずです。本気にしてないからです。

 

緩く見れているということは・・・・・ とっても無防備です。

 

人生にできる限り、緊張や、注意などが、無い世界があるとすれば、そこの人々のマインドが、無防備だからです。

 

もし、すべての日常の中で、無防備な、危険や、緊張のない世界にみれたら、どうなるでしょうか ? 

 

 

誰かが誰を許す とか、 誰かが何かを許す とか、 それ自体が少し緊張した感覚ではありませんか?

 

すべてのものに分離がなく、もともと、この世界は完璧な 映像だったんだ、動画だったんだ、ストーリーだったんだ という とっても無防備な視点になったとき、

 

すべてが、許している という言葉より、もっと深い言葉の、「 すでに赦している 」という言葉に変換されるかもしれません。

 

つまり、 許す事さえいらないような、 元々から私たちは 完璧な世界にいたのです。

 

 

それに気づいて行くことが、アセンションなのではないでしょうか。

 

今日は、少し難しい話になりました。 

 

哲学的なお客さんも面白いですね。笑

 

たまにはいいですよね? 笑

 

 

 


 

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それは無防備に生きること

 

 今日は難し目の記事です。