今日はレッテルの話です。先日までの街角情報的な話もおもしろいですが、大切なのはいつも最終的に自分自身に帰って行く・・・ということかもしれません。笑

 

やはり人生は自分という投影するものがいることで、ストーリーは続いて行きます。

 

私たち宇宙の魂の今世の楽しみな生き方は、シフトしていくことです。やはりそこの1点に関してはとても大切な部分かもしれません。

 

ある意味、シフトに対する純粋な魂の想いがあるのかもしれません。

 

記事に入ります。

 

 

レッテルの話も今までだいぶしてきましたが、この地球という場所は、レッテルが大好きなんですね。

 

神様の名前から始まって、橋の名前、山の名前、何かの名前の由来など あらゆるものにレッテルをつけることで、共通の話題をもとう、共感しようとしてきたわけです。

 

レッテルというのは、分離です。エゴは名詞をつけることで、全体を分離したパーツにしてきたとも言えます。

 

レッテルを貼ることで、人間同士のドラマが続いてきた とも言えます。

 

それは、分離し、線引きされた 停止線のように、無意識のルールになってしまうのです。

「 それはそれ、あれはあれ 」といったようにです。

 

 

誰が牽いた線でも、かならず守らなくてはならない線でもありませんが、その線からはみ出した生き方を拒否したり、その線をきらってみたり、その線がある事を喜んでみたりしてきたのです。

 

その線が示す、意味みたいなものに、前提のもと、この世の中は成り立っています。

 

富士山 という言葉を使えば、みんなの冨士山のイメージが浮かんで来るように、あのカタチのあの場所のあの土の盛り上がりに、富士山という、山 という 名前をつけたのです。

 

そして、その冨士山という名前のもとに、会話や意思疎通ができやすいようになっているのです。 

 

 

みんながひとつに繋がっていない分離された感覚があるからこそ、共通の言葉が必要なわけです。

 

この意味付けやレッテルがあるからこそ、繋がっていない同士が、連想させて会話を進ませる事も出来たわけです。

 

そして、大人になるということは、レッテルだらけの中で生きて行くようになるということでした。

 

しかし、アセンションが各人それぞれのペースで始まって来ると、シフトして行く中では、このレッテルが貼れなくなってくるのです。

 

レッテルを貼って真剣に生きることが正しい生き方であり、デキル人だったのですが、それが出来なくなって来たりします。

 

 

だんだんシフトしてくるということは、「 少しいい加減になってくる 」とも言えます。

 

それは、なにか修行で、「レッテルを貼らないようにする・・・ 」ではなく、「 貼れなくなってくる・・・」ということです。

 

「どうでもいい感じ 」という一見投げやりな感覚は、人生に余裕が出てきている という事です。

 

レッテルを貼って、意味付けをして行くということは、積極性があり一歩でも前進しようとする意志力のようなパワーがあります。

 

しかし、「なすがまま に生きる」 というような、シフトの場合、レッテル貼るくらいそれそのものに、意味を感じない、興味を感じない、つまり、積極性ではなく、「 受け身 」のようなスタイルです。

 

 

この一見、わかりずらい、「 受け身 」のような在り方というものは、とても優柔不断で、いつも風見鶏のような気持ちも言葉もころころ変わって、主体性にかけたりします。

 

もちろん、積極性は神である自分のポジティブな現われなので大切です。ただ、シフトとなると、もっとパワーアップされたポジティブさが必要となるのです。それが「 受け身 」です。

 

なぜならば、「 受け身であるからこそ、エゴが出て来てないのです。」 人生の大半の悩みや行き詰まりは、このエゴがしゃしゃり出て来て、いろいろ不安から行動することで、混乱を招いているので、エゴが出てこないからこそ、本来のパワーが増幅されるのです。

 

とらわれが無くて、流れて行くようだからです。 

 

受け身になるということは、「自我」が薄くなってきて、流れの邪魔をしなくなってくるということです。エゴのパワーが弱まって来たとも言えます。

 

ここが体感できてないと、いつまでたったも「自分でなんとかしなくちゃ」 という気持ちのままに、いつも肩の力を張って自我の力に空回りしていきます。

 

いつも、いつも「 これは○○である 」「 これは○○の意味である 」「これはこれで正しい」とか、カタチにしないと安心しないような、男性的なバランスのとり方になります。

 

論理的でないと安心できないのは、カタチを欲しがっているからです。これが今までレッテルを止められない社会を創っていたわけです。

 

 

つまり、シフトすればするほど、そのような呪縛から説かれてきます。

 

大いなる大きな大きな存在の中に、自分自身という小さなエゴが溶けてしまうからこそ、寛容になれるのです。

 

寛容になれたからこそ、レッテルも貼らなくても良い という気持ちになれるのです。

 

結局、あるがまま なら あるがままで いいのです。

 

例えば、黄色い看板を見たとします。

 

その黄色い看板に そこに何が書いてあって、これで何をしなくてはいけないのか?、我々はどうしたらいいのか? など、あれして、こうして、どうなって? という観方をいつもすぐに、して来たのです。

 

 

でもこれからは、単に「黄色い看板キレイだなww 」 でも良いのです。

 

「そんなんで生きられるんですか? 」って言われそうですが、「 そんなんで生きられる時代がきたのですww」 

 

ただ、もし必要があれば、ハイヤーからインスピレーションがきて、黄色の看板の意味を観させられます。 

 

その時観させられたのが、「 クマ出没ww 」という黄色い看板かもしれません。ww

または、足踏み外さないような、注意書きの黄色い看板かもしれません。

 

 

そんな緊急以外には、あまり必要ないのです。

 

それなのに、必要無いのに、必要があると思い込んで、クビを突っ込んで、必要でもないのに、ああでもない、こうでもないと難しい事を始めてしまうのがエゴの世界なのです。

 

何のストーリーに熱中してもいいのですが、ストーリーに熱中するということは、レッテルを貼り続けて過ごしている事を意味します。

 

1日の中で何十、何百のレッテルを貼り続けるのならば、それはやがて観念となり、さらにストーリーに熱中するようになります。

 

今の社会では、このレッテルで一番、活躍してるのが、「 ニュース 」 新情報です。

 

 

この新情報はテレビでもネットでも、裏でも表でも同じです。 「 正しさ 」という観念づくりにせっせとこのレッテル達は活躍してくれます。

 

時間という流れの中で、継続してストーリーに熱中できるように、そして雑念が消えなくなって行きます。

 

この縛られて行く感覚が、シフトと逆なのです。 どこか重い日々を感じたら、意識をシフトの方に、自分の方にもどしてください。

 

瞑想したり、散歩したり、新しい事をしてみたり、してみるのもいいです。

 

せっかく、こんな春のすばらしい陽気の中なのに、もったいないです。

 

 

シフトが正しいわげではありませんが、エゴはいつも自分の体力まで考えてません。

自分を労われるのは、自分自身です。

 

いろんなこの複雑化した社会の中で、自分にあまり関係ない事を 「 そのままにしておく・・・」という保留してしまっても良いと思います。

 

無頓着で、スムースな やさしい無関心さが、自分にとって大切になってきているのかもしれません。笑

 

 


 

 

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