多くの人たちは、昔から、「問題」 といわれるテーマをいつも抱えてました。笑

 

それは、人によっては、いつまでたっても解決し終わらないくらい、次々と問題が出てきます。

 

そんな社会では、もし、「問題意識がなくなってくる・・・・」 という事となれば、緊張感もなく どちらかというと停滞感があるように、怠けているように思えました。

 

しかし、時代とともに、良い意味でこの問題意識が薄れて行く・・・・のかもしれません。笑

 

なぜかといいますと、時代の人々の波動は、「 やすらぐ・・ 」 という感覚が強くなって行くからです。

 

 

多くの人の魂が、ゆっくり目覚めて行く時、問題そのものに興味を感じなくなったり、意味のないものに感じてくるようになってくるからです

 

最近、セッションに来る方の中でも、コロナによって、少し楽になったとか、なにか遠くで起きている感覚あるとか、現実味がない・・・ というようなご感想をもらいます。

 

kuは、そのような方に対して、被害者意識のようなものが薄れつつあるのです・・・とか、シフトが進んできて、あまり目の前の社会現象さえ、現実感がなくなってきているのです・・・というような言い方をしています。 

 

 

シフトしていくということ・・・・・・・・・とは、今日のタイトルのように、平凡な感覚、つまりなんでもないんだけど、淡々と過ごせるような幸せ感の中で、一日中、一年中過ごせるような日々だったりします。

 

それは、淡い色の美しさ というような日々です。

 

刺激的や、快楽的に 幸せ感とか愛とか、美しさではなく、 強烈ではないものの、なんとなく、自分の目の前が、そんなに悪いものではなくなってくる。

 

つまり、 この感覚は、不幸せ感 が無くなって来る・・・・ 自分に今まで いつもあった問題がなくなってくる・・・ 自分にいままで降りかかってきていた苦労感が無くなってくる・・・。と言った感じです。

 

 

なぜでしょうかーー?   それはハイヤー繋がって来るので、 エゴがひっこんでくるからです。

 

エゴでいっぱいのとき、どうしても、不幸せ感、問題を見つけては悩んでばかりいる、不安感、苦労感などが伴って生きています。

 

しかし、それは外れてきたとき、つまりハイヤーとつながってくると、 平凡ではあるものの、刺激のない 淡く美しい、心地よさ がある日々になってくるのです

 

それは、一日、とか、一週間とか、ひと月とかの、状況ではありません。 一年、数年と、安定して行きます。 もちろん、カルマの解放期間とか、浄化中は別です。笑

 

 

平凡な日々の毎日の中に、刺激はないのだけれと゛、愛がある 平凡な日々の中に 美が光っている という感覚。

 

自分の環境、宝くじかあたったような刺激的な環境の変化は無いのに、なにがかわったわけでもない、いつも通りの日々なのに、平凡の中に、やすらぎがある。

 

淡い美がある。幸福感ある・・・ という感じに変わって来るのが、シフトです。

 

それは、他でもない、自分自身が変って来たのです。 だから、そう感じるのです。

 

エゴに翻弄されている時は、いつも頭の中は問題意識でいっぱいなので、「 日常の中で、美しいものを 見落としてしまっていた だけなのです 」

 

 

頭の中にいつも意識が常に行ってたので、目の前に起きる小さな幸福を見落として、いたのです。

 

ようは、「 見ているようで、見ていなかったのです 」 しかし、今ここ が定着して、ハイヤーと一体化してくると、 今この瞬間をしっかり 見るようになります。

 

聞くようになります、そして感覚が 平凡なようで、実は感覚が研ぎ澄まされて来るのです 。

 

そして、「のほほん・・・」と生きられるようになります。その 「のほほん」 と生きられるくらい逆に言えと優秀になれるのです。

 

 

平凡さ とか、 のほほん と生きられる 心境というのは、それだけで 不安とか恐怖から卒業している心境だったりします。

 

たとえば、古代ギリシャには、おもしろい哲学者がいました。 ソクラテスの孫弟子の ディオゲネスという人物です。

 

大きな樽の中を住処としていたのて゛、「 樽のディオゲネス 」とも言われてました。

 

時代は丁度、アレクサンダー大王がどんどん領土を拡大して行った時代で、アレクサンダー大王の時代にちょうどいた人です。

 

そして、アレクサンダー大王は、ディオゲネスと 会う事になります。 

 

 

アレクサンダー大王がコリントスという場所に、将軍として訪れた時、ディオケネスが挨拶にこなかったのです。 

 

しかし、哲人として高名になっていたディオゲネスでしたので、大王が自から、噂になっていた、この哲学者のディオゲネズに会いに行ったのです。

 

ディオゲネスは、体育場の隅にいて、日向ぼっこをしていました。笑

 

大勢の御供をつれた、アレクサンダー大王が、自ら挨拶しました。

 

 

「 なにか希望することはないか? 私は大王となった、あなたの望みくらいなら、なんでも聞いてあげよう なんでも望みを言って見なさい・・・・ 」 と。

 

すると、ディオゲネスは、「 すみませんが、アナタがそこに立っていると、日陰になるからどいてください それが私の望みです。」 と言ったのです。笑

 

帰途、大王は、「 私がもし、大王でなかったなら、ディオゲネスになりたい・・・ 」 と言ったとのことです。

 

こういう話でした。

 

ここで、言いたいのは、ディオケネスの態度が、欲望がないことが良い事という事はありません。 欲望あろうが、なかろうがではなく、そこではありません。

 

 

「 いまここ 」 というシフトした、場所にいたことにあるのです。

 

未来も過去も幻想とわかっているひと にとって、 今この瞬間に生きられて、ハイヤーに繋がっている事によって、今この瞬間が平凡でも、幸せでいられるのです。

 

領土を征服してきて、世界を征服して、人類の当時理想のような、拡大してきた、ナポレオンのようなアレクサンダー大王が、自分自身の心が彼によって止められた瞬間なのです。

 

それは、ku的に言えば、「 大王はストーリーの中にいた・・・それを指摘された 」となります。

 

世界中を征服してみても、止まらなかった心が、止まった瞬間だったのかもしれません。

 

 

やはり、過激さ、刺激、強烈な自己変身のような、エゴの夢見て、欲望が揺さぶられるお誘い

は、この幻想世界は、いつもいつもあります。

 

一般社会の中、消費社会の中だけではなく、スピリチュアルでさえ、刺激もとめて、さ迷う人はいます。 

 

このアセンションの時代でも、 「 これこれ、こうやったら変身、変革できる 」 というものは溢れています。

 

しかし、もしホンモノのシフトというのがあるとすれば、 平凡さ 淡い刺激はないけど、本物のの安らぎがあるように思えます。 

 

もし、安らぎがないようなら、まだエゴが幸福探しを模索したいのかもしれません。

 

 

味わいのある、平凡さから、ゆっくりゆっくり発展していくようなシフト・・・・。

 

それは、ありのままで、決して、飽きる事ない平和な感覚でもあると思います。

 

 

 

 

 

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9月あたりに販売開始する予定です。

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