前回の記事のウケがよく、多くの方が来られました。笑 なにか感じられた方が多かったようです。
やはり、こんな今・・・・自分が立っている位置みたなものを、知りたいのかもしれません。笑
その中には、スピリチュアル初心の方もいらっしてくださっているようなので、ちょっと基本的な話を今日はします。
基本的ではありますが、そんな当たり前のようで、シンブルな事が今の時期大切な事だったりします。
世間では、恐怖が氾濫している時期だからこそ、とてもシンプルなスピリチュアルが大切なのです。
というのは、普段から多くのスピリチュアルの学びを重ねてきた人達であっても、このようなコロナの件のような事があると、今の自分の心境がわかる・・・ということです。
それは、自分の反応にあります。
自分の抱え込んでいる怖れの多さ、大きさ、あるいは少なさなどが、感情を通じて出てきます。
つまり、それを通じて、シフトの度合いがわかるということです。
直接関係があるようでないような、あくまでも世間的に起きていることなのに、それが自分の事として捉えてしまうかどうかによって、自分の持っているカルマの反応がすぐわかるという便利さです。
大きな気づきがある ということです。
恐怖や不安が沢山出てきたりとか、少し出てきたとか、全くなかったりとか、人によってさまざまです。
短期では平気な人もいれば、長期化すると平気ではなくなることもあります。
ひとそれぞれの、ある意味、解放の機会が、そこにあるのです。
自分では、自分の事を大丈夫と思っていた人が、実際には動揺した・・・など、それがもちろん悪い事ではなく、自分自身の分離している部分発見できるのです。
自我の思いと、潜在意識以降の思いの違いが判らさせられる・・・ということです。
というより、もう一度、、頭だけで理解したことと、体験を通じて自分が気づいたことが、今のこのコロナで、はっきりわかって来る時期です。
ある意味、目の前で一生付き合う社会や家庭環境が、幻想であると思えるかどうかの、自分自身への図りにもなっている ということです。
もちろんそれは、2020年から恐怖の時代が始まると吹聴するような、バカげた観方ではく、産みの苦しみのようなおめでたい始まりです。
だとするならば、どうしても一般の人たちが このアセンション時代に通らなければならないマインドがあります。 それは・・・・・?
それは、「 肉体は自分ではない 」 という、シンプルであって、強力な言葉です。
今の時代を通過していくための、アセンションの関所の合言葉のようなものかもしれません。笑
肉体は乗り物のようなものなのに、どうしても人間となり、無明となると、主と従を間違えて、勘違いしてしまっている自分がいるのです。
人のエゴは、生きているとき、人生を長く設定しているので、人生計画のような本当に幻をいつも考えています。 「 死 」 というものを遠くにさけてきました。
kuが少し前から、去年くらいから、この「 死 」 という事をテーマにしていたのも、大いなる流れの中でのメッセージだったのです。
この「 死 」という人類のエゴにとって、いちばん嫌いな言葉を通過しないと、人類はシフトできないからです。
結論からいいますと、非常にシンブルですが、「 死はありません 」 それはエゴの死であって、永遠の自分には、「 死 」 はありません。
肉体の中に魂が入っているのではく、魂の中に肉体があり、死とは肉体がとれるだけです。
このエゴという自我と魂が分離しているがために、人は「 死 」というのに敏感に考えないように自分の人生を誤魔化して避けてきたのです。
この「 死 」というものを、人類はどこかで シフトしながら疑似経験して、不安、恐怖を取り除かないと、ならないようでもあります。
それは、ある意味、「 死 」 という恐怖から逃れよう、逃れようという波動から作られたこの社会の波動が崩れ落ちていくのかもしれません。
というより、人類に今まで憑いていたいた変なモノがとれかかっているという事かもしれません。笑
365日商売をやっている人からみると、自分の商売をストップさせられること自体が、その人にとっては「 死 」かもしれません。
「 死 」 というものをいつもいつも誤魔化して、見ないようにしてきたものが、今回のコロナの件で、去年までフワフワして生きて来れたのが、一瞬にして恐怖として露見された形になってきたわけです。
自分の恐怖を持っている度合いによって、反応は様々です。
このような事が起きると、自分を守ろう、守ろうとして、躍起になる方もいます。怖くて怖くてしょうがないくらい、この人生に対する執着も露見しているのです。
あたらめて、自分は怖がっている という事を発見するだけでも、それは浄化できていきます。それはとても大切な気づきなのです。
厳しく感じられるような出来事でも 魂から見るととても福音だからです。
ただ、百万回勉強して、死というものが怖くないということを解ってる気になっても、たった一回の今回のような試しによっては、簡単に崩れる人もいるかもしれません。それがカルマです。
しかし、やはり、それに気が付いたことだけでも、福音なのです。
もちろん、シフトしている人は、動揺もなければ、恐怖も感じません。
しかし、一般の人達にとっては、自分自身が大きく変革するような、ある意味チャンスであるわけです。
やはり、「 肉体こそが私である 」という錯覚をとっていかないと、本当のアセンション、本当にシフトはできないままです。
それは、他の高次の宇宙存在、高次の宇宙人たちと、交流持ちたくても、いくら彼らが宇宙船で来ることを夢見てまっていたとしても叶いません。
それは恐怖を抱えたまま高次の宇宙存在とは会えないからです。
まだまだ、人類が、「 肉体こそ私である 」 という錯覚すら取れないなら、それは単なる夢に終わるわけです。
高次の存在たちと交流もつということは、とても高波動に耐えられなくてはなりません。
単に、宇宙人と地球人の遭遇のような、単純なものではないのです。
波動があわないと、そのような時代は来れるわけがないのです。
ですから、本当に地球が進化していくということは、少し過激な事をあるかもしれないのです。
それに、地球の波動がどんどん上がって行くときに、人間も人生をストップさせて、あらためて、「 自分とはなんなのか・・ 」 という問いに自分自身で答えて行かなくてはならない時代が始まった ともいえるわけです。
高波動に人間のほうがならないと、高波動の宇宙存在たちが合わせるわけではないのです。
じっと、人類が進化することを待っている愛がそこにあるのです。
このような件がある事によって、いい意味でとらえれば、街がストップすることは、エゴ社会の停止になっているといえます。
とするならば、新しい時代が幕あけするときの、あたらしい刺激として、「 肉体は自分である・・・」 という思いを継続するか、それともどこかで肉体への執着をあきらめるのか。
このような事が、コロナの件では問われているのかもしれません。
世の中が暗くなって見えるのは、錯覚で、エゴが暗くなっているのです。
笑顔がなくなったのは、エゴが困っているからです。
恐怖を感じているのは、エゴが感じているからです。
「 肉体は自分ではない 」 という単純であり、簡単な問いに、人類は各人が答えなくてはならない時期に入っているわけです。
それは、人によっては恐怖を沢山感じるかもしれません。
しかし、人によっては、叫びたくなるような悲鳴かもしれません。
でも、それは魂では・・・・実は歓喜となる方向へと向かっているのです。
それが、実践版のアセンション体験なのです。笑
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