以前の記事で、「 信じることと、気づく事の違い・・・ 」のような記事について、とても反応がよかったので、今日は続きのような記事を書いて見たいと思います。笑
世界の90%がなんらかの宗教をはいっていたり、します。 そうです。外側に神様がいて、自分と神と分離しているわけです。
これは何処の宗教でも、教祖と自分とか、二元性の中にいるのです。
そしてアセンションの時代では、このような二元性がとても統合には不便なものになって来ているのです。 だから宗教は流行らなくなっているのかもしれません。何か重いのです。
ちょっと悲壮なペーソスが漂う感じなのかもしれません。 もう、今の時代はカラッとして、スムースです。笑
その重さは、信徒の生活では、良い意味での、気づきのシンクロニシティとは逆の、被害者意識なら被害者になれるような事がカルマとして起きてしまったりします。
これは、宗教そのものに排他性があったり、被害者意識があったりすると、それがストレートにこのアセンションの時代には、自分自身に跳ね返ってきてしまうのです。
ある意味「 災いという名の奇跡 」が起きてしまうのです。笑
アセンションを意識しているような方は、災いも幸福も、二元性の中のゲームの状況に過ぎませんから、「カルマの解放が始まった・・・・」の一言で納まってしまうわけです。
しかし、洗脳が深いと、 「 これは神が与えてくれた試練である・・・・ 」 と2000年もあいかわらず、同じ事を言い続けて、解放ではなく、我慢してチャクラにカルマを貯めこんでしまうのです。
晩年は、そのチャクラに溜まったカルマによって、病気になって、神に祈るのです。
これは大きな違いが出てきて当たり前であり、彼らから見ると今の若者たちは、自由でワガママで、品性がなく、自己規律もなく、堕落した者に見えるでしょう。
なにせ、なんでもかんでも試練であり、神がいて試練だらけになって、それに耐え抜いてこそ、人間として認められるという、ヘンテコリンな観方になってしまっているからです。
こうなると、世界中は狂って見えるはずです。 今の若者の自由な笑顔も、明るいオープンで軽い波動も 彼らにはわかりません。
忍耐のかけらもない不信心の悪魔にしか見えないかもしれません。笑
神を信じれば、無限になれる と宗教は謳います。 しかしほんとうでしょうか?
逆に世間の観方をせばめて、無限ではなく、小さく、小さくしてしまっているように感じます。
なぜなら、信じれば、信じるほど、「 これしかない。 これだけが正しい、これこそが真実だ・・・・」 という狭い、狭い、世界に押し込んでしまうからです。
「 あれも間違い、これも間違い、これも悪魔の罠、これもしてはいけない、これは罪・・・・」
となってしまいます。
けっして、「 これも正しい、 あれも正しい、 あれもいいねー、これもいいねー 」 とはなりません。 じゃなければ、宗教戦争をいまだに繰り返してないです。笑
結局、この信じるという事と気づくことの違いをもっと哲学的に言うと、「 信じる事は有限なのです。 そして気づく事は、無限なんです。」
無限で完璧であろうと理想とする世界を信じたかったのです。
しかし無限を信じれば、信じるほど、狭い世界に入ってしまっているのです。
信じることは、99%では許してくれません。100%の信仰を目指すのです。
しかし、それはありえません。 なぜなら、信じようとしているその張本人がエゴだからです。
そしてエゴそのものが幻想の産物であるからです。 幻想のエゴが何かを外側に信じることで、自分という幻想が救われたい・・・・というのが真相です。笑 面白いですよねー。笑
なぜなら、不安だからです。
つまり、今まではエゴが、自分なんて、自分にはまだ足りない。自分にはまだない というエゴの声を真実と思い込んでいたのです。
ですから、どうしても杖が必要だったのです。つかまる柱が必要だったのです。
安定したものが外側に必要だったのです。人によっては神ではなく、お金かもしれませんし、学歴かもしれません。社会的地位だったかもしれません。
そのような信じられる杖や柱が必要だと思ってきたのです。
しかし、地球そのものが自分だったら、宇宙そのものが自分だったら、杖や柱は必要ありません。
そして、別の角度で話せば、この世界は栄枯盛衰があり、状況はどんど変化していくわけです。今良くても、悪くなって行ったり、悪くなっているようで良くなって変化したり、いつもコロコロ変わるのです。
それでなくても不安定の中でなんとか人間はコントロールしようとして、良い所だけを追い求めて行こうとするからです。
その瞬間、瞬間マインドは動きます。さっきまで信じてい居た事が、ひっくり返るような事がいつもいつも起きるのです。
そして彼らは言います。「 まだまだ自分は信仰が足りない・・」と。笑
しかし、所詮、無理なのです。不完璧な幻想のエゴが、一生懸命に信じようと努力しているにすぎないのです。
つまり、幻想のエゴが、この幻想の世界をコントロールしたいとおもって、レールを定めることが信仰であったり、信心であったり、信じる事であったりしたわけです。
それでも稀に、不動のように信じてやまないような、一本気な性格の方もいます。
しかし、もしそのような一本気の方がそのように不動になれているとしたら・・・理由がバックにあります。
それは「 これが正しいと信じてるいるからです。 」 つまり、外側の神を信じるまえに、正しさを信じなくてはならないのです。
つまり、宇宙では間違いも正しいも中立で無いにも関わず、正しさを尖ったナイフのように、シャープにシャープに信じている姿が不動のような信じる姿勢のバックにあるのです。
この正しさを信じる心は、天使にも悪魔にもなります。 オーム真理教の信徒は、正しいと信じたから毒を地下鉄に放ったのです。
正しさだけを信じると人は、心が尖ってしまうのです。
つまり、正しさと間違いはセットであり、今の時代は正しさもなく、間違いもない という統合した世界に向かっているのに 正しさの追求は、ある意味時代と逆行しているわけです。
このように、幻想であるエゴが、信じようとするわけです。
そうなんです。「 信じようとする気持ちは、エゴが安心したいがために、外側に依存している、、、他人軸でで有限の世界・・・・」 なのです。
逆に、気づきというのは、自分が神であることに気が付いて行く事なので、気が付けば、気が付くほど、無限の世界に入って行けるのです。
つまり、今まであれだけ、外側を信じても、信じても得られなかった事が、逆に気づきによって得られるということなのです。 その違いは安心感かもしれません。
それを体験するのがアセンションなのです。
なぜならば自分が神である事を思い出せることが、気づきの道だからです。 神は = 無限だからです。
外側の幻想の世界を無理やり信じることをやめて、気づくことで、確信になるのです。
ではなんで、そんなに信じる事が楽しかったのでしょうか? ここで考察してみます。
それは、 「 目に見えない、手で触れない、 あるかどうか証明できない事に価値がある と多くの地球人が信じてきたからです。 」
愛がどこにあるか証明できますか? 愛を見せてください。 愛ってカタチがあるなら見せてください。 理想って目に見えますか? 希望はどうでしょう? 手で触れますか?
このように、手で触れない、あるかないか証明できない、見る事もできない、ものを信じようとする事で、証明してみたい という人類の気難しい挑戦だったのです。笑
このように、あると証明できないことに、真実がある というのが信仰する人にとっての気概だったのです。 「 目に見えないことを信じるからこそ、価値がある 」 となるわけです。
それは、それで、ディセンションの時代には、とても楽しいゲームだったのです。
ですけど、逆手に取れば、逆に目に見えない、手で触れないから、簡単に理想化して、洗脳できたのです。
このように信じようとしても、信じ切るように努力してきても、信じ切れなかった有限な世界、不完璧な世界を楽しみたかったからなのです。
それが悪いわけでもなく、今まではそれを楽しみたかったのです。でもアセンションを迎えて、すごく重くなりすぎてしまってきたのです。
そうです。いくら行っても、いくら行っても、いくら求めても、いくら求めても、いくら求めても、いくら信じても、いくら信じても、 どこを探しても、どこに探しに行っても、見つからなかったのです。
そして、どこに行けば、自分が信じられるようなものがあるのかを探し続けてきたのです。
だけど、いつもいつも裏切られるのです。信じられるようなものが、信じられるような場所が、どこに行っても、見つからなかったのです。
そうなんです。信じよう、信じよう、求めよう、求めようとする心こそ、「 エゴ 」 だったからです。これが有限の中の遊びの時代だったのです。
しかし、もう時代は無限の中の完璧な世界に突入して行っているのです。
そう、それはとても人類には明るい世界なのかもしれません。
それは自分の中にある光です。外側にはなかったのです。
それをアセンションというわけです。笑
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