このテーマは、何回、何十回書いてもまだ、記事にしても良いと思います。
そのくらい、この地球では愛というワードは一般的に重要なのかもしれません。
それは既存の正しさを押し付けるような、狭い愛ではなく、アセンション時代にふさわしい感覚を体験できるような準備に入っているように感じます。
この記事は、ごく身近なところでは、愛の在り方について普通の人達と自分ではだいぶ違うとか、愛せない、または愛し方が解らないがゆえに、自己嫌悪になっているような方もいらっしゃいます。
それは、子供との接し方だったり、親との関係だったり、ちょっとして気を使う部分だったり・・・・しかし、もしスターシードである人の場合、大変苦労されてしまって、勘違いしている方も多いです。
ですから、この記事が自分自身への許しとなるような気づきが得れれば、幸いです。
いつもkuは思うのですが、「 愛ってなんでそんなに重要視するんだろう? 」 というこです。
これは、愛に価値がないとか、愛が大切じゃないとか、そのような意味ではありません。
「 愛ってなんでそんなに重要視するんだろう? 」 という言葉の前に、「この地球では、」
が付きます。笑
つまり、「 この地球では、なんでそんなに愛って重要視させるのだろう・・・? 」 というkuという、スターピープルから見た問いです。もちろん宇宙でも大切なファクターです。
しかし、何が言いたいのかというと、この地球では、この愛という言葉が重要視されすぎてるような気がするのです。
なぜ、こんなにも重要視されてしまうのかと言いますと、今までディセンションの時代が長く、
エゴの欠乏感も人間にとって多くもっていたのという事と関係するとおもいます。
それは砂漠の中を歩き続けたあとの、一杯の水のように、とても貴重な感じがしてきたのだろうと思います。
ディセンションの時代にとっては、この愛という部分を深く、欠乏から眺めることで、学びというか、新たな体験をえられたのでないかということです。
つまり喉のカラカラに乾いた場所地球では、宇宙のように充満した、充足した愛ではなく、貴重にすることで、新たな発見があったのだと思われます。
たとえば、南アルプスのような綺麗な水の宝庫のような場所に住んでいる人でも、中東の砂漠ばかりような場所に旅行に行ってしまった・・・・とします。
道中に、のどがカラカラになり、ちょっとだけ濁ったコップ一杯の水でも、人からもらったとき、物凄くその一杯でよろこんでしまうような感覚です。(( 天然水のような水でなくても。笑))
これは水というのは、変わらないのですが、その魂の経験する流の違い、場所の設定の違いによって、経験するものが全く違うという例です。
スターシードはこんな形かとストーリーの違った愛の経験をしたくて出てきていることも多いのではないかと思います。
やはり、人間は、長いディセンションで、この愛の部分を拡大視して、渇望している部分があるのだと思います。これは、仏教では タンハー(渇望)ともいいます。
愛は愛でも人間同士の部分では、愛をもらう側、与える側 というような二極性になることで、熱中しやすい感動のドラマを作って来たのではないでしょうか。
やはり、感動というものが、「 これは正しいんだ 」 という観念を植え付けさせますので、自分を犠牲にして、仲間のために自分は殉死するような、ドラマは、感動していたわけです。
ここに来られる方がは卒業かもしれませんが、ドラマにならない愛は、愛ではなかったし、そのバックには、いつもいつも、その時代の「 正しさ 」 という言葉がバックに潜んでいたように感じます。
この正しさというのが、宇宙にはなかったりするので、地球の愛はこんがらがった愛になっているのです。
イスラム教の愛も、キリスト教の愛も、お互いぶつかれば、戦争に変る愛なのです。
愛の反対に、戦争や排他があったりする・・・笑、よく考えれば、統合とは逆の、分離なのです。
つまり、分離しているから、愛を与える側がヒーローになれて、与えられる側は感謝させられるストーリーを展開できるのです。
これも、ディセンションの時代には、理想的で、とても美しく見えました。そしてそのようなストーリーが真実としてこの地球では感じられたからこそ、今だに地球人は愛を語るのです。
これも分離のゲームの顕れであることは2019年ですから、お解りになるかもしれません。
このゲームは、狭過ぎました・・・・・ とてもとても分離が深かったので、狭い狭い、地球
という世界の中での箱庭のようなゲームだったのです。
しかし、その小さい世界、狭い世界だったからこそ、「 愛 」 というキーワードが、とてもとても素晴らしく見えたのです。 素晴らしく、理想的に見えたのです。
そして、物凄く感動するわけです。 そして人間は感動すると、「 これこそ真実 」となるわけです。
とはいえ、分離している感覚のエゴは、分離感、寂しさのような感覚を脱ぎ去ることはできないので、永遠の片割れのようなものに、生涯をかけて探して回ってしまうのです。
そして、その探しているものは・・・ 「 愛 」 だと言います。
「 理想の愛とはなにか・・・」という分離したエゴにとって、新なエゴが生きる活力となっていくわけです。 しかし、その根底には、不足感があるはずです。
そうなんです。今まで地球はいつも言うように、不足感から何かを探している姿だったのです。そして、理想は愛 というワードを追いかけてきたわけです。
このように、愛が真実であることは変わりないのですが、地球人の愛というのは、欠乏感からの理想にしてしまっている愛であり、統合からの愛というより、欠乏感からの夢のような美しいモノになっていたわけです。
では、高次の宇宙ではどうかといいますと、例えば、空気ってどう思われますか? と普通聞かれて、「 空気ですか?? ? 」 となりますよね。
でも、空気ってとても地球では大切なものなのに、「 愛 」 という言葉より、ごく普通に扱われてしまってます。笑
それは、「 空気に対しては、充分にある と感じているので、さしてみんなが理想にしたり追求したり、追い求めたりしていない 」ということです。笑
少し譬えが悪かったならご容赦願いたいですが、この地球では満たされているものに対してはあまり貴重にならないということです。
公園の水道の水より、天然水ののほうが価値がつけられるのと同じです。
そういう意味では、「 空気 」とは違い、「 愛 」 という言葉には人類にとっての、カルマの渇きを潤すような魅力があったということです。
そのくらい、この地球では、愛が普遍化されてないのです。平凡化されてないのです。
逆に愛に飢えている人ばかりなのです。
なぜなら、ひとりひとりが分離しているという勘違いをしてきたからです。
たから、「 与える・・・」という言葉のように重苦しくて、苦労するような愛になっていたのです
それは、人類が、「 正しさ 」とか、「 罪悪感 」とか、「過去の罪」とか、制限に満ちた幻想を信じてきてしまったので、「 愛 」が小さな場所からでしか見えなくなってしまっているのです。
宇宙では、どうなのか、先ほどのつづきを言いますと、高次に行けば行くほど、「愛」 とは
とは「 自由 」というワードになっていくように感じます。
愛があれば、溢れるほど、自由から広がって行く感じです。この広がって行くのは、広げていくようなエゴの布教ではなくて、自然に大いなる流れの中で広がって行くということです。
愛は繁栄だったりまします。 自由というは、拡大していくことと定義しても良いかもしれません。これが宇宙の高次の中での愛の体験です。
空気も愛も、同じように自由で広がって行くための大事な要素です。
愛がすべてのすべてとも言いたいですが、もっともっと、自然なカタチの大きい中に存在して、存在するものなわけです。
その風のようにきづいていも、きづいてなくても、在ってあるものなかもしれません。
それはいつもいつも緊張の中にはなくて、肩の力が抜けた場所にあるように思えます。
肩の力がぬけて、リラックスして喜んだ、楽な姿勢の笑顔の中に、もう、、そのまんま、愛が溢れているように感じます。
世の中を救済するという自分と世間という分離からの愛ではなく、緊張した愛ではなく、リラックスして喜んだ波動が、どんどん伝わってくよな波動の時代です。
そうです。もう2019年も後半です。
ですから、地球は、エゴという分離した幻想から見ていた愛であり、高次では、統合されたところから見る愛なわけです。
そして、地球人は、いよいよエゴからみて、自分と相手、 自分と周囲という分離した場所からの愛の学びが終わっていくような感じです。
いよいよ統合された自由な愛を体験する時代がきているように感じます。
来られてる方のマインドがドンドン上昇されてきてますので、ハートの時代らしく、愛
ついて少し語ってみました。笑
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