この地球では、今まで、地球内部での美しき姿というのを美化してました。

 

たとえば、清楚な姿で、質素な生活をする修道女のような人は、無垢であり、汚れていないということでもあったり、見本のような人となるわけです。

 

これは欧米ではあたりまえで、今だに神のつかいのような人は質素で謙虚で、飾らない人で、欲が無い人である・・・・という一種の正しさの根源のような見本となっているのです。

 

聖書に手をかざして宣誓をする大統領のように、カタチ上やっているとはいえ、それでも多くの国民は聖書に手をかざして宣誓することは、形式とはいえ、大統領として当然であり、それが正しさの基準なわけです。

 

 

このように、地球には地球独自の正しさの美の基準のようなものがあり、わたくしたちは日本にいながらも、そのような道徳観を、教えられてきたわけです。

 

つまり、ディセンション時代の美 とも言って良かったかもです。

 

それは、法を守るような番人であっても無くても関係なく、世間法という、世間の視線という、みえないルールがあって、その観念を多くの人が信じていれば信じているほど、常識となっているのです。

 

ただ、常識というのはいつもおかしいものなのです。

 

たとえば、原住民がいまだに住む場所では、人が裸で生きる事はその場所では正しいことなのです。

 

 

ある写真家の日本人女性は、世界各地の原住民とすぐ友達になれ、彼らの写真をとることで写真家として仕事を進めてきました。

 

その彼女の原住民と友達となる方法というのは、自分も彼らと同じように素っ裸になってしまうようです。

 

素っ裸になると相手の信用が凄く増して、この人は信用できる と信用してもらえ、信頼が築けるというのです。

 

また、古代ギリシャのように、裸こそが神の美であり と賛美したような時代もありました。

その時代に裸になることは是とされ、美とされていたとします。 

 

 

しかし、もしkuが素っ裸で、マサイ族の真似をして、新宿の街のど真ん中で、裸で踊ってしまうと、間違いなく、捕まります。笑  幻想だから・・・といっても通じません。笑

 

それは悪い事となっており、みんなが悪い事と信じているかぎり、普通なら隠したいという羞恥心が働いてきます。 

 

この羞恥心こそが、その時代の正しいという言葉が感情となって表れているようなものなのです。笑

 

そして宗教は正しさを押し付けるためにこういってくるでしょう。 「 この羞恥心があるから人は地獄に落ちる事が無いように知らせてくれるサインなんだ・・・・・」と言ってくるのです。

 

 

つまり、羞恥心はそこが正しさのポイントで、羞恥心が無くなって汚れてくると地獄に落ちやすくなってしまう。 

 

ようするに 羞恥心を感じるということは神が人間に与えた、地獄におちないために慈悲の気づきなんだ・・・・・・と言いたいわけです。笑

 

これによって人間は神の裁きに合わないように、正しく生きられるんだ という事らしいです。笑 

 

この内容は一見聞いて、そうか・・・・ となりそうになります。 物凄い説得力です。

 

これが宗教がつかう、宗教的な正しい人間、宗教教育された人間をそだてるための言葉です。

 

 

このように正しく生きる人はとても善い人で、正しくいきることで地獄に行かなくて済むんだ。と説得してくるわけです。 これには盲点があります。やはり脅しているのです。

 

地獄に落ちるという恐怖を交換条件に脅してるわけです。 

 

ですから、羞恥心がある人こそ純粋だ ということになるわけです。

 

しかし、考えてもみてください。 赤ちゃんに羞恥心なんかありますか?  あんなに無垢で透明感のある赤ちゃんは、 羞恥心なんかありません。 

 

無垢は無垢のまんまでやりたい放題です。笑

 

やはり、アセンションの時代に入って来ると、もうこれ自体も見破って行かなくてはならないわけです。

 

 

ようするに羞恥心というものが出てきたときに笑いに転換できるか・・・・ ということです。

なぜなら、笑いに転換できるということは、本気にしていない ということです。

 

つまり、この世界の中で本気にしないということは、間接的にでも幻想とわかってるからです。

 

逆に本気に羞恥心がそこにあるということは、言葉を変えれば、その部分だけ真剣に反応したということであり、真剣な反応ということはカルマがあるという場所を示していることになるわけです。

 

カルマ = 幻想と思えない部分  と定義するとすると、わかりやすいはずです。

 

 

つまり、この羞恥心はだれが感じているのか?・・・・・ということです。それはエゴです。

エゴという自分自身がいることの証明として、反応してるのが羞恥心です。

 

ちょっと難しいチャネルになってますが、深いです。 

 

つまりエゴにとっての宗教であったり、エコにとっての正しさであり、エゴが自分というものがあることの証明としての反応が羞恥心であったりするわけです。

 

ですから、羞恥心があるとか無いから良い事とかの問題ではなくて、もし、その部分を多いに笑えるようになるまで、緩めることができるということは、そこに真剣さがないわけです。

 

 

つまり、真剣になるということは幻想ではなく現実として感じているわけです。

 

逆に、笑えて緩めて見れるということは、無意識的にもそのことをあまり重要と考えていないということで、とても統合的なわけです。

 

というのも、ワンネスに近い統合されている星にいくと、羞恥心どころか、隠すこともなかったりするわけです。 意味わかりますよね?  

 

すべてがつながって、ひとつになってたりするのに、隠すことがあること自体が分離していることになるわけです。 もちろんそのようなゲームも楽しくてやってきたわけですけどね。笑

 

 

ですから、羞恥心があること自体が地球なんですね。笑 

 

そういう意味では、スターシードはとんでもない体験ができているのです。

 

かくれんぼという体験をさせてもらっているわけなんです。

 

だから、かくれんぼで見つかるとドキッとしますよね? それが羞恥心のようなものなんです。

 

ですから、羞恥心が良い悪いはないのですが、それが正しさの基準として使われてしまうことで、洗脳だったことをわかっていると気づきになるということです。

 

 

羞恥心がありすぎると、その部分だけが分離になります。つまり個 という概念です。

この個というアイデンティティこそ、エゴなのです。

 

逆にアセンションして、少しずつ、少しづつ、時代が統合に向かう事が時代の流れであるならば、個というが概念から、だんだん全体という統合に近い感覚になって来ざるをえないわけです。

 

つまり、裸族を是とするわけではないですが、 余計な羞恥心が、ご自身の中から無くなって来るとすると、それはあるいみ、素晴らしい事が起きていると思ってよいと思います。

 

 

常識やぶりのような自分に少し変化してきただけで、慌ててしまうことはないです。

 

羞恥心という正しさをキープするように感情に翻弄されることなく、ゆるく、ゆるくなっていく事のほうがとても大切なように感じます。

 

そのシフトの基準は、無理することなく、寛容に寛容に、笑って許せるような自分になって行く

ということです。 

 

成れるように努力することではなく、この高波動の中では、そのように解放に行ってしまう自分があることを許してください ということです。

 

 

その笑いが、その緩みが、多くの人にもやさしい波動を放出していくのですから。笑

 

 

 

 

 

 

 

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