これからの時代は、もっともっと自由が広がって行くと思われます。 

 

そんな中で、やはり若い世代にとってアーティストのように、自分自身をもっと表現して生きていくような そんな若者がどんどん増えていくと思われます。

 

やはり、単純作業のような仕事よりもっとクリエイティブな仕事がさらに加速されてくると思われます。

 

この創造性ということだけは、共感とか感動と共にありますので、神としての仕事の基軸の部分かもしれません。。 

 

人々のマインドはもう自由になればなるほど余計にクリエティブな表現していくことで、それが喜びとなる、自分の世界に流れていくと思われます。

 

 

単純作業のような仕事の崩壊は 正しさの崩壊、常識の崩壊と関わっているように感じます。

 

もちろん、今までの時代的には、そのような体験も ある意味楽しかったのかもです。笑

継続は力なり・・・というような とてもディセンション的な在り方です。

 

つまり、単純作業のような仕事というのは、 外側の安定と、外側の安心と関わっています。

 

 

恐怖とか不安というものの象徴としての仕事の在り方が この単純作業としてあったのかもしれません。 

 

まだ、生産活動が19世紀の時に活発なころは、工場で働く多くの人たちが単純な作業を繰り返してました。カールマルクスが吠えるのも無理はなかったのかもしれません。笑

 

それは、外側の安定と、外側の見える形での安心感によって準じた仕事だったのです。

 

 

逆に アーティストというのは、多くの方々に刺激を与えるわけです。この刺激という言葉がなぜあるのか、過激でもいいです。 なぜみんなにとって刺激なのか・・・・ということです。

 

それは、その人にとってのモラル基準、 その人にとっての正しさ基準、 つまり 「 これはこうあるべきだ、 これはこれが普通だ、 普通はこうだ・・・・」 というような基準があります。

 

その正しいという観念、こうなのが普通だという観念に、揺さぶりをかけてくるわけです。

 

だから、刺激なんです。 それは、感動という刺激かもしれません。 嫌悪感という刺激かもしれません。そして人によっては自分を壊しに来るくらいなんです。だから刺激的なんです。

 

 

どんなカタチであれ、「正しさ、こうあらねばならぬ・・・型にはまった自分・・・・」というようなものに対する挑戦状なわけです。

 

ということは、刺激を受けたということは、自分自身の中に その部分に型にハマった自分があるよ という発見材料にもなるわけです。 つまりそれに反応した という事実です。

 

ということは、刺激があるものを悪いものだ とか、過激なバンドとか過激なアートとか、過激な政治家とか、一見悪いように思えるのです。 

 

しかし、少なからず、人がそこに反応したということです。刺激されたということです。

 

 

反応したということは、そこに正しさ基準とか、モラル基準とか、自分の中でのプライドとか、勝手な好みとか、型にはまった自分など・・・規格の自分を、刺激されたということです。

 

人というのはそこからが面白くて、そのような場面に人生で出会ったとしても、自分自身で自浄作用というか、我に返るような自分にもどす反応になったりします。

 

そのときに、相手のせいにしないとならないので、「 この絵は最悪だ、この作品は下劣だ・・・」というように正当化していきます。 

 

そのように自分自身の正しさ、振り子を元に戻そう、自分で刺激された感情を元に戻そう、安定させようと、いつもの常識人になろう、いつもの自分に戻ろうというカタチに持っていく人も多いわけです。 

 

 

これが、アーティストのほうが、社会に押され過ぎた場合は、消されて行きます。没していきます。 

逆にアーティストの感化が社会に対して強かった場合は、感化していきます。

 

または、隠せば隠されるほど、民衆のマインドの何かに火をつけてしまうようなこともあります。

 

つまり、とかく自分の持っている正しさという基準の中に人は、刺激を与えられた場合、いろんな反応をしてしまう ということです。

 

 

反応してしまう、ということが、そこに刺激があったことになり、嫌な反応でも、好意的な反応でも、反応であることには変わりはないということになります。

 

 

それを発見できる ということです。

 

このブログで何が言いたいのかというと、ご自身の中でも、刺激があった、びっくりした、というような事が日常で起きたとしても、 すぐに外側に意識を向けないで、一旦立ち止まってほしいのです。 もったいないです。

 

「 なんで私は、このように思ったんだろう ? なんで私はそのように動揺したのだろう ? 」

 

 

というように自分予想外の事に遭遇したばあい、単純に外側に反発しないで、そこに自分のキーポイントが何かあるだ ということなんです。それが自分軸です。

 

すぐに、相手のせい、人のせいにするのはもったいないのです。

逆に自分自身を自虐にしてしまっても勿体ないのです。

 

 

そうではなくて、自分自身の発見の材料のために使っていく・・・・ ということです。笑

 

それは、刺激というものは、ある意味、自分が自分に対するメッセージ性を含んでいるからです。だからもったいないのです。 反応できたことが素敵なのです。笑

 

 

典型的な二元の世界のことであり、メッセージそのものが、自分と相手、 自分と他人、 自分と環境というように「世界の中の自分」 にある事柄だからです。 

 

つまり、反応するということは場合によっては、そこにカルマがあるよ というサインだっりもするのです。

 

ですから、刺激そのもののワードも二元性の中での話なんです。つまり反応そのものが難しく言えば、カルマ発動という 意味にもとれます。

 

 

もっと深く話しても意味はないのですが、真我になると刺激そのものも無いということになるわけです。 

 

 

元に戻して、今日の記事の目的は、そこではなく、あくまでもご自身の中にある見えない部分のカルマ解放という意味にあるのです。

 

ですから、すくなくても、ご自身の中の正しさ、常識、人としての今までの癖などを、このような刺激によって、気が付くチャンスであるわけです。

 

受け身のカタチで刺激をいきなり感じだというのは、発見する何かがそこにあるという風にも受け取れます。 なにもなければ刺激にならないからです。

 

 

この自分自身の中の発見の繰り返しこそが、アセンションシフトを助けます。

 

もちろん、なにもしないで、24時間を自分だけに意識を向けられる余裕のある方ならいいのですが、どうしても仕事や家事などなど、日常の業務の中に身を置くような方も多いと思います。

 

ですから、目の前に現われて、自分が刺激されたような事というのは、自分自身の内面の発見の近道でもあり、忙しい方でもできることなのです。

 

これからは、どんどん波動が騰がって上昇する中、目の前に出てくるものを単に毛嫌いしているのではもったいないです。

 

 

すべて、使ってシフトしていくことがとても大切なアナタにとってのゲームとなるのです。

 

ハイヤーセルフのサインというのは、優しいサインだけではありません。

 

どうしてもカルマ担っている人の場合、このような刺激を受けるととっさに誤魔化したり、相手のせいにしたり、解決策をさがしたり、どうしても外側をなんとかしょうと躍起になるはずです。

 

それがカルマの部分だからなのです。

 

その証拠的な経験としてハイヤーは気づかさせるためにそのような刺激的なことも起こしてきます。

 

 

もし、衝撃的なこと、刺激的な出来事、自分を揺さぶるような事にとっさに出くわしたとき、しっかり自分に軸を立ててください。

 

「どうしたら? どう考えれば?  どのように? 解決策は? 」ではなく、その刺激をしっかり感じ、それをいまここにおいて、その場で解放していくこと。 過ぎ去るのをしっかり見守っていく事。

 

そして、逃げないで、しっかり自分の正面で受け取ることです。 それだけなのです。笑

 

それは刺激がなかったら存在に気が付けなかったりします。

 

 

でも本当は、アナタの中だけの出来事なのです。

 

本当なんですよ。笑

 

 

 

 

 

 

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