この地球という世界には、この世界独特のルールがあります。 それはみんなが不愉快にならないようなルールとも言いましょうか、間違えると人に裁かれたりします。笑
これは三次元から高次元へと、変容していくとは言いつつも、ある一定の流れの中でシフトしながら時代が変って行きます。
しかし、そうは言っても、人々の気持ちはいきなり変わりませんから、不愉快にならないようなルールの中で自分を合わせることも必要です。幻想の中での調整です。笑
例えば、この世界は幻想なので、犯罪をしても罪にはならない・・・と短絡的に行動してみても、幻想の中の世界では捕まり、刑に服します。笑 逃げられません。笑
それはあまりにも行き過ぎたアイディアです。幻想の中には、幻想のルールがあります。笑
今、そのような変わり目の時に、大切なことは、それを本気になりすぎない・・ということです。あくまでも自分軸という軸があるとすれば、そちらを本道とするべきです。
そんな中で、今日は謙虚さと慢心の話です。
これは何度となく記事にしてきましたが、どうしてもエゴの世界の中で、自分自身を調教しようとするのが修行者なので、記事にまたしてみます。笑
この謙虚さと慢心を意識しすぎると、いつも気を張ってしまう ということなのです。
それでなくても、スターシードは、自分が変な目で見られないか、気にする事が多いので、
これへんの礼儀作法には、すごく気を使う方が多いです。
ワンネスに近い高次元と、地球のようなエゴ世界の違いは、「 相手の心とか、周囲の人の心が見えにくい・・・・・」 ということです。 高次はすべて繋がってしまうので、逆に隠せません。
しかし、地球の場合、「 言葉ありき・・・・ 態度ありき・・・・」 というその人の接し方というのが、とても大切になってきます。なせなら、相手を理解できないからです。
ということは、繋がっていない感じの部分を何で補うのかというと、態度とか言葉で判断するわけです。 当たり前ですが、これは宇宙では当たり前ではありません。
すべて、理解し合えるような世界の人からみると、とても不自由な世界なんです。 笑
とくに、スターシードは 「 人に悪く思われたくない・・・・ 」 という部分に敏感に反応します。
となると、どうしても 謙虚とか慢心に敏感になって、挙句の果てに、緊張した生き方になりやすいのです。
それは、人とのコミニュケーションで、学校時代、恥をかいたような出来事が、スターシードの場合あったりします。
自分では当然と思っていたことが、当然ではなく、恥をかいてしまったわけです。笑
それ以来、気になることが多く、普通の人間ならなんとも思わない、傷にもならない事が、スターシードの場合、気になって、気になって、しょうがなくなるわけです。
そのくらい、人間関係は緊張の連続であり、新参として来たスターシードにとっても、ここがお試し場となっているのです。
もちろん、宇宙から見れば、慢心も謙虚さもありません。 笑
慢心も、謙虚も 共通している部分があります。 それは 自分と相手とか、自分と周囲の人々とか、自分とそれ以外の関係性の中の言葉なんです。
つまり、「 世界の中の自分 」 、幻想ストーリーのキャラクターの心的態度の在り方が、慢心であり、謙虚であります。 どちらも、結局、幻想のストーリーの中の態度の話です。
アナタが、映画みてて、その映画の主人公が、会社社長で、謙虚に謙虚に商売を発展していく物語で、最後は、悪魔にそそのかされ、天狗になって、悪魔のようになり、世の中に大迷惑をかける・・・・・・というストーリーと同じです。
このストーリーの会社社長はストーリーの中の主人公であり、謙虚であったが、慢心したということです。 でも、ストーリーの中なのです。笑
つまり、エゴが自分と思っている人には、この会社社長のように、なることもあります。
慢心する人というのは、「 この世界を幻想ではなく、現実だとおもっているから・・・」となります。 現実と思っているエゴが慢心するのです。
そして痛い目に遭えば、反省します。反省しているのもエゴです。 そして謙虚になります。謙虚になるのもエゴです。
世界の中の自分というキャラクターは、自分とそれ以外がいることを固く信じており、自分と他という固い二元性の中にいるわけです。
気のやさしい謙譲するような、人に分け与えるようなキャラクターも、傲慢で偉そうなキャラクターも 幻想ゲームのキャラクターであることに変りありません。
これが、幻想ストーリーの「 世界の中の自分 」 なわけです。
もし、「 自分が創った世界 」という目で見ているなら、 目の前の映し出した世界が、謙譲する良い人ばかりの世界でも、 傲慢で偉そうな人達が映し出されている世界でも、同じ映像というだけで何も変わってません。
ここに本当の意味の謙虚さの意味があるのかもしれません。
つまり、眼のまえの自分の映像が、よろこびの映像でも、悲しみの映像でも、落ち込む映像でも、大喜びして自慢する映像でも、映し出している自分という根源は変わりません。
なにも変わりません。 ただ、映し出しているだけです。 ジャッジもないのです。
つまり、貧乏なストーリーでも、大金持ちのストーリーでも、映し出している人は映しているだけなので関係ありません。 主人公ではないので。笑
つまり、もし、目の前に映し出す映像 ( 自分の人生で起きる事、目の前に展開する人生 ) が騰がり、下がりしても、いつも変わらない態度の人がいるとすれば、もしかすると、その人は映像として見ているいるだけなのかもしれません。
ここで、もし、謙虚さは良い事と真剣に思っているのは、誰でしょうか? 慢心はいけない事と真剣に思っているのはだれでしょうか?
謙虚にいつづけて、慢心しないように、人生をコントロールしょうとしているのは誰でしょうか?
もうお分かりですね。 そうです。主人公になってしまっているストーリーのエゴキャラです。
このストーリーのエゴキャラの理由はなんとかこのストーリーを良くしようと躍起になっている張本人こそ、謙虚と慢心を気にするのです。
エゴの中でストーリー全開だからこそ、揺れるわけです。揺れるから謙虚とか慢心とか教育じみたことを強要しないと、バランスがとれないだけです。
謙虚さから慢心するストーリーに熱中してしまうのは、この地球では、お金という存在が、一番幻想と思えない部分だったりします。
どうしてもお金が関わって来ると現実と思ってしまいます。 幻想が濃いのです。
たとえば、何年も何十年もお金で苦労している人は、ストレスをもっています。それは買えない、、という日々が続いて、ストレスとなっているのてす。
そしてある日を境に、もし高収入になってしまったとします。すると、今度は慢心したり、散財したりします。
それゆえに何年、何十年とお金の事で自分が我慢してきたストレスが一気に出始めるのです。 ゆえに謙虚から慢心はあっという間に変わります。
このように、本人は幻想ストーリーである なんて思えません。 まんまとストーリーの中のキャラクターを真剣に演じているだけで、ストレスを貯めて行った結果としてそうなります。
自分は絶対慢心しないぞ と言っている人こそ慢心するのです。 なぜなら・・「 自分は絶対・・・・」のこの自分はエゴだからです。笑
このように、謙虚さも慢心もストーリーの中のストレスの反動の姿を体現しているといってもいいわけです。
だから、シフトするということは、 これを映像で眺められるような、軽い場所にいることなわけです。
そこに、慢心するキャラもいませんし、惨めに謙虚やへりくだる、偽物の善い人もいないのです。
そのとき、浮き沈みのストーリーは終わっているのかもしれません。笑
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