多くのみなさんが、シフトをされて行く中で、どうしても自分の考え方が固執している部分がシフトを妨げてしまうことがあると思います。
ある一定の方向に行ってしまう、考えてしまう、その人なりの癖みたいなものです。
いつも言う、仮面の部分とも関係あるのです。笑 気が付いてしまっている場合は治したい癖となり、気が付いてない場合は、周囲にひかれたりします。
よくご自身を観察してみると、強烈なインパクトのカルマ解放が自分におきているとき、この部分をエゴから見ると剥がされるように感じるはずです。
これは性格 という言葉でかたずけてもいいんですが、性格というのはエゴの観念なだけです。ですから、気づいて行けば、この解放の時代ならどんどん変化させていけます。
どうしても譲れない固執する何かだったり、いつも考えてしまう自分を不幸にしてしまう観念だったりします。
それは自分にとっては、正しい何かで、とても大切にしているものです。
この性格のようなものも、このアセンションの時代では、ゆっくり剥がされて行きます。
自分の性格というものが、だんだんまろやかになったり、穏やかになってきたり本当にそうなりつつあるのです。 それは本来の自分に戻って行く姿でもあるのです。
それはご自身が一番とても強く、感じて、喜びとともに、体験して行ける事なので、だからシフトはやめられないのです。笑
この狭いカタチを創っているのが、罪悪感だったりします。
罪悪感は、いけないことなんだと思っているわけです。
いけないことなんだということは、正しい事と間違っていることがあって、間違っている事なんだと思い込んでいる・・・という事なわけです。
ということは、間違っている事があるということは、正しさがある気持ちがご自身の中に 隠れているわけです。
つまり、ある一定の自分の中に正しいという基準があって、それに満たないと気持ちが悪いわけです。笑 その物差しが消せないで苦しんでいる姿なんです。
ある一定の正しさの基準の内側にいたいという自分に対する、抑制なわけです。
本当はその物差しが無いんだということに気が付けばいいのですが。。。笑
問題なのは、その自分にとって、「 それはマズいだろう~~ いけない事だ・・・・・」 という基準が、狭ければ狭い人ほど、真面目な人になるわけです。笑 日常での倫理基準感覚です。
この心の流れは、全部、幻想です。 幻想ゲームの中の心の流れです。
この流れの自分独特のスタイルがある意味、社会に対応する自分の性格というわけです。
しかし、問題なのは、前も言ったように、常にこの正しさを基準に、人生をコントロールしていこうとするわけです。
そして、その自分の当然の正しい基準に当てはまらない人を裁いたり、嫌ったりして、分離を押し広げて来たわけです。
ですから、正しさの基準が多ければ多いほど、ワンネス的な緩やかとは逆の人生を歩めるわけです。
このようなに、 正しさという物差し 」に真面目な人はその物差しに沿うように、沿うように、生きていくわけです。
しかし、そのような生き方そのものが幻想を真剣に生きちゃっているので、自分が真面目でも
自分の内面の深く眠ったカルマは正直に現れてきます。
それは、目の前に自分以外の現象として現れることが多いのです。
「 なんで私はこんなに真面目に生きてきたのに・・・・○○は・・・・・」 となるわけです。
○○は・・・・の中は、子どもでも、旦那でも、親でも、入れられます。
それはご自身の中が 岩盤のように 正しさが壁のようになっているので、外側に自分自身の内面の姿が、現れてきていることを今度は認めたくないのです。
てすから、周囲の人が、その人の正しさの奥にある心の風景を 映像化するように、カルマとしてい現わしてくれているだけなのです。
不良的な人があらわれたり、子供がグレたりしてくれて、ご自身の中にある極端に隠してきた何かが、目の前に、駄々洩れしてくるのです。
そして、「 どうして、こんなことになるんだあー 」 と、びっくりして慌てるわけです。
ディセンションの今までの時代は、分離が激し過ぎて、それが自分の内面によって起きた事だとは、認められなかったので、人とのトラブルが多いのです。
相手のせい、人のせい、被害者、加害者 すべて 目の前の自分の内面の一部がカルマとして出てきただけなのです。
つまり、人のせいにできるくらい、分離が激しかったのです。 笑
かといって、人のせいにしないで、自分のせいにして自分自身を責める人も分離です。
やはり、自分を責めるというのは、正しいという基準がやはりあって、その正しい物差しからみるとズレているとおもっているから責められるのです。
真我の自分は裁きません。 自分で自分を落ち込むように裁いたり、自分を責めているのはエゴです。
つまり、裁いたり、責めたりしながら、エゴである自分の至らなさを強化しているのです。
エゴである自分を褒めても、けなしても、エゴの存在感は大きくなりますよね?
要するに、内面で分離を大きく開いて行ってしまうのです。
だから、自分を責めたり、裁いたりしているのは、エゴが強いということにもなります。
このように、外側に真面目になるのも、正直に自分を責めるのも分離を大きくしてしまいます。だから、ディセンションの時代は、いつも、いつも緊張していたのです。
外にカルマが出ても辛いし、今度はその緊張をほどけないので、自分を責めると尚、分離がひろがって、辛くなります。
釈迦が、人生は苦である と 2600年前に言った意味がわかるような気がしませんか?
もちろん、これからは苦じゃありません。 解放の時代だからです。笑
そして、この高波動の中で、増々、もし、極端にエゴで、人生を今までのようにコントロールしようとしたとします。
そうなると、緊張してしまっていた部分が露見してくるのです。 ただ単に、露見しているだけなのです。隠して、隠して、見たくなかった部分です。
つまり、ご自身の中にある不良の部分です。 意味わりますか? 真面目も不良もありません。
しかし、思っても見なかった自分の不良な部分が、もし、表面に出てきて生活の中に、露見してきたとき、エゴの真面目という物差しはパニックを起こすのです。
それが、外側に、目の前の人のとして現れれば、裁いたり、悲しんだり、被害者になったりします。逆に、内面に出れば、立派な罪悪感を持ちます。
さらに、罪悪感から反省するという行為があるのは、不良の自分の部分を認められないエゴが、自分を教育し直すような行為が反省という行為でしょう。
いつも真っ白な紙にならないと、気い入らないのがエゴの特徴です。
真面目はいいことで、不良は悪い事と 考えて行動すること、思えることで、そのような現象になるのです。笑
つまり、真面目な人が、自分自身の自由なマインドを抑え込んできたストレスが不良ということになって出てきちゃうのです。笑
つまり、真面目であっても、不良であっても、幻想の外から見ると、意味がないのがこれでお判りいただけたでしょうか?
不良という役割、真面目という役割。 これが性格というエゴのキャラクターの理由です。
自分は不良だ 問言い聞かせているからそこから出れないんです。なんとか出ようとしてるから出れないのです。
この真面目とか不良の基準は社会から見ての自分なので、社会に従順に生きることが良い事という、幻想世界の倫理基準があるのです。
ということは、真面目であまりない人、不良までいかなくても、倫理基準がない人は、恐れがあまりない人とも言えます。
恐れがあるから、真面目でいなくてはならない自分がどうしても正しく感じるはずです。これが性格という観念を創っているのです。
恐れを沢山もっているから真面目になれるんです。 恐れがあまりないから真面目になれない・・・・・極端な言い方すれば、そうなります。
ですから、不良というのは、ある意味ワクワクを実践してしまう癖があるわけですから、倫理基準より自分の内面の基準に合わせているとも言えます。 これは極端な話ですけどね。
なにが、この記事で言いたいかというと、悪いとか、不良という、言葉に短絡的な反応しないで、それも善し というくらいの余裕があると、もっとシフトできますよ ということなのです。
世の中や、社会や、いろいろ自分の中で洗脳してきた部分を 一旦フラットにできる人はシフトが早いのです。
そこに、いつまでも、いままでの自分の考え方や、正しさの基準を抱えていると、いざ、カルマとして噴出してきたときに、動じてしまうのです。
ここの部分が統合していくための、とてもポイントの部分なんです。笑
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