シフトしてくると、昔で言うところの「 何も考えてないような人・・・」になってきます。笑
昔だったら、緊張感高まる大人が出てきて、「 こうあるべき・・・ 」という規範を押し付けられて、あっという間に、何も考えてないような人は 劣等生にレッテルつけられそうです。笑
ところで、あまりニュース見てないのですが、先日、萩原健一さんが亡くなられました。 若い人には縁のない方だと思いますが、芸能人です。( 芸能界のあだ名がショーケンです)
令和という時代の前に亡くなるなんて、最後までディセンションのスターだったなあーと勝手に感じました。
昔、下北沢で一度見たことがありますが、カッコよかったです。笑
kuのように昭和の人にとって、ショーケンこと萩原健一という存在は、日本のローリングストーズ的な人に感じます。←意味わからなかったらすみません。笑
反対にタイガースの沢田研二がライバルですが、かれはビートルズ。ショウケンはストーンズ的な売り出し方で、沢田研二が良い子 ショ-ケンが不良と という二大スターといったイメージしです。
晩年のショーケンの日常をテレビのドキュメントで観ましたもが、少し罪悪感との闘いのように見えました。それは世間からの視線をしっかり受け止めているようでした。
ディセンションの時代では、不良にとって、真面目に生きている達からの要請は厳しかったのかもしれません。
ショーケンという人は、世間的にも四度の結婚、または刑事事件など、いろいろ起こしてますが、それを起こすくらいエキサイティングな人なので、ワンネス的に見れば、合格どころか天才筋です。
しかし、彼のマインドは世間の常識に押しに、押されていたように感じます。
強烈な個性というのは、強烈な思い込みや、強烈なワクワクがあるからこそ、才能を発揮します。それが、今の時代のマナーに反するようなものであってもです。
つまり、光りが強烈にできる部分には、必ず、その光の影ができるのです。
太陽が燦燦とふる広場に、大きな塔を建てたとします。 その塔が大きければ大きいほど影も大きくなります。
この世界は、二元の幻想の世界ですから当然そうなります。
良い悪いはないのですが、その時代の普通に生きる人々には、極端な刺激を与えてしまいます。
彼らは普通に生きることを善しとしています。 その根底には恐怖があって動けないのです。
しかし、ショーケンのような不良イメージの人の才能は、普通に生きている人が本当はやってみたいようなワクワクな事を、あっと、いとも簡単に演技の中とはいえ、やってのけます。
これが、彼らを脅かします。
そして彼らの多くの波動をショーケンというスターは、ある意味罪という幻想で受け取ってしまったのかもしれません。
世間の常識にコンプレックスをもった彼は、自分自身を欠陥的な部分がある と思いこんでいるようでした。
これは、スター故の悩みかもしれません。
彼の心には、真面目になりたい、ワクワクを抑えなきゃ、世間から普通に見られたいという、普通に生きる、真面目に生きられない・・というようなコンプレックスがあったように感じます。
60過ぎてから、持病はあったとはいえ、毎日3時間かけて、家から歩いて、お遍路みたいにお寺に通って、お経をあげている彼の姿が、ドキュメントの映像の中にありました。
自分の人生を悔いている、人生を後悔している、人生に反省している姿がありました。
しかし、それも実は幻想なんてす。 アセンションの時代ですから。
彼の使命というのが、なんとなくあるとすれば、ディセンションの時代の若者に、「 傷だらけの天使 」というショーケンの傑作のドラマのように、 若者に自由に生きる という夢を与えてくれたように感じます。
デビットボウイも無くなりましたが、 彼の歌の 「スターマン」という世界的ロックの名曲の詩は、このような詩です。
当時の若者達に、宇宙とかスターピープルとか、モラルに閉じこもるな といったメッセージ性があって、若者の心の解放をさせています。
何時だったかはわからないけど
光は薄暗くなってたよ
僕はリラックスしてラジオを聴いてたらある男のレコードがかかってて
そいつはこう歌ってた
"ロックン・ロールにもっと魂を"って・・・・
このように、宇宙からのメッセージのように、当時1960年代に、若者に束縛からの自由という事を呼び掛けてくる、宇宙からのチャネリングメッセージのような 詩です。笑
このように、少々、荒っぽい、ショーケンやデビットボウイらは、当時、自分ができる才能を発揮することによって、世の中のアンチテーゼを示したという、すばらしい役割だったと思います。
このようなアンチテーゼのような人がいないと、若者たちの美しき魂たちは、常識というエゴのレールに洗脳されて、イエスしか言えないようなロボットになる人か沢山いたと思われます。
それを彼らのような人々は、自由というものを自分の身体をつかって体現してくれたのてはないでしょうか。
しかし、ショーケンの話にもどれば、彼らのような活躍であっても、ディセンションの今までの時代は許してはくれないのです。 親戚とか親類とかから見れば、芸能系の不良なわけです。
本人も、それがとても、とても心残りになって、改心したいという気持ちがあったようです。
このような心境は、自分の人生をエゴの幻想とは思ってません。 ですから、なんとか自分の人生を自分の思ったように良くして行こう というコントロールをしているわけです。
宇宙的に見れば、最高の活躍で、罪も罰も、不良もなんにも無いのにも関わらず、どうしても何か新しい自分に成り変わりたい という気持ちは捨てきれないわけです。
成り変わりたいとか、普通になった自分になりたいとか、この欲望がこの世界を創っています。常に、今の自分じゃないものを求めているわけです。
この成り変わりたいというのを止めて、「 今この瞬間 」 に居続けていくと、アセシンョン的な日々になっていくのです。
ショーケン本人の意志とは反して、彼の魂の役割はあったでしょう。
ディセンション時代の若者に新たな、解放を影響させて去って行く予定だったのでしょう。
そして今からは、違います、新たなる感覚は、何かに成り変わらなくても、そのままで、自由が認められているような時代が来てしまったわけです。
昔のショーケンとかデビッドの時代は、モラルとのある意味闘いでした。いつも基準には正しくいきるという、不確定な世の中の風潮としての正しさがありました。
そこにショーケンのような、自由で当時から見ると不良な生き方が、カッコよく見えたわけてす。
なぜカッコよく見えたのでしょうか。 それはテレビ見ている若者の自分が自由でなかったからです。
世の中、家庭、学校など、幻想である「 世界の中の自分 」にいると、そう感じていたからです。
一瞬、一瞬のそのときの判断でさえ、人の押し付けや、教育による洗脳された判断ではなく、
そのとき最高の自由の表現をしてみたいという情熱が、ショーケンなどから感じられたのだと思われます。
何かに成り変わるのをやめられる時代がきています。
そのくらい自分の人生に自由と自信がでてくるような時代だと思われます。
いよいよ始まった。ということです。
それは、昔は、自由というものを体現してくれた、テレビの向こうのスターたちが叫びたかったことかもしれません。
それがいとも簡単に、自然体で手に入る時代となりつつあります。
このアセンションの時代は、自由を手に入れるのに、カルマ、ストレスなんか無用の時代になるくらい、進んで行くと思われます。
それは世の中のモラルと戦って獲得してこようと叫んでいたディセンションの時代の自由・・・・・・・・
それが今の時代では、可愛そうになるくらい自然な事として、現代の子供達の時代は進んで行くようです。
つまり、自由であるのに、苦労はいらない ということです。笑
すばらしい時代です。 ショーケンが亡くなるということは、その象徴なのかもしれません。
今この瞬間の自分のまま、ありのままで、生きる という とても自然体な生き方です。
成り変わりや、理想になる という根底には、 世間から見られて・・・・どう思われるか?というエゴ独特の、「 世界の中の自分 」 という観念が入ってます。
世界の中で自分がどう思われるか? という事自体が、幻想なわけです。
しかし、ディセンションの時代の中で、ショーケンなど彼らのような人でさえ、正しいとかモラルとかに拘ってました。 ほんとうはこだわる人でもないと思います。
しかし時代は許してはくれなくて、逆に洗脳されていってしまいました。
しかし、このアセンションを設定してきた人生の私達は、それを見破って生きて行ってます。
その観念さえ、わたしたちスターシードやインディゴ系チルドレンはイノベーションをしてきたのです。
考え方をリフレッシュしてきたのです。それは自分達をほめてあげてもいいのではないでしょうか。
当時の若い頃の彼らの自由の叫びは、今ではもう白けてしまうくらい、自由が蔓延する時代になりつつあります。
ショーケンがマインドで叫んでいた自由も、もうとても安いものに変ってしまうくらい波動上昇してきてしまったのかもしれません。 彼がもう叫ばなくても・・・・。
それは、この新しいすばらしい時代がくれた、私達への恩寵ではないでしょうか。
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