みなさんにとって、人生って重要ですか? という簡単な問いです。このシフトの流れの中で、
これってとても大切な問いかもしれません。
「 kuさん自分の人生が大切だと思ってない人なんかいるんですか? 」と聞き返されそうです。笑
しかし、自分の人生を、映画のスクリーンに映る、映画のようにシフトされて、だんだん外側から見れるようになると、実は人生の重要視が薄くなってくるのです。
ですから、エゴに「 こんな調子でのんびりして本当にいいのかしら? 」 と急き立てられるのです。つまりエゴは緊張した人生を強要してくるわけです。
しかし、シフトは逆なんです。ゆったりしてきます。
それはまるで、ダイハードの映画の中の主人公が映画の中で、自分の奥さんと仲間を助けようとして、必死にアクションしているのは、主人公にとって奥さんを助けることが重要だと思ってます。
しかし、映画を見ている、客が自分ならば、次、主人公が何をするかに興味はありますが、主人公の人生そのものには興味ありませんよね?次はどう楽しませてくれるか?程度です。 お菓子食べながら見ているくらいですから。笑
自分の人生は自分ものだという、執着をしすぎている度合いによって、映画の主人公になりすぎてしまうのです。 それがエゴが強かった自分の時期だったということです。
「 自分の人生が物凄く重要だ・・・・ 」とか、「 一瞬、一瞬未来を見据えて、こうして行かなくてはならない・・・・」とか、「 過去のこのような事を修正していこう・・・・」 など そのように普通の方々は考えながら生きているはずです。
それは、幼い頃から教育されて、とても大切な考え方であり、真剣に人生を考えたり、構築したりすることができないと、周囲から成長しきれてないといったレッテルを貼られました。
つまり、人生について、真剣に構築することをいち早く教えられるのです。
正しいレール、将来有望なレール、周囲から羨ましがらるようなレール。
または、人生を自己実現していくという力強いレール などなどです。
しかし、どれをとってもしっかり人生を自分で構築することを是とさせなくてはなりませんでした。 人生を真剣に考える人ほど、有能であり、優秀な人だったわけです。
その場限りで生きる行き当たりばったりの人生とか、その日暮らしとか、将来を考えない人は
フーテンの寅さん扱いだったはずです。
「 道から外れた人生・・・・」という言葉に多くの人々は敏感に反応したはずです。
この観念は真面目に生きるというテーゼを示しており、そのアンチテーゼは社会が、親が、周囲が許してくれなかったのです。
そして外れるような事があれば、罪悪感を持つようになります。
どうにかして自分の人生を真剣によくしていこうと、コントロールしてきたはずです。
毎日毎日の生活の中で、このような過去から現在そして未来を眺めている自分がいるとして、どのくらい人生を重要と思っているか? 自分の人生を大切に思っているか?
そのような方は、人生について真剣に考えたり、真剣に行動したり、他の方々の人生にも真剣に充実させようとアドバイスすることが、もっとも大切だと考えて来たわけです。
言葉を変えると、人生は有限である。有限で、人生は短いので重要性を持たせることに意味があったということです。人生は短いから真剣に生きるんだ。ということです。
ここに人生は永遠とか、無限というキーワードが出てきたとき、あまり人生の希少価値がなくなってくるわけです。 エゴというのは希少価値がないものに対しては真剣にならないのです。
ただし、ここからは、この解放の時代、アセンションの時代には、人生の重要度というのがあまり大切で無くなってくるのです。
ある意味、フリーターとかニートの方々は、そのような大切でなくなってきてしまった方々なのかもしれません。 これは社会の常識、社会人としての在り方が根本的に変わる事を予感させているのです。
つまり、「人生の重要度 」ではく、「 人生の軽視度 」の時代に入りつつあります。
これが実はシフトである とも言えるのです。
「 それって人生って重要ではないんですか? 」 とまだ考えている人が悪いわけではなく、
全体的に見ると、流れそのものが、軽視しても生きられるような時代に入って来ている。ということです。
そのような方々は、まだストーリーの中にいきており、エゴ、自我としてその役割を果たしたい
という願いから、重要と思えるわけです。 それはそれでOKです。笑
この重要という視点はエゴの視点でないと持てないのです。 それは悪いわけではないですが、どうしても重要視しすぎるが故に、そのストーリーの渦の中で、物凄く大変の中に生きてしまうということです。
それは、ストーリーに重要視すれば、するほど、深く、現実感があるようになるので、いろんな事件を引き起こすのです。 泣き、笑い、苦悩し、快楽になり、四苦八苦の洗濯機を動かします。
深くまだ生きているということになるわけです。
ところが、ストーリーがストーリーとして幻想としてでしか見れなくなってくると、人生の重要度というのが無くなってくるのです。
このように、人生がシフトすれば、するほど、幻想感覚がわかってきて、人生に重要度が薄く
なって来るということです。幻想感覚=軽視度 なわけです。笑
なぜ、シフトしていくと、重要視から軽視になるのか、ということですが、死への恐怖が無くなってきているということです。 死という人生を限定的に考える観念が無くなって来るからです。
そして、その奥にあるのは何なのか? 死の恐怖が薄くなる、奥にあるのは、「 永遠 」というワードがシフトすればするほど、現れてくるわけなんです。
この「 永遠 」 というワードは昔にも記事にしましたが、人類にとっての最大のテーマなんです。 「 永遠と不老不死 」 というテーマです。
シフトがなぜ、すばらしいのかというと、人類の永遠のテーマであることが、簡単に手に入ることなんです。 これが、真の意味での 「 安堵感 」 と変わるのです。
つまり、逆に、安堵感とか永遠とかというワードは、エゴには手に入らないのです。エゴは死によって消えることを自分でわっているからです。
しかし、真我やハイヤーとつながっている本質的な自分は、永遠であり、不老不死であり、実は安堵感の中に昔も今も将来もあるのです。
エゴである自分は、それを感じられないので、それを探し求めたいがゆえに、真剣にいきてきたわけです。 エゴにとって人生が重要じゃなかったら、真剣になれませんよね。笑
この真剣さによって、エゴがしっかりしたアイデンティティを持ち、それを遂行することで、家族がよろこび、社会もよろこび、会社も喜び、周りの人々も喜んでくれたのです。
それは、当時は完全に正しい事であり、それに反すると道徳的に矯正されたり、人として意見されたりするうちに、カタチとしてではなく、自分の中の誠実な真心という深そうな部分まで、真実として思い込めていたのです。
それによって自分に自己肯定感を持てたり、感動というここでしか味わえないものも体験できたり、していたので、それ自体は新しい試みだったりしたわけです。
しかし、この人生の重要度ということが無くなって来たということは、反対側に永遠性というワードがチラついてきたということなわけです。
この永遠性ということで、みんながみんな永遠に生命があるということを理解したら、ほんとうにこの人生に対して、重要度を持たなくなってくるのです。軽視するようになるのです。
「 気軽にいきられるようになる 」 ということです。 このように転換期に入ってきているということです。そして自分を転換して行くと楽に生きれるということです。
いつまでも重要視、つまり今でも尚、強くエゴ幻想ゲームの中に生きていると、それも悪くはないですが、そうとう苦しいはずです。
まだ、今の段階で、手放さなきゃいけないのを解っているのに手放せない人は、この人生に重要味をいまだに持たせている ということなのです。
それは、カルマの連鎖の中で自分を回転させているということです。
なぜかというと、人生で重要味を持たせているマインドがあるからこそ、重いものがやってくるんです。
また重いものがやってくるとしたら、人生の重要味を手放させようとして、軽くさせようとさせるハイヤーの流れもある場合もあります。
ここは物凄く重要なことなので、書きますが、人生に重要味を持たせることなんか、これからの時代は、どんどん必要無くなって来るということなんです。
これからどんどんシフトすることによって、根底にある下敷きのような板が外され、さらにさらに軽やかになってきます。まるで魔法のように・・・・です。
昔あった、魔法使いサリー ちゃん ←古すぎるかも。。wwじゃないですけど、ちょっと魔法の杖のようなものを ササっと振って、「 テクマクまやこん 」じゃないですけど、キラキラキラと杖を光らせ、 「 ポンポン 」と何か出てくる。
この ぽん ぽん ぽんっ と、こう軽く、軽く 実現してしまうような、簡単に人生を渡り歩くようなwwwwww 笑
このように、 ぽんぽんぽんっ と、軽く考えていくことに抵抗ない人生。笑
そんな気軽なマインドが、許されてしまうような、時代の始まりです。笑
宇宙からど真ん中・・・波動 ↓ 笑
昇龍・プラチナ龍・・・・春ですね~ ↓
呼吸式瞑想・・・・ ↓ 久々に 笑
あっけらかーんkuです。 スズケン放送局 ↓
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