まったく新しい時代の感覚というのは、時代とともに、徐々に自分の中で変化していきます。
人と自分との関係性にもあらわれていきます。
今までは人がいて、社会があって、会社があって、「 世界の中の自分 」という設定の中に自分がいるような気持ちで、自分自身を置いていたわけです。
そこには自分と他という設定が常に存在しており、緊張というワードがあることで、より分離感があったのです。
人に奉仕するということは、人がいて、自分がいて、社会があって、初めて成り立つ言葉たったわけです。
このような場合、一つ間違えると、奉仕が自己犠牲となり、傷ついた個を大きくしてしまうこともあったのではないでしようか。
それは、ひとつになるための奉仕ではなく、自分という個を使って犠牲にして相手に利を与えよう といった構図です。
これは出発的に自分という個に傷とかカルマとか問題の感覚があり、それを他人に尽くすことで埋めようとするといった「 あがない 」です。
これは形を変えた、エゴが強く表れた形になっており、自己犠牲を良しとして、エゴがストレス発散するような、自己の存在感を強調するために活動している格好です。
ですから、最終的には、自分というものが大変なことになり、特に今のアセンションの波動上昇の時代にはこれだと相当キツイ経験となるってしまうかもしれません。
本当の在り方は、そうではなく、これからの時代はワンネスのという愛の循環の中での奉仕ということになりつつあります。
それは、人と自分との距離がどんどん薄くなってくるということです。自分の喜びが波のように即、周囲の喜びとなるような伝達をしていく・・・・ということです。
これは自己犠牲や感謝という言葉にも影響があるかもしれません。
自己犠牲というのは、相手があって、自分とは別という分離感があったから、成り立ったわけです。
また、感謝というのも相手というストーリーの中の分離した相手という設定があったからこそ、そこに「 なにかしてもらえた 」 という感覚から相手に対する思いがあり、感謝となるわけです。
このように、自己犠牲や感謝のように分離感の中でのワードでも、いよいよワンネスの意識が高まってくると、必要が薄くなって来るのもかもしれません。
もちろん、それまでは過渡期ですから、必要な場合もあります。
しかし、どんどん行動で何かをすることが与えるという奉仕の意味ではなく、基本的にエネルギー増殖による周囲への感化力 という感じになるのではないかと思われます。
つまり、与えるということ、一つにとっても、自分の喜び、即相手の喜びのような、自己拡大ができる感じがするような 感覚への進化です。
これって、人類にとって、凄いことであり、この感覚が人類全体までひろがると、世界平和どころではなく、確実に世界全体がまとまってきます。
そうなると、高度な文明としての地球ということに近づいていくわけです。
これはあくまでも、感覚の事なので、充分に霊的に人類が進化していっている途上に出てくるので、まだまだかかりそうですが、アセンションという流れの中では そちらのほうに流れているといっていいと思います。
相手が自分自身であり、自分自身か相手であるということが、本当にわかってくると、本当の意味での自分への愛が、周囲の人々への愛に転化していくようになってきます。
自分自身に与えて行ったとして、自分自身が膨らんでいくわけです。風船みたいにです。
風船が膨んだ大きさだけ全体のみんなが膨らんでいく・・・豊かさということになります。
つまり自分も相手も彼もそれも、すべて一つの中で膨らましていくわけですから、それが繁栄ということに自然になっていくわけです。
もし、繁栄というか、豊かさというものに、人生でひっかかっている場合は、かならず「 世界の中の自分 」 という 職場の中の自分、社会の中の自分、といったようにストーリーの設定の中で奉仕なりしているはずです。 これだと疲弊しているはずです。
幻想の中で孤独に踊る姿があるからです。
すると、愛なら愛でも、 人から人へというキャッチボールのように、渡って行くように感じるわけです。 ストーリーの空間の中で、愛が渡って行くようなイメージです。
愛の無い人と愛がある人、 愛がある人から愛を必要としている人へと愛を渡してく、尽くしていく、愛をプレゼントしていく・・・・・・これは、いままでは、クリスマスキャロルのように、美徳的に感じられましたが、これからの時代は充分に愛が充満しているという立場でないと、愛の循環が始まらないのです。
しかし、これは考えると、愛がない、という立場からの発想だったり、 愛というものを渡したり、受け取ったりするというストーリーの中のキャラクター同士の欠乏感からのキャッチボールになっているはずです。
大切なのは、幻想の中の欠乏感からのやりとりではなく、ワンネス的な充分さの中での愛の増殖があたらしい繁栄の姿かもしれません。
無いから、かわいそうだから与えていく・・・・・ という欠乏ではなく、実はいつも多くの愛が循環していることに気が付いて、今より、より多く膨らんで行く、より多く膨らましていく。
その膨らましていく言動力は、個人個人の好奇心だったり、あたらしい発見だったり、未知なるものの体験だったりします。 あくまでも自分のさらなる充実、発見と関係があります。
逆に与えれば与えるほど、自分が擦り切れたり、疲れたりしているのは、相手という幻想の世界を信じて欠乏の世界から与えてるので、擦り切れていくわけです。
感謝であっても、「 世界の中の自分 」という設定の中で、誰かが何かをしてくれたからありがとう という設定が今まででした。
しかし、これからは、ありがとうという言葉自体が、人から人へではなく、その言葉自体が、全体の豊かさを膨らませていくような、より増殖感があるような 感覚にどんどんなっていくと思われます。
つまり、与えるという意味合いが根本的にかわってくるような感じがします。
全体意識の中でのありがとうという感謝の気持ちは、自分と誰か、自分と環境ではなくて、
ありがとうという気持ちがすぐに行動に変ってしまうようなパワフルなエネルギーです。
これは満たされているから与えてしまうという感じで、自分のエネルギーが130% 150%に居ることを意味します。
その喜びのエネルギーは対象がなく、自分という存在がそこにいるだけで奉仕しているという恰好です。 これが繁栄の姿でなくてなんでしょうか。
逆に、肩に力が入った与え方や、緊張の中での与え方は、「世界の中の自分」の中での与え方なので、どんどん疲れて行きます。
なぜなら肩に力が入るとか、緊張というのは、自分以外の環境や人々の存在を意識しすぎているストーリーのキャラクターの自分だからです。
真っ青な顔して、理屈ばかり捏ねて、緊張しっぱなしで、肩に力が入ってるいると、顔にも赤みがさしてきません。
武士は食わねど高楊枝のような姿でいたとしても、今の時代は全員霊能者みたいな時代なので、すぐわかっちゃいます。笑
このように与え方が、昔の時代と同じように与えていっても繁栄は難しい時代に入りました。
もっと簡単に言えば、タダでもいらないものは要らない時代なんです。
今の若い子たちは、そこが解っていたりします。 より美的にずはしいもの、より感動的なもの、これだけ情報化時代なので、ワクワクしたことは、理屈を超えて目を配ってます。
発展、繁栄していない人がいるとすると、この与え方を間違えた観念を持っている事が多いように感じます。
与え方がしっかり解っていると、その人なりに繁栄、発展はやってくると思われます。
もちろん、その人なりにです。 そしてこれから先駆者というような、人になればなるほど、この与え方の勘違いを見極めていかないと、苦しくなるかもです。
自分が楽しいことをやって波動を揚げていく。 その波動がほんとうに高くなれば、山は動いて行きます。 その山は大地と繋がってます。 そして大地は地球そのものです。
このように自分から発信したものが、より全体のためになっていくような、ほんとうの意味での幻想とはちがう、喜びの繁栄こそ、真なる奉仕となっていくのではないでしょうか。笑
それが、だんだん解って来ると、数字となって現れるかもしれません。 kuの身近でも反映している人は、 その与え方の見直しをされて、入れ替えた方々が多いです。
繁栄の霊流は公平です。 そして無私、無我な部分がある所に流れて行きます。
恐怖があるから執着してます。 恐怖があるから競争するのです。 恐怖があるから奪い合うのです。 その根底には足りないという幻想があるだけなのです。
自分を真に愛することが、周囲の人々に愛の霊流が伝達していく時代・・・・・・それは肩の力を抜いて楽な姿勢で行われる、静かな奉仕です。
すばらしいですよね。笑
宇宙船の中から・・・・ コンニチワ 笑 ↓
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