私達は、このシフトの中において、目の前の状況がとんでもなく変容していくなかで、どうしても自分をコントロールすることによってなんとかしょうという試みをついついしています。

 

つまり、自分はどうすればいいのか・・・・という自問です。

その人のシフトの流れのその人なりの段階では、やはり動揺するようなことに直面するからです。

 

もちろん、今まで、散々解放を経験されて、もうゆったりと、「 今ここ 」 という立ち位置にいつもいらっしゃるような方々は、コントロールさえもういらないことをわかってらっしゃると思います。笑 

 

 

そんな方は、おおいなる自分の大きい流れの中で、自分を流していくことに委ねることが出来るようになった人々です。  

 

「 あるがままに生きる 」 という自分自身さえ眺めて生きているからです。

 

ただ、カルマ解放の真っただ中の方にとっては、それどころじゃない状況が数週間から数か月かかったりします。 問題なのは、解放中であることに気が付いてない場合です。

 

このコントロールとは、自分の頭の中のの自分自身をしっかりさせて、ある一定の理想に向かって調整して、良くしていく・・・・ と言ったところでしょうか。

 

このような試みは、昔なら、目の前の自分の人生の出来事、事件、状況をなんとか良くして行こうと、必死に人生と絡みあって、努力してきたわけです。 つまり目の前の出来事の対処です。

 

 

しかし、自分軸を今度は目指すとなると、こんどは自分自身の内面をコントロールしようとするわけです。

 

これは、目の前の人生をコントロールしょうとするのも、自分の内面をコントロールするのもある意味同じことなのです。

 

大切ななのは、このコントロールしようとしている意識は 誰なのか? という問いです。

もうわかりますよね。笑  

 

自分自身を律することで、コントロールしようとしているのは不満足な自分 つまりエゴなのです。

 

ただ、今日は、自分軸という視点は、いつもながらなんですが、違った視点で、「 今ここ 」 ということも語ってみます。

 

 

「 今ここ 」 という永遠という時間の無い世界に入り方としては、ひとつだけではありません。

 

その一つは自分に意識を向けて、呼吸や、感覚に意識を向けたり、自分を見ている自分です。自分軸・・・・それもありです。 

 

しかし、今日話したいのは、大昔 kuも自然とやっていたことなのですが、 目の前の事に集中する そして集中を越えたとき、瞑想というか「 空 」 に入って行く という話です。

 

つまり、極端に意識を研ぎ澄まされた場面では、「 今ここ 」 に入れます。

エックハルトトールも、動画の中でタイガーウッズの話もしています。

 

イチローなんかもそうだと思いますが、極端に目の前の事に集中すると、一種の瞑想状態までになります。 これは経験された人は多いのではないでしょうか?

 

 

 

極端に 触れるなら触れる感触とか、 聞くなら聞く聴覚とか、見るなら見るといった感覚に集中することです。 すると、思考が入る隙がなくなり、瞑想状態になっていきます。

 

具体的な話してみます。 前回の記事でも紹介した道元禅師の開山である曹洞宗の北陸の永平寺の例をあげてみましょう。

 

この永平寺というは、若い修行者の強烈な登竜門のように、そうとう厳しい修行をします。

しかし、kuから見ると、「 とても良くできているなあー 」 と感心するシステムになってます。

 

まず、修行僧は、禅だけではなく、一日中修行となってます。食事、掃除、顔洗い、身支度など、ひとつひとつがkuから見ると、面白くできてます。

 

 

 

例えば、ここは朝起きると、顔をあらうのですが、 700年以上前から、井戸だろうが、水道に変る時代になろうが、 洗面器一杯の水しか使えません。

 

つまり、空の洗面器に、ゆっくり水道の水を音を立てない様に、洗面器に一杯にまずします。

 

そして、その洗面器たった一杯の水を 大切に、顔洗い、歯磨き、口濯ぎ、など、そのたった一杯の水で全部済ますのです。 それ以上の水は使えないのです。そういうルールなんです。

 

その際に水のバシャバシャした音を立てないようにして、その一杯の水を使い切ります。

流すときも静かに、静かにゆっくり丁寧に水の音を立てない様にして、流していきます。

 

修行の注意点があります。この洗う時も、水を入れる時も、流すときも、意識的に、水の音をさせないことなんです。凄いです。

 

 

この動作、この顔を洗うという所作も、ほんとうに上手くできているなあ~ と思います。

 

なにが凄いんでしょうか?これが禅の修行とどう関係があるのでしょうか?

 

それは・・・・・まず限られた水しか使えない ということと、水の音をさせないということが凄いんです。 

 

なぜ水の音を出させないことが良い事なのでしょうか? 水の音をさせることが下品とか、水の音がないほうが静寂だとか、静かな方が修行しているという感覚とか・・・・・そこではないんです。

 

以下はkuの観方、受け取り方です。

 

それは、音をさせないということは、音をさせないにしているということは、意識をそれに集中して出さない様にしているのです。 つまり考え事していると音がでちゃうのです。

 

 

つまり、集中しっかりしてないと、音が出てしまう。 つまり、音を出さないということは、意識を集中しているので 「 今ここ 」 に在れるという事なのです。

 

また、限られた水の中ですべての作業するということは、動作、動作に意識をしっかり集中してやることになるので、雑念とか思考が出にくいのです。

 

考え事しながら、水道をひねり、考え事しながら、水を垂れ流し、考え事しなから歯ブラシを動かし、考え事をしながら顔を洗う・・・・・・これが現代人です。

 

この逆が、限られた水で、音を立てない様に集中して、雑念を限りなく出さず、いつ禅にはいっても雑念なく入れるような、一瞬、一瞬が 今ここ という完全自分軸の世界がそこにあるのです。

 

 

掃除もそうです。 もの凄い、隅から隅までやります。 一瞬の隙もないです。

 

たしかに、kuも 「 のんびりでいいんだよー ゆっくりでいいんだよー 自分を大切に・・・・」

とよく言っています。

 

しかし、まったく違う観点で、「 今ここにある 」 という口先だけではない、本物の自分軸には、ここまで鋭く、鋭利に研ぎ澄まされたような 一瞬、一瞬に打ち込む彼ら修行僧をバカにできるものではありません。

 

掃除に集中する。顔あらうことに集中する。食事に集中する、 すべてが 「 今ここにある 」ためだけに1日があるといった流れです。

 

鎌倉時代、北条氏くらいの時代でしょうか、道元の時代は、刃物が飛び交うよう時代でしたから、ここまで、鋭利すぎる研ぎ澄まされた生き方を時代的背景として要請されたのだと思います。

 

 

修行もディセンションの時代でしたから、命がけでされていたのだと思います。

 

ただ、単なる荒行と笑えるでしょうか? 自分軸という言葉を 一瞬一瞬、真剣にやっている姿、はディセンションの時代であっても、すばらしい感じがします。

 

わたくしたちは、このアセンションの時代に一方的な考え方に偏り過ぎることがあります。

このような記事がもしお役に立てるとすれば、身が引き締まるということです。

 

これは地球の中でアセンションするときに、しっかりしたグランディングしていくということは、身が引き締まるようなこと、アイディアも少しはスパイスとして必要な事のように思われます。

 

真似はできないくても、しなくても、今の時代は、当時の厳しい時代ではないので、あっさり高波動に入れる、ありがたい時代になりました。

 

 

 

それで、寝る以外の18時間~19時間、一瞬たりとも無駄にしないで、今ここ、雑念不要の世界の中で、今日も修行されている若い僧たちは、バカにできるものではありません。

 

彼らは、真剣に「 あるがままに・・・」 や「今ここ 」 などを体当たりで実践しているのです。

たしかに今の時代となっては粗削りかもしれません。

 

しかし、過去もない、未来もない、この瞬間を生きる姿は、僧ではなくても、羽生君やイチローなどのように、このアセンションを迎えた現代でもいい結果を残しているわけです。

 

この限られた水の量や水の音をさせないでも、雑念をコントロールできる人ならそれはそれで最高でしょう。 

 

しかし、このような智慧ある修行を実践してきた日本という高僧を傑出させる国とは、とんでもなくすばらしい国ではないでしょうか。

 

 

お茶の世界でも、千利休然り、わびさびの世界は、欧米人には意味がわからない方が多いです。 「 なぜ日本人は はっきり言わないんだ。 言えないんだ 」

 

逆にとれば、はっきり言うのはエゴが言っているのです。エゴの主張を強くすることなんです。

日本人は、主語がないくらい霊的に人と人を交流させていきます。

 

それは、桜の花を代表するのように、ピンクでもない、白色でもない、中間の微妙な心のヒダをわかる民族が日本人だからです。

 

「 あ、 」 「 うん 」 というような、日本人独特な霊的交流は、主語をつけなければ理解できない英語圏では理解できないかもです。

 

18時間も1日、今ここ の行をさせるような、ある意味厳しい修行の中にも、とてもとても深い智慧があふれているのが、日本文化であり、日本どくとくの霊的修行の捉え方なのかもしれません。

 

 

思考が出ないように工夫するなんて、凄いと思います。

 

このように日本という国は、道元のような逸材によって、禅という今では、世界に誇れるすばらしい上級スピリチュアルな世界を伝統としてきたのです。

 

若い修行僧が自ら飛び込んで味わうように、このの伝統の中に700年も連綿と続いてきたわけです。

 

すべて今の時代にこの厳しさを受け入れることは無くても良いと思いますが、自分が緩くなり過ぎたときは、ちょっぴり辛いスパイスとして、なにか伝統からも気づかされることが多いのかもしれません。笑

 

 

 

 

※ババジテクニックヒーリングのご感想、いろいろいただいてます。感謝です。

一つ紹介します。↓ ↓ ゆりさんのブログです。

https://ameblo.jp/penpen2951/entry-12440455258.html

 

 

 

 

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