kuは不思議に思ってました。なぜあんなに小林麻央さんという人が話題になっていたのか。
あまり知りませんでした。
今日は何が言いたいのかというと、先日、死について実は怖いのではないか?というような記事を書きました。それに関連する記事になると思います。
人間として生まれて、死んでいくというストーリーがあるからこそ、今までの時代はドラマをつくれたわけです。
まったく違う角度から、小林さんの今の時代に放った役割をアセンションの立場から書かせてもらいます。 あの世で見ているといいなあー 笑
そんな人もいるんです。アセンションの時代に生れて、実は潜在意識では知ってたのかもしれませんが、つづったブログの内容は、とても人間として感動できる内容です。
もし、このような形で、人々の心のシフトに貢献できるとしたら、無意識に受け入れた死とはいえ、感動を与えてしまって当然ではないでしょうか?
しかし、このブログは2012以降だからウケたのかもしれません。というより、読む人々の無意識のシフトも手伝って、感動を増幅させたのかもしれません。
以下小林麻央さんのブログの一部です。
タイトル 人生に良し悪しはない より
暗いことや 悲しいことでだって、
誰かの心に プラスでつながれる瞬間があるのだと、 知りました。
誰かの心に プラスでつながれる瞬間があるのだと、 知りました。
つまり なーんでも、なーんにもなりうるのだ、と。
好きや嫌いはあるけれど、良いや悪いはない。
だから、ただ、ただ、私は、今の自分を生きるだけで、その生き方に、良いも悪いもないのだ、と。
前向きであることが良いことだからではなく、前向きであることが好きだから、
後ろ向きな日が続いても、いつかは前向きに戻るだけ。
いろんな人にいろんな意味がストーリーとなって、ドラマを創っていきますが、やはりこういう人は設定として、生まれる前から何かを啓発させるための目的で出た方だと感じます。
もちろん、死なんか無い、人は死なない、病院は間違えだらけだ、とスピリチュアル的に言えば、言いたい事はあるにしても、そんな知識だけのスピリチュアルでは感動は生まれません。
逆です。このような人が、この2012年以降、スピリチュアルを体現してくれたからこそ、多くの人が目覚めるきっかけとなっていくのではではないでしょうか?
まだまだ、多くの人々は眠っている方も多いし、バシャール的に言えば、列車はとっくにわかれてます。
しかし、その列車の窓から見ている風景の中にいる、輝いたこの小林麻央という人に、拍手をしてあげたいkuがいます。
もちろん、子供達や旦那さんの事を考えれば、拍手なんてとんでもないかもしれません。
しかし、そんな役割というか、自分やグループで設定して、世間にスピリチュアリティある波動を放すために、注目させる役割のかたがいるようです。
これは、ダイアナ妃なんかも、そんな感じです。
kuは霊査してませんし、それがどうではないですが、自らの役割の設定としてどうしても啓発というキーワードが含まれているように感じます。
この小林麻央さんが置かれた状況というのは、ある一定の期間、「死」というものと徹底的に正面衝突して、自分自身と向き合わなければならなかったという点にkuは感動します。
それは、病気という事件が、一瞬、一瞬生きるという、「いまここ」を強制的に突きつけられるということでもあります。
もちろん、恐怖の連続するときや、時間がたつにつれて、子供や旦那や心配事を手放さなくてはならないことを悟るわけです。
そのたびに、深い「いまここ」に入って行かれたことが、とても強烈なインパクトを感じます。
そして小林麻央さんは こんな一文も残しています。
「いつからか、
わたしはここまでになる必要があったんだ
と思うようになりました。
そう思えるときの穏やかさは
魂が納得しているのだと感じます。 」
このような短文の中に、彼女の気づきが、ビシビシ感じられます。
この文からkuが感じるのは、「完全に手放して来たとき、魂の真実に出会えて楽になれた瞬間」と言った感じです。
または、「本当の自分の運命を受け入れたときに、見えて来た境地」 とも言えます。
エゴやカルマ、執着を手放して、手放して、手放していった人が語れる内容です。
真剣に死を意識して来たからこそ、書ける文です。俳句のようになってます。
これは、みなさんも語れるはずです。 みなさんの場合、故意的にシフトしてきましたから、運命に翻弄されても、カルマ解放すれば、身をもって多くの方に啓発する小林麻央さんやダイアナのような手法ではないですけど、着実にこの文の意味はわかるはずです。
わたしたちは、今、彼女のような設定ではなく、人間として生きながらにシフトして地球の波動に貢献することで善しとしているのです。笑 もちろん自己犠牲ではありませんそれは卒業です。
そして、麻央さんの一文にこんなのもあります。
「私は鈍感だという思い込みを捨て身体の変化に気づける私になります!」
これは意外と意味を勘違いしそうです。
普通に読めば、自分は敏感と鈍感があれば、鈍感のほうなので、身体の異常にいままで気が付かなかった、それで病気になるまで自分の身体を放置してしまった。
だから、これからは身体の方に意識を向けて、身体の喜ぶ、身体を助ける方向に自分を合わせて行こう・・・・・ と普通はこうだと思います。
これをハイヤーセルフが書かせたとするとこうなります。
私は鈍感だという、観念があって、身体をエゴが引きずりまわしてきた。エゴの思いのままに身体をいじめて来た。 身体を自分のものだと思って、自由に扱えると思って来た。
なぜなら、自分の人生は外側にあると思って来たからだ。
でも本当に求めていたものは外側ではなく、身体を通じて、脈々と流れる生かされている何か・・・
身体の中にある大いなる宇宙の生命・・・・
生かされているという愛・・・・
もっともっと自分の内側を見て行こう・・・
観察していこう・・・・
身体という神を愛することを通して、自分の内側から目覚めて行こう・・・・と言った感じになります。
実は最近よく引用するエックハルトトールもインナーボディということばを使います。
このインナーボティは肉体に生命を与える大いなるエネルギー、ソースが流れる場でもあるのです。
多くの宗教は肉体を軽視してきましたが、ヨガなどによって、肉体を通じてシフトしていくという時代にも今はなりつつあります。気功などもそうですよね。
つまり、この一文は、フィルター抜きで読むと、「もっとインナーボディを通じて自分の内面の大いなる声を聞いて行こうと思います。」 という観方もできます。
それは、みんな人類がなんとなくわかっていることなので、共感を得るわけです。
ダイレクトな言い方ではないですが、ハイヤーからの導きとして、もっとエゴの声ではなく、ハイヤーの声をインナーボディから聞き取りなさい。という感じになります。
また、こんな短い一文もあります。
「 今は今しかない 」
以上です
やはり、死というものは、もちろん幻想ですが、普通の人が死ということに直面すると、ほんとうの意味で、「今」を大切にするようになるのではないでしょうか?
よく、死刑囚って悟っちゃう人が多いのも、うなずけます。
エゴは未来と過去だけに生きられるからです。 未来が自分にないとわかったとき、人は今ここに生きられるようです。
そして最後に海老蔵さんに対して・・・・
「愛している・・」
が最後の言葉のようです。
多くの方々に感動を与えたのは、彼女がエゴの抵抗と、大いなる流れの中で、スピリチュアル的にいえば、手放していった軌跡だと思うのです。
ある一定の時間、押し流されてきた数々の手放す出来事が病院内で起こり、、翻弄されながらも麻央さんは、人間的悲しみや苦しみや同情もあり、感動もあり、学びのドラマがあったのだと思います。
人はいつか、すべてを手放さなきゃならない時があり、それが今だとは思ってません。
突如、手放せる自分であることが、本当の意味のかろやかさではないでしょうか?
麻央さんはあの若さで、それを見本として、多くの方に「在り方」 を 体現された方だと思います。
生きることの大切さ、 でも、 手放せる勇気 ・・・ 感動ですね。笑
この忙しい、年末に何か感じていただければと思います。
kuから一言・・このババジテクニックを多くの方がご利用ありがとうです。しかし、来年二月くらいから値段が変わります。このテクはまだ自分しかできない故、一日三件以上すると、強すぎて、自分の方に影響があるからです。笑 ご了承ください。 以上です。
ババジ伝によると、「ババシは神の偉大な顕現であり肉体を持った姿で、人類が大きな変化や人類全体の浄化と向上につながる可能性への挑戦を迎える時期だけに出現する。」とある。