明治維新の際に徳川親藩だった津山藩で藩論をまとめ、明治新政府との


衝突回避に尽力した藩士の鞍懸寅二郎(1834=天保5年~71=明治


4年)の直筆の日記や本人を撮影した写真などの史料約100点が29日


までに見つかりました。今年は150回忌の節目で、功績を顕彰している


郷土史家らは「実像に迫れる貴重な史料です。津山にために奔走した彼


の人生を広く知ってもらうきっかけになれば」と話しています。     (こ

 

の記事は3月30日の【山陽新聞】からの紹介で画像もお借りしています)

 





まずは鞍懸寅二郎についての紹介からです。 


 【鞍懸寅二郎】  赤穂藩の下級武士の家に生まれ、勘定奉行を務

 

 めました。1862(文久2)年に津山藩松平家に仕官し、渉外を担う国家


 周旋掛を拝命しました。津山藩領だった小豆島沖の英国船上で船員の


 銃が暴発して、島民が死亡した事件(1864=元治元年)では賠償金を


 勝ち取り、全国に名を知らしめました。明治維新の4)際は藩主慶倫の上洛


 に尽力しました。71(明治4)年8月に何者かに銃撃されました。享年38歳



日記の存在は、寅二郎の孫で東京帝国大教授を務めた江原万里(1890=


明治23~1933=昭和8)が記した書簡で明らかになっていましたが、所在


が分からない状態でした。津山市の住民グループ「鞍懸寅二郎研究会」のメ


ンバーで、寅二郎の墓のある本源寺(津山市小田中)の華山義道住職が、や


しゃごに当たる鞍懸潤さん(松山市)に調査を依頼しました。愛媛県砥部町に


ある鞍懸家で、日記を含む一連の史料が見つかり、本源寺に寄託されました。




日記(上の画像)は「西帰日記」(縦8㌢、横18㌢)との表題で47㌻です。赤


穂藩士だった寅二郎が、家中の権力争いに巻き込まれ、当時住んでいた江


戸から18960(万延元)年11月に現在の苫田郡鏡野町)へ転居するまでの


旅の様子を書き残しています。



写真は書籍などでたびたび使用されてきましたが、原本が残っているかどうか


は分かっていませんでした。撮影時期は不明で、最後の津山藩主・松平慶倫(よ


しとも)から授かった紋服に身を包み、同じく慶倫から譲り受けた乗馬用のむちを


手にして写っています。


維新後、旧家老格の権大参事を務めた寅二郎は尊王攘夷派として他藩との交流


が多かったこともあり、71(明治4)年の元旦、太政官から民部省への出仕を命じ


られました。そじの際の書状なども今回見つかっています。


研究会の会長で、郷土史家の竹内侑宜さん(津山市山下)は「功績を紹介する冊


子の出版を計画しており、顕彰活動に弾みがつきました。史料を参考にさらに研


究を進めたい」と話しています。


 そして下の画像ですが華山住職の依頼で、新たに見つかった鞍懸寅二郎

 

 に関する史料の数々です。