先ずは鶴田藩の歴史から紹介していきましょう。


浜田藩(島根県浜田市周辺)が第二次征長で主な領地を失い、美作国の飛


び領地で改名して立藩したものです。北部9カ村を大庄屋の福山家(津山市


里公文)、南部8カ村を大倉家が統括し、福山家が藩主居館と藩庁になりまし


た。1868(明治元)年に95カ村(2万8千石)が加わり、東端は現在の兵庫


県にまで及びましたが、領内で年貢軽減などを求める一揆(鶴田騒動)が起


きたこともありました。71(明治4)年の廃藩置県で鶴田県となりました。




幕末維新期、美作地方に4年間だけ存在した鶴田(たつた)藩の関係文書約


4千点が15日までに、岡山県美咲町の旧家から見つかりました。鶴田藩は島


根県にあった浜田藩が前身で、第2次長州征伐(1866=慶応2)で長州藩に


敗れ藩士らが美作国の飛び領地に移り立藩しました。文書は領内の大庄屋が


残したもので、藩運営のため借金を肩代わりしたことなどが記され、困窮する


藩士らを地域を挙げて支えた様子が伝えられています。

       (この記事は16日付けの【山陽新聞】からで画像もお借りしました)

 



定兼学・岡山県立記録資料館長によりますと、鶴田藩の藩政史料は極めて少


なく、「動乱期に生まれた希少な藩の運営実態を、農民の視点を通じて知ること


が出来る一級史料」と語っています。



幕府側だった浜田藩(6万1千石)は、長州軍の進撃に自ら城に火を放って敗


走しました。(浜田藩の資料では「自焼退城」と書かれています。この辺りについ

 


 てはhttps://ameblo.jp/new8-1915/entry-12206363243.html でも紹介していま


す)藩主松平武聡(たけあきら・たけふさ)以下藩士と家族約4千人は、約8千石


の飛び領地・久米北条郡17カ村(現津山市、美咲町など)へ落ちのび、農家約


1200戸に分宿しました。67(慶応3)年に鶴田藩と改名し、71年の廃藩置県ま


で藩政を行いました。




文書は美咲町史編さんに向けた調査で、同町和田北の旧大倉家の蔵から発見


されました。同家は領内の南部8カ村を統括した大庄屋で、藩に提出した報告書


の写しや、当主・正左衛門の日記が中心になっています。



領地の大部分を失った藩にとって、最重要課題は収入の確保でした。証文など


から、庄屋たちが工面に奔走したことが分かります。67年600両、68年1千両


・・・と領内の年貢を担保に正左衛門らが倉敷や堺の豪商などから借金し、71年


までの5年間で計7562両を用立てています。解読を進める町史編さん委員の


三好尚子さんは「浜田藩時代から飛び領地の年貢が藩財政を支えていたことも


り、同地に不慣れな藩士らが豪農層を頼っていたのでしょう」と推測します。



幕府が認めたものの、農民の反対で難航していた近隣の旧幕領の鶴田藩への


早期引き渡しを新政府に求める嘆願書も見つかりました。17カ村の代表者ら計


約60人が名を連ね、正左衛門ら4人が京都に出向き提出しています。


このほか、藩士と家族が分宿した農家や、藩が順次新築した藩士宅の建設候補


地をまとめたリストなども判明しました。三好さんは「農民の協力ぶりに驚きます。


藩の浮沈が自らの生活に直結する事情に加えて、時代に翻弄される藩士たちへ


の同情心も強かったのでは」とみています。