江戸末期に幕府要職を務め、明治新政府から「朝敵」とされた備中松山


藩の藩主板倉勝静(1823=文政6~89=明治22)と、家老大石隼雄


(1829=文政12~99=明治32)が戊辰戦争終結後、新政府側に出し


た自訴状が高松市の大石の子孫宅で見つかり、8日までに高梁市歴史


美術館(高梁市原田北町)に寄託されました。

   (このニュースは9日の【山陽新聞】からで画像もお借りしています)

 



自筆とみられ、高梁市教育委員会は「藩存続の瀬戸際にあった当時の緊


迫感が伝わる貴重な史料」と評価しています。


2人の自訴状を軸装にした状態で発見されました。いずれも写しが岡山藩


政資料「池田家文庫」(岡山大付属図書館蔵)に伝わっていますが、自筆文


書は確認されていませんでした。文面は写しとほぼ一致し、正式な自訴状の


下書きか控えとして保存していたとみられます。(下の画像の上が板倉勝静、


下が大石隼雄の自訴状です)









勝静は幕府老中として幕閣の中枢におり、戊辰戦争では函館まで転戦しま


した。自訴状は旧幕府勢力が降伏した8日後の、69(明治2)年5月26日付


けです。戦争の混乱の中で、軍と行動せざるを得なかったとし、「天威(天子


の威光)」に抵抗する考えのないことを強調、家臣や領民の安全の確保を嘆


願しています。



一方、大石は国元で備中松山城の無血開城などに尽力し、勝静投降後は主


家存続に奔走しました。69年6月1日に新政府側の岡山藩に宛てた自訴状


では、勝静に代わって厳罰を受けることを「本懐至極」とした上で、寛大な処


置となるよう取りなしを依頼しています。備中松山藩は5万石から2万石に減


封されながら存続し、勝静は72(明治5)年に赦免されました。



調査した田村啓介高梁市教委参与は「セットで伝来したことを考えると、勝静と


大石ら家臣が連携し、危機を乗り越えられたのでは」とみています。


自訴状は17日に始まる高梁市歴史美術館の常設展「山田方谷と生涯」で公


開されます。期間は5月11日までで、火曜は休館です。