この前の火曜日・14日は、毎月1回お邪魔している「オレンジカフェ・ドレ
ミ」の日で参加してきました。バレンタインの日でもありますが、ひな祭り
も近いので紙細工で作ったお雛様です。
見にくいかも知れませんが、下の画像と併せてみて頂きたいのですが、
上の画像の下半分は平らに成って居ますが、上半分は(画用紙なので)
立った状態に成るのです。それを2つに(半分に)追って畳んだ状態が下
の画像の状態に成るのです。人形の形に着物を着せて、盃の上にお雛
様が立っている状態に成って居ます。暫くは出窓にでも飾ろうかと思って
居ます。細かい(畳んだ徳利の高さが約12㌢?)細工部分もあるので、老
化防止にも良いのだそうです。(^_^;)
ということで代わりに吉備真備公の記事といったら真備公に失礼ですが、
吉備真備に就いて紹介させて頂きます。
前述の通り倉敷市真備地区の名前の由来にもなっている吉備真備(695
~775)は、奈良時代に2度唐に渡って学び、都で活躍した学者で政治家
です。
真備町地区や岡山県矢掛町などの一帯を治めた豪族・下道朝臣氏の出身
です。地方豪族の出身としては異例の右大臣にまで出世しました。地元の
”学問の神様”としても知られています。
唐では儒教や法律、算術、天文、兵法、暦法など多岐にわたる分野で勉学
に励み、日本に帰ってからは国の制度改革や文化に発展に尽力しました。
囲碁の伝来や片仮名の発明に関わったという伝説もあるそうです。
ゆかりの真備町地区や矢掛町には、多くの史跡があり真備を顕彰する催しも
行われています。
吉備真備の活躍した奈良時代は、唐との交流などを通じ平城京や律令制度
が整い、国際色豊かな天平文化が花開いた時代でした。その一方、貴族の間
では政争が繰り広げられ、天然痘の流行などもありました。こうした中、唐で得
た多くの先進知識と国際感覚を生かし、国のために尽くした真備の歩みを追っ
て見ましょう。
◆~40歳代まで
真備は695年に生まれましたが、生誕地は畿内が定説とされ、県内にもいろい
ろな伝説が残って居ます。23歳ごろに、当時大帝国だった唐に留学生として渡
りました。約18年間も滞在し、歴史書「続日本紀」に「日本の留学生で唐で名を
上げた者」として名前が挙がるほど熱心に勉強しました。きちょうしたのは41歳
ごろで、天文歴書や楽器、武器などの文物を持ち帰りました。
◆40~50歳代
唐から戻った後、真備は聖武天皇らに重く用いられ、都でどんどん出世していき
ました。皇族出身の橘諸兄が朝廷の中心的存在になると、唐に一緒に留学した
僧の玄昉とともに、政権のブレーンとして活躍しました。47歳ごろには、阿倍内
親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)の教育係にもなりました。52歳ごろに吉備朝臣
の姓を賜り、以後吉備真備と名乗るようになったのです。
この間49歳で従四位下・東宮太夫、53歳では右京太夫を兼務し、55歳で従四位
上を授けられています。
◆40~60歳代
地方豪族の出身でありながら、異例の出世をした真備に対し、中央貴族の反発も
強かったようです。740年(46歳)に藤原広嗣が真備と玄昉の追放を求めて、九州
で反乱を起こしましたが、鎮圧されました。しかし孝謙天皇が即位した後、藤原仲麻
呂(恵美押勝)が政権を握ると、真備は筑前守として九州に左遷されました。57歳ご
ろには遣唐副使となり、再び唐に渡りました。帰国した後も九州で努めました。
◆70歳代~
都に呼び戻されたのは70歳ごろでした。孝謙上皇や僧の道鏡と対立した藤原仲麻
呂が起こした乱では兵法の知識を生かして鎮圧に貢献しました。孝謙上皇が再び
即位して称徳天皇となった後も出世を重ね、72歳で中納言、大納言を経て右大臣
になりました。
その生涯は謎も多いようですが、ゆかりの矢掛町や倉敷市真備地区では、遺徳をし
のぶ吉備公祭や弾琴祭、真備の名を冠した囲碁大会なども開かれています。
最後にもう一つ、先日行った真備支所は井原鉄道で行けますが、最寄り駅の名
前は何と「吉備真備」駅なんですよ。行先が決まったら迷わず到着できますヨ。(笑)
ミ」の日で参加してきました。バレンタインの日でもありますが、ひな祭り
も近いので紙細工で作ったお雛様です。
見にくいかも知れませんが、下の画像と併せてみて頂きたいのですが、
上の画像の下半分は平らに成って居ますが、上半分は(画用紙なので)
立った状態に成るのです。それを2つに(半分に)追って畳んだ状態が下
の画像の状態に成るのです。人形の形に着物を着せて、盃の上にお雛
様が立っている状態に成って居ます。暫くは出窓にでも飾ろうかと思って
居ます。細かい(畳んだ徳利の高さが約12㌢?)細工部分もあるので、老
化防止にも良いのだそうです。(^_^;)
ここからが今日の記事なのですが、去る12日の日曜日には倉敷市真備
町の市役所支所で、倉敷市の美観地区の近くにある国の重要文化財「大
橋家住宅」がありますが、その大橋家の分家になる東大橋家の文書の調
査報告会があり参加してきました。真備支所の敷地内には奈良時代の学
者で政治家で、現在の地名の基になった吉備真備像が建てられています。
それが下の画像です。正直いうと倉敷の歴史といっても幕末に倉敷代官所
の襲撃事件があったことくらいしか良く分かりません(^_^;)ので、これから資
料を読み込んで勉強しないと、紹介記事にまでは行きそうにありません。
ということで代わりに吉備真備公の記事といったら真備公に失礼ですが、
吉備真備に就いて紹介させて頂きます。
前述の通り倉敷市真備地区の名前の由来にもなっている吉備真備(695
~775)は、奈良時代に2度唐に渡って学び、都で活躍した学者で政治家
です。
真備町地区や岡山県矢掛町などの一帯を治めた豪族・下道朝臣氏の出身
です。地方豪族の出身としては異例の右大臣にまで出世しました。地元の
”学問の神様”としても知られています。
唐では儒教や法律、算術、天文、兵法、暦法など多岐にわたる分野で勉学
に励み、日本に帰ってからは国の制度改革や文化に発展に尽力しました。
囲碁の伝来や片仮名の発明に関わったという伝説もあるそうです。
ゆかりの真備町地区や矢掛町には、多くの史跡があり真備を顕彰する催しも
行われています。
吉備真備の活躍した奈良時代は、唐との交流などを通じ平城京や律令制度
が整い、国際色豊かな天平文化が花開いた時代でした。その一方、貴族の間
では政争が繰り広げられ、天然痘の流行などもありました。こうした中、唐で得
た多くの先進知識と国際感覚を生かし、国のために尽くした真備の歩みを追っ
て見ましょう。
◆~40歳代まで
真備は695年に生まれましたが、生誕地は畿内が定説とされ、県内にもいろい
ろな伝説が残って居ます。23歳ごろに、当時大帝国だった唐に留学生として渡
りました。約18年間も滞在し、歴史書「続日本紀」に「日本の留学生で唐で名を
上げた者」として名前が挙がるほど熱心に勉強しました。きちょうしたのは41歳
ごろで、天文歴書や楽器、武器などの文物を持ち帰りました。
◆40~50歳代
唐から戻った後、真備は聖武天皇らに重く用いられ、都でどんどん出世していき
ました。皇族出身の橘諸兄が朝廷の中心的存在になると、唐に一緒に留学した
僧の玄昉とともに、政権のブレーンとして活躍しました。47歳ごろには、阿倍内
親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)の教育係にもなりました。52歳ごろに吉備朝臣
の姓を賜り、以後吉備真備と名乗るようになったのです。
この間49歳で従四位下・東宮太夫、53歳では右京太夫を兼務し、55歳で従四位
上を授けられています。
◆40~60歳代
地方豪族の出身でありながら、異例の出世をした真備に対し、中央貴族の反発も
強かったようです。740年(46歳)に藤原広嗣が真備と玄昉の追放を求めて、九州
で反乱を起こしましたが、鎮圧されました。しかし孝謙天皇が即位した後、藤原仲麻
呂(恵美押勝)が政権を握ると、真備は筑前守として九州に左遷されました。57歳ご
ろには遣唐副使となり、再び唐に渡りました。帰国した後も九州で努めました。
◆70歳代~
都に呼び戻されたのは70歳ごろでした。孝謙上皇や僧の道鏡と対立した藤原仲麻
呂が起こした乱では兵法の知識を生かして鎮圧に貢献しました。孝謙上皇が再び
即位して称徳天皇となった後も出世を重ね、72歳で中納言、大納言を経て右大臣
になりました。
その生涯は謎も多いようですが、ゆかりの矢掛町や倉敷市真備地区では、遺徳をし
のぶ吉備公祭や弾琴祭、真備の名を冠した囲碁大会なども開かれています。
最後にもう一つ、先日行った真備支所は井原鉄道で行けますが、最寄り駅の名
前は何と「吉備真備」駅なんですよ。行先が決まったら迷わず到着できますヨ。(笑)