ちょっと画像が古い物で済みません。昨26年3月16日(日)に開催させて頂いた

「岡山新選組準備会」の、一般の方にもご参加いただけるオープン講演会「八重

と岡山」のスナップです。不肖がお話しさせて頂きましたが、新島襄が亡くなって

10年後に八重の養女に成ったのは、手代木勝任の孫で、両親を幼くして亡くし

たため、手代木の任地で有った現津山市に引き取って養育し、「鶴山小学校(現

存)」に通学していたと伝えられています。そんなことも有りますし、養女に成った

翌年、襄が息子のように目を掛けていた同志社の校長心得・広津友信に嫁ぎ、

間もなく岡山に新設開校した『第六高等学校』に赴任したり、八重や手代木にとっ

ても岡山は特別な場所ということから、この講演会でも手代木直右衛門勝任につ

いてもお話をさせて頂きましたので、この画像を使わせて頂きました。


さあ、今回で完結したいと思って居る【山陽新報】からの紹介です。

 ☆明治37(1904)年6月8日付け
 故手代木翁履歴(承前)

 同年10月16日 任岡山縣岡山區長 ▲同年同月同日 月捧80圓下賜 ▲同

 年同月27日 地方衛生會委員申付らる ▲同18酉年8月14日 御巡幸に付

 御酒肴料として金75圓宮内省より下賜 ▲同19戊年9月3日 叙奏佐官4等

 賜下級俸(内閣) ▲同年12月27日職務勉励特に悪疫豫防に從事勤勞不少

 に付為其賞金 金20圓下賜 ▲同21年亥10月29日 中級賜俸下賜 ▲同

 22年1月18日 任岡山縣西北條東南條軍長 ▲同年同月同日叙奏任官4等

 賜中級俸 ▲同年12月21日 職務格別勤勉に付其賞として金50圓下賜 
 
 同年12月25日 備前國旭川浚渫費として金20圓寄付
候段奇特に付其賞木

 盃一個下賜 ▲同年2月19日 第6區衆議院議員選擧長を命ず ▲同年3月

 憲法發布記念章拝受 ▲同年3月26日岡山市清輝尋常小學校建築費として

 金25圓寄附
候段奇特に付為其賞木盃一個下賜 ▲同年同月27日 収入官

 吏を命ず ▲同年7月1日 明治19年中岡山縣岡山津山間道路改修費として

 金10圓寄附
候段奇特に付其賞木盃一個下賜 ▲同年同月同日 明治19年

 中岡山縣下旭川浚渫費として金30圓寄附
候段奇特に付為其賞木盃一個下賜

 ▲同年同月3日 明治17年8月児島郡他4郡暴風海嘯の節罹災者へ金24圓

 施與
候段奇特に付為其賞木盃一個下賜 ▲同年9月26日 上級俸下賜 

 同年12月9日 第三高等中學校醫學部建築費として 金22圓餘寄附
候段奇

 特に付為其賞木盃一個下賜 ▲同年12月16日 陞叙奏 任官三等 ▲同24

 卯年6月27日 叙勲六等賜瑞寶賞 ▲同25辰年3月14日叙從六位 ▲同年

 7月16日兼任岡山縣東北條郡長 ▲同年12月20日 陞叙高等官六等 ▲同

 年4月 廢官 ▲同年同月 岡山市小野田町へ復籍 ▲同年5月11日 特旨を

 以て位一級被進 ▲同年同月同日 叙正六位 ▲同年12月 14年以上奉職

 候を以 金490圓99錢5厘下賜 ▲28年5月 退隠

  以上が【山陽新報】の手代木翁履歴ですが、大きな間違いとしては長女の
  名前の違いですが、記者が間違えたのか、家族とかに取材して、間違えた
  返事をするとは考えられないのですが…。
  それともう一点、下線を付けていますが、寄付の多さでしょう。確かに収入
  もそれなりに有ったのでしょうが、河川の浚渫費、学校の建設費、災害の
  被災に対しての義捐金的な支出など、彼が如何に郡民や市民・県民に対
  しての、人間的な温かみが感じられます。
本当の政治の姿(役人は寄付を
  する!という意味では無く…)血の通った政治をしていたことを垣間見るこ
  とが出来ると思いながら、彼の調査をしました。それに引き替え、今の何
  処かの大臣さんは……、おっといけねえ、愚痴を言ってしまいましたネ。(^_^;)