名前を言っただけでかなりの方にはご理解頂けるのでは?と思いますが、同志社大学の神学部

教授を3月に定年退職された、八重の研究家でも有り、「八重の桜」の明治維新後の時代考証も

なさっている方が高梁のキリスト教教会で、特別礼拝と言う事で見えたのです。

此処の教会の八木橋牧師さんは、以前八重と出会う前の襄が今の高梁市に住んだり、最近ドラマ

に出てきた「熊本バンド」メンバーが創設した教会と言う事も有って、今回の講演会と成ったのです。

八木橋さんはこれまでも、地元の山陽新聞にもローカル版ですが寄稿をされ、支局長さんの紹介に

より、その記事も2012年6月にこのブログに紹介させて頂いていますので、是非ご覧ください。

と言うのも県北の高梁・新見地域の限定版でしたので、内容を参考に紹介させて頂けたらとのお願

いに対して、少しでも多くの方に読んで欲しいのでと、そのまま全文を転載OKと言って下さいました。

川田甕江の名前の「甕」は「おう」では変換できないので、「かめ」で入力してくださいとのご教示まで

頂いての紹介でした。

その八木橋康広牧師さんから案内も頂いて、意気揚々の高梁遠征2日目だったのですが…。


ところが、前日の15時間という強行軍の翌日とあって、少し寝坊して慌てて出発と成って仕舞いまし

た。「八重」といえば、今回の大河には残念ながら登場無しの予感ですが、手代木直右衛門の孫(次

女仲枝の娘)の初子が、新島襄の死後、1900年に成って八重の養女に成っているのです。

この辺りの事も、既に八重と岡山のつながりの記事を何度か紹介させて頂いています。八重と初子の

関係をご教示下さったのは、自ら「資料発掘の鬼」とおっしゃるあさくらゆうさんでした。ここからこれまで

も関心を持っていた手代木と八重の勉強に繋がったのでした。

そうした手代木との関係から、ブロガーで岡山新選組メンバーでもある「りんこさん」も参加?と思って居

たら、「今から高梁に向かって家を出ます。」と彼女からもメールが入り、当方も少し遅れてスタートします。

結局時間ギリギリに高梁市役所の駐車場に到着になりますが、既に開始時間直前で、着く前に通る駅前

でタクシーに声を掛けて同行して貰い、駐車場で乗り換えて教会に駆け込みと成って仕舞いました。(^_^;)

特別礼拝は始まっていて、牧師さんの挨拶と講話の最中と言う何とも情けない状態でした。


本井康博元教授は、神学科ですから教会の中でも違和感ありませんが、20代に2・3度教会で礼拝の経験

しか無い私はかなりドギマギでした。いよいよ講演の始まりです。


大河ドラマに「八重の桜」が決まり、新島襄との関係も有るので、昨年春から会津に6回通われたそうです。

しかし、会津以外では新島八重にしても、まして山本八重といっても、殆ど知った人はごく僅かでした。

勿論NHK内部、とりわけ上層部でも知った人は皆無といった状態でしたが、東日本大震災の被災者が、失意

の中から立ち上がる象徴的な人物として、逞しさも持ち合わせた八重が選ばれたのは驚いたが、考えて見れば

適役だったのではと思われる。それもこれまで大河にと陳情していた野口英世や、初代会津藩主・保科正之を

差し置いて、陳情して居ない八重と成ったのは、同志社大にとってもラッキーだったという。

東日本の被災地で、しかも今年は幕末の年。(戦国と幕末が交互ですから)しかもそろそろ女性が主人公という

形で、主演の綾瀬はるかさんのスケジュールは押さえられていたのでは?とすれば、被災地から立ち上がってい

くという観点からは、3人の候補しか居ない。山川捨松、中野竹子と山本八重だと思う。捨松は12歳で渡米し、11

年のアメリカ生活とすれば、アメリカで大河のロケは有り得ない。竹子は早逝して居て、1年間のドラマのヒロインと

しては、生涯が短か過ぎる。と言ったあたりも八重が決まった理由だろう。前回の新島襄が、熊本バンドのメンバー

とのやり取りが放送されたが、そのメンバーの一人の伊勢時雄は、八重の兄・覚馬の娘の峰と結婚したが、同志社

の第一期生として1879(明治12)年直ぐに岡山にキリスト教(プロテスタント)の布教のため岡山に赴任したのは、

同じ第一期生の金森通倫で、翌年岡山教会を設立し、その式典には新島襄・八重夫妻も参列して居る。

この熊本バンドメンバーとのトラブルから、新島襄が、悪いのは君たちではなく、全て校長である自分と、自らの手を

杖で打ち付ける「自責の杖」も、先週放送されているが、オダギリジョーの熱演で、真っ赤に腫れあがった手も記憶に

新しいと思う。

題名の桜は、祝電で言う「桜咲く」でも使われるが、必ずそういう桜が咲く、と言うか咲いてほしいとの思いが込められ

ているが、同志社の花は梅である。特に寒梅は狭い入口からひっそりと入る感覚で、「サクラサク」のイメージとは対照

的だ。同志社には梅を冠にした建物は多くあるが、桜は無いという。

日本を代表する古都で、キリスト教の学校を創設した人物と結婚したばかりか、自らも洗礼を受ける八重は、それが原

因で「女紅場」を解雇されるが、「これで聖書の勉強が出来ますネ」と襄に語ったと言う。

そんな八重のドラマでの今後だが、明治23(1890)年に夫を失い、明治33(1900)年には手代木の孫・初子を養女に

するが、手代木の登場しない事からも想像できるが、初子はチラッとしか出て来ないようだ。その初子が襄が最も可愛が

っていた広津友信と結婚し、広津が岡山の第六高等学校に赴任した事から、八重は何度も岡山に二人を訪ねていた。

ドラマの最終は、明治37(1904)年で終了と成るようだ。

    以上が講演で話された内容の概要です。講演中に雨がかなり降りだしましたが、興奮冷めやらない私は、
    りんこさんと食事に寄り、暫しの八重談義、手代木談義の一時を過ごし、帰路に付いたのでした。こんなお
    爺ちゃんの相手を気持ちよく努めて下さったりんこさんに感謝の一日でした。