前回何処まで書いたか忘れて仕舞いそうなくらいのインターバルで済みません。
そんなに大勢は居ないと思いますが、こんなブログの読者さん、本当に申し訳ありません。
他にすることも有って、中々PCを開けなかったのも有るんですが、見なければ見ないで、最初は焦りみ
たいな物が有りましたが、慣れって段々見なくても済む気がして来るんですね。
さて、そんなことでネタも古く成って仕舞いましたが、先月18日の【毎日新聞】に
自由に学ばせ夢へ努力 教育理念方谷に学ぶ・シンポで子孫が講演 という記事が有りました。
まあ、岡山ローカル版なので、県外の方にはご覧頂けなかったものなので、それを紹介しましょう。
幕末の備中松山藩で財政責任者・元締役として、藩政改革を断行するとともに、藩校や私塾で漢学者三島
中州や長岡藩の河合継之助ら、多くの弟子を育てたのが山田方谷(1805~1877)です。
生まれ故郷の西方村(現・高梁市中井町西方)に隣接する真庭市北房地区で7月に開かれたシンポジウム
「聖人・山田方谷と真庭の門人たち」では、方谷の子孫で財務省九州財務局長の野島透さん(52)が基調講
演をされました。「大枠を示し、自由に学ばせる」「夢を持ち、努力する」-。教育者としての側面に光が当てら
れました。
地頭だった方谷の祖先は山城の佐井田城(真庭市下中津井)を築城しましたが、関ヶ原の戦いで毛利方につ
き、領地を没収され帰農しました。貧しい中でしたが、父親は何とか方谷を世に出そうと教育に力を入れ、母
親もそのことを尊重していました。方谷は3・4歳から文字を習い、上手だと言う事で揮毫したものが木山神社
(高梁市木山)などに残っています。
父親の勧めも有って、5歳から現在の新見市にあった丸川松陰(1758~1831)の塾で学びました。神童と
呼ばれたものの、14歳で母を、15歳で父を亡くし、16歳の頃兼業の油屋を継いで深夜に勉強しました。
その後、備中松山藩主に藩校・有終館での勉強を許され、京都へも遊学しました。また、江戸では佐藤一斎
(1772-1859)の塾で学びました。塾には佐久間象山らが先に居ましたが、そんな中で方谷が塾頭を務
めました。
備中松山藩に戻った方谷は、有終館の教授に成りました。財政再建で注目されている方谷ですが、産業振
興や軍制改革、藩札刷新などの七大改革で、最も大きなものは教育でした。当時学校と言えば武士が学ぶ
ものでしたが、方谷は自分の塾で農民や商人、女性も教えています。教育を底上げしレベルを上げたのです。
教育の基本理念は「立志」「励行」「遊芸」の三つでした。立志は夢を持つこと、励行は一生懸命の努力、遊芸
はとことん道を究めることです。方谷はこれら三つの大枠を与え、後は自由にさせていました。弟子たちは生
き生きと伸びて行ったと思はれます。
具体的には声に出して本を読ませる素読を徹底的に行ったが、一人一人の発達度合いに応じてやらせました。
人数が多く成ると、弟子が先生と成って教えたと言います。読んだ事を生かして漢詩を作らせたりもしました。
方谷の教育姿勢は「至誠惻怛(しせいそくたつ)」で、誠を尽くし慈しみをもって接することでした。情熱を持って塾
生を教えて居ました。
当時は朱子学が江戸幕府の学問。方谷は朱子学を理解した上で陽明学も教えました。新しい物好きな面もあり、
洋学の盛んな津山藩へ学びにも行って居ました。黒船や海外の情勢にも詳しく、聖書を全部読んでいるような記
述も有るのです。
藩主に見出され農民から藩政改革の責任者になった方谷にとって、一番の力に成ったのは多くの弟子たちでした。
商才のある者は商売を発展させ、江戸に出て偉く成る人も出ました。こうして地域が活性化して要ったのです。
千人を超えるとされる弟子は幅広く、政治家や実業家のほか医者もいました。
方谷は教育で地域を変えました。日本は今財政難と言われますが、何に投資するかと言えば教育です。すぐに効
果は出ませんが長期的には一番役に立つのではないでしょうか。
最期に小説「山田方谷の夢」(2011年発行)で私なりに方谷の言葉をまとめた一節を紹介します。
「人は夢を持つときが肝腎なり。されども夢を実現せんとすれば、先ず自
ら努力することを忘するべからず。唯必ず我が夢は叶うと信じるのみ。」
野島透略歴:山田方谷の直系六代目子孫。東京大学卒業後、旧大蔵省入省。財務省大臣官房文書課室長を
経て同会計課長などを経て7月から現職。方谷の改革に関心を持って、約10年前から研究を続け、著書
に「山田方谷の夢」「山田方谷に学ぶ改革成功の鍵」などが有る。「山田方谷を広める会」応援連絡会顧
問などを務める。NHK大河ドラマ化に向けた署名活動にも協力しています。
そんなに大勢は居ないと思いますが、こんなブログの読者さん、本当に申し訳ありません。
他にすることも有って、中々PCを開けなかったのも有るんですが、見なければ見ないで、最初は焦りみ
たいな物が有りましたが、慣れって段々見なくても済む気がして来るんですね。
さて、そんなことでネタも古く成って仕舞いましたが、先月18日の【毎日新聞】に
自由に学ばせ夢へ努力 教育理念方谷に学ぶ・シンポで子孫が講演 という記事が有りました。
まあ、岡山ローカル版なので、県外の方にはご覧頂けなかったものなので、それを紹介しましょう。
幕末の備中松山藩で財政責任者・元締役として、藩政改革を断行するとともに、藩校や私塾で漢学者三島
中州や長岡藩の河合継之助ら、多くの弟子を育てたのが山田方谷(1805~1877)です。
生まれ故郷の西方村(現・高梁市中井町西方)に隣接する真庭市北房地区で7月に開かれたシンポジウム
「聖人・山田方谷と真庭の門人たち」では、方谷の子孫で財務省九州財務局長の野島透さん(52)が基調講
演をされました。「大枠を示し、自由に学ばせる」「夢を持ち、努力する」-。教育者としての側面に光が当てら
れました。
地頭だった方谷の祖先は山城の佐井田城(真庭市下中津井)を築城しましたが、関ヶ原の戦いで毛利方につ
き、領地を没収され帰農しました。貧しい中でしたが、父親は何とか方谷を世に出そうと教育に力を入れ、母
親もそのことを尊重していました。方谷は3・4歳から文字を習い、上手だと言う事で揮毫したものが木山神社
(高梁市木山)などに残っています。
父親の勧めも有って、5歳から現在の新見市にあった丸川松陰(1758~1831)の塾で学びました。神童と
呼ばれたものの、14歳で母を、15歳で父を亡くし、16歳の頃兼業の油屋を継いで深夜に勉強しました。
その後、備中松山藩主に藩校・有終館での勉強を許され、京都へも遊学しました。また、江戸では佐藤一斎
(1772-1859)の塾で学びました。塾には佐久間象山らが先に居ましたが、そんな中で方谷が塾頭を務
めました。
備中松山藩に戻った方谷は、有終館の教授に成りました。財政再建で注目されている方谷ですが、産業振
興や軍制改革、藩札刷新などの七大改革で、最も大きなものは教育でした。当時学校と言えば武士が学ぶ
ものでしたが、方谷は自分の塾で農民や商人、女性も教えています。教育を底上げしレベルを上げたのです。
教育の基本理念は「立志」「励行」「遊芸」の三つでした。立志は夢を持つこと、励行は一生懸命の努力、遊芸
はとことん道を究めることです。方谷はこれら三つの大枠を与え、後は自由にさせていました。弟子たちは生
き生きと伸びて行ったと思はれます。
具体的には声に出して本を読ませる素読を徹底的に行ったが、一人一人の発達度合いに応じてやらせました。
人数が多く成ると、弟子が先生と成って教えたと言います。読んだ事を生かして漢詩を作らせたりもしました。
方谷の教育姿勢は「至誠惻怛(しせいそくたつ)」で、誠を尽くし慈しみをもって接することでした。情熱を持って塾
生を教えて居ました。
当時は朱子学が江戸幕府の学問。方谷は朱子学を理解した上で陽明学も教えました。新しい物好きな面もあり、
洋学の盛んな津山藩へ学びにも行って居ました。黒船や海外の情勢にも詳しく、聖書を全部読んでいるような記
述も有るのです。
藩主に見出され農民から藩政改革の責任者になった方谷にとって、一番の力に成ったのは多くの弟子たちでした。
商才のある者は商売を発展させ、江戸に出て偉く成る人も出ました。こうして地域が活性化して要ったのです。
千人を超えるとされる弟子は幅広く、政治家や実業家のほか医者もいました。
方谷は教育で地域を変えました。日本は今財政難と言われますが、何に投資するかと言えば教育です。すぐに効
果は出ませんが長期的には一番役に立つのではないでしょうか。
最期に小説「山田方谷の夢」(2011年発行)で私なりに方谷の言葉をまとめた一節を紹介します。
「人は夢を持つときが肝腎なり。されども夢を実現せんとすれば、先ず自
ら努力することを忘するべからず。唯必ず我が夢は叶うと信じるのみ。」
野島透略歴:山田方谷の直系六代目子孫。東京大学卒業後、旧大蔵省入省。財務省大臣官房文書課室長を
経て同会計課長などを経て7月から現職。方谷の改革に関心を持って、約10年前から研究を続け、著書
に「山田方谷の夢」「山田方谷に学ぶ改革成功の鍵」などが有る。「山田方谷を広める会」応援連絡会顧
問などを務める。NHK大河ドラマ化に向けた署名活動にも協力しています。